第124話 個の認知
商業大国アカソの朝は早い。今日の、明日の、将来の為に富を築かんとする大声は、道往く人々を引き留めようと大通りに響き渡る。
昨晩起きた宿屋の騒動など、一商人にしてみれば海辺の漣程度。冷酷なモノだ。自身に関係が無いと見るや他人の商売が、人生がどうなろうと構う事は無い。感情を持つほぼ全ての生物の持つ一面だろう。
それなのにどうしてなのか。人はそんな冷酷な部分を視ようとはせず、ただ忠実に欲へと向かう。誰も責めたりはしない。勿論だ、自身も含めその目に映る者も同じだと無意識に頭に擦り込まれているのだから。
カーテンの閉め忘れた窓辺から差す光は、きめ細やかな透き通る肌に熱を、大きな瞳に刺激を与えていった。幼いミーツ族の介抱に疲れ切った身体を労う事もなく。
「ん……朝……ハッ!!」
咄嗟にベッドから上体を起こしたマミは、慌てた様子で周囲を見渡す。だが目的は直ぐに達成された。左手に触れた毛を確認し安堵の表情を浮かべる。小さな身体は呼吸と共に小刻みに動き、生を実感させた。
マミの起床に気付いた幼いミーツ族は、愛らしい表情と鳴き声で今日の始まりを喜んだ。
「ニャー」
「儂、寝てしもたんか」
「ニャーン」
「おはよ。挨拶をくれるんはお前だけやな」
血の滲んでいた脚は処置され、綺麗に拭かれた身体を優しく撫でる。
「お前、名前あるんか?」
「ニャーン」
幼いミーツ族から帰ってくる返事はただの鳴き声。マミには勿論理解できない。人は理解出来ない事に対しては、自身の解釈で物事を進めようとする。良くも悪くも。
理解の及ばない鳴き声に返した言葉も、理解されているかも分からない。反応で更に自身の解釈を広げていくだけだ。
「無いんかいな。ほな儂が付けたる。んー……」
柔らかい体毛を撫でながら外に広がる新緑を見つめた。
「そろそろ夏かいな。そや! こなつ! 初夏に会うた小さな身体、こなつや!」
「ニャーン」
「お前は今日からこなつや! 分かったな?」
「にゃーん」
両手で抱え上げられたこなつは、嬉しそうに鳴くのだった。
そんな微笑ましい朝のひと時に、扉をノックする音がマミの表情を険しくさせる。
「入るぞ」
そこには深夜の会談を終えたばかりの父イロウの姿があった。
「もう起きていたのか」
「なんや」
「昨晩、変わった事は無かったか」
「ああ? そんなん知らんわ。爺にでも聞いたらええんちゃうか」
「そうか」
「そんだけ? 朝から何言うと思うたらそんだけかいな」
「頼む、疲れているんだ。そう攻撃的にならないでくれ」
「起きたばっかに掛ける言葉がそれじゃ機嫌も悪なるわ」
「そうか。朝食の準備をさせよう。降りてきなさい」
イロウはそのまま部屋を後にした。
「は? ほんまにそれだけかいな、気分わるっ。なーこなつ、この家にはマトモな奴がおらんねん。儂から離れるなや? 何されるか分からんで」
マミは暫くした後、こなつを抱いたまま部屋を後にした。
向かった先は地下牢。いくら初夏と言えど、石造りの地下牢は冷え切っている。リムは慣れた様子で牢の中央で大の字で涎を垂らしていた。
自分の立場を分かっていないその様を見たマミは、力強く鉄格子を蹴り上げる。再び静まり返る中、マミの眉間には血管が浮きでていた。
「起きーや! 自分の立場、分かってんかハゲ!」
「ん……Dカップ……」
「能天気通り越してお花畑かいな。おい! 起き―言うてんねん!」
再び鉄格子が振動する程に蹴られ、地下牢に響き渡る金属音。
「んぁ……おはよ……」
「なんやコイツ等、いつのまに増えてんねん。全部仲間か?」
「……」
リムは寝惚け眼ながらも、マミをじっと見つめる。
「っとに朝っから機嫌悪いわホンマ」
「おはよー」
「儂はなんも知らん体やけど、いずれオトンは気付くやろうからそれまでには目ぇ覚ましときや」
「おはよー!!」
「あぁ?」
マミの会話を聞いてか知らずか、リムは連呼する。
「だからおはよーって!」
「な、なんやいきなり」
「いきなりもクソも無いだろ。起きたらおはよーだ!」
「……」
マミにとってその意味は勿論分かっていた。だが理解が出来なかった。
「お前、挨拶も出来ねーの?」
「う、うっさいねんハゲ! 儂は知らん奴に挨拶なんかせん!」
「ああそうかよ。じゃあオレも知らね」
「だから自分の立場分かってんかハゲ!」
「ハゲハゲ言うなや! 儂女!」
マミの機嫌の悪さがピークを迎える。抱えていたこなつを冷え切った石の床に降ろすとポキリと指を鳴らし始める。
「誰が何やて? もっぺん言うてみいや!」
「ああ!? 何回でも言ってやるよ! 儂女! 挨拶も人の名前も碌に言えない奴が、こっちが考えた名前で呼ばれて文句言ってんじゃねえよ!」
両手から伸びるネイルが、僅かな松明の灯りに反射し鋭利さを伺わせる。
「ケッ! どうせそんなこったろうと思ったよ。どいつもこいつも脅せば言う事を聞くとでも思ってるのかねえ」
「……」
怒りに身を震わせる身体を辛うじて抑制し、首をも簡単に跳ね飛ばすその指は静かに下ろされた。
「いくで、こなつ」
「なんだよ、なんもしないのかよ」
「どったのリムちん」
「いや、なんでもない」
地下牢を後にするマミの背中はどこか寂しさを感じさせる。見つめるリムの表情は険しいものだった。