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鉄路の旅人~春~

作者: まーさん

 僕は自分のことを、旅人だと自称している。だけど他の人から言わせると鉄オタ……鉄道オタクと呼ばれる部類の人間なのだそうだ。

 鉄オタにも乗り鉄だとか、写真を撮ることに燃える撮り鉄だとか、時刻表が愛読書というスジ鉄だとか、収集鉄とか、模型鉄とか……色々なジャンルがあって、僕はその分類で言うと、どこにも当てはまらない中途半端な鉄かもしれない。強いて言うなら乗り鉄かな。

 女の子よりも鉄道な僕は、恋人いない歴もイコール年齢。大学を出て、就職した会社は二ヶ月で辞めた……というより会社が潰れた。以来、僕は正職につかず、バイトでまとまった金が溜まるごとに数週間かけてあちこちの鉄道の路線を旅してまわっている。親は嘆いているが結構この生活が楽しくてはや三年。一応最近はたまに写真と共に紀行文を雑誌に寄稿して原稿料をもらっているので、これだって仕事なのかもしれない。鉄オタも捨てたもんじゃないと思うのだ。

 かと言って別に日本の鉄道の全路線に乗ろうとか、全駅制覇しようとかそんな大それた野望はない。そんなに車両に詳しいわけでもない。ただ僕は鉄道の旅が好きなだけだ。

 リズミカルに規則正しく響く走行音、車両ごとに違う警笛、独特の言い回しの車掌のアナウンスを心地よく聞きながら、窓の外に流れる風景をただ見るだけで心が踊る。

 山、川、海沿い……この広いとは言えない島国の日本。鉄路は人の体の中にある血管のようにあらゆる場所を繋いでいる。自動車のように自由に横道に入れるでも、途中で止まれるでもない。停車するのは駅だけ。時間も分刻み、秒単位で正確に管理されていて、個人の都合で変えられはしない。だけど、そんな決められた時間と軌道の上だけでも、それぞれの場所で駅舎も景色も、そして利用客も様々。僕はそんな鉄道の旅はとても奥深いと思うのだ。

 早くてカッコイイ特急や新幹線の移動も快適で好きだ。でも僕が一番好きなのは、一両か二両だけのワンマンのローカル線の各駅停車の旅。

 気になる駅、気に入った景色に出会えたらふらりと降りる。ど田舎を走るローカル線だと下手をすれば何時間も次の列車を待つことにもなるし、最悪の場合次の日の朝までもう便がない時もあったりする。それはそれで冒険だ。そんな時は、あれば近くで宿をとるか、無ければ駅のベンチで寝袋で寝る。決してバスやタクシーで都会に戻るのを急いだりしないのが僕のこだわり。過疎線は近くに民家も疎らな無人駅もざらなので、ほぼ駅泊になってしまうけどね。真冬と真夏はキツイけど、まあ好きだから我慢できる。

 そんな僕の鉄路の旅の途中で巡り合った不思議な話をしよう。


 僕がその駅に辿り着いたのは偶然だった。

 今回は思い切って遠出して山地を走る路線に列車に揺られに来てみた。

 少し大きな地方都市から出発し、山間の町へと伸びた電化さえされていない単線の路線。その終着駅を目指して二両だけの普通列車に揺られて行く。

 かつてはまだ先にも炭鉱線が繋がっていたそうだが、十五年以上前に廃線になっている。炭鉱が栄えた昔は賑やかだったという終着駅の近くには、そう有名では無いものの温泉もあるそうなので、駅泊はしなくていいかもしれない。

 町ではもう満開だった桜。雪も多いというこの地方ではやっとチラホラと咲きはじめたばかり。澄んだ水の流れる渓流沿いや、まだ田植えの季節には早い田園が広がる景色の中を行く列車からの眺めにどこか日本の原風景という懐かしさを覚える。旅にはとてもいい季節だ。

 いかにも都会の私鉄のお下がりという、この古びた車両も僕は好きだ。

「ご乗車ありがとうございます。この列車は○山発、△石行きです。次は木○ぅー。木○ー。お降りの際はお忘れ物ございませんよう――――」

 なぜ、どこの車内アナウンスも鼻が詰まったような声の独特の言い回しなのだろうな……これがいいんだけど……などと僕が思っていると、僕以外はお年寄りが数人しか乗車していない列車は減速に入り、警笛と共に踏切を超えて、数駅目の小さな田舎町の駅に入った。無人駅みたいだ。

 列車は、古い車両特有のキキキィーという軋んだブレーキ音を響かせて停車する。

 へぇ、なかなか感じのいい駅だな……と何気なく見渡していて、木造の古びた駅舎横の大きな桜の木になぜか心惹かれた。まだ三分咲きくらいだが、とても枝ぶりがよく立派な木。

 駅舎もかなり古く白いペンキも剥げ気味なりに、少し洋風の丸いステンドグラスが洒落ている。

 気のせいかな、この路線に来たのは初めてのはずなのに、僕はここをよく知ってるような? よく似た雰囲気の場所はあちこちにあるから記憶が混同しているだけだろうか。

 そう本数のある路線でもないので途中下車する予定は無かったけれど、何かに導かれるように僕は無意識に荷物を持ってホームへと降りていた。

 程なく発車を告げるホイッスル音が聞こえ、プシュッと音を立ててドアが閉まる。

 まあいいか。次の列車に乗れば夜までには終点まで行ける。

 ゆっくりとホームから出ていく列車。

 さて、ゆっくり素敵な桜の木と駅舎の写真でも撮ろうかなと、カメラを構えて、まずは小さくなっていく列車の後ろ姿をフレームに収めていて僕はまた思った。

 やっぱりここ、知っている気がする。なんだろう、酷く懐かしく思える。

 ふいに頭のなかに浮かんだのは景色。それは記憶なのだろうか。


 ――駅舎はもっと綺麗だった。小さいながらも駅員がいて、利用客も多くて。だからもっと何両も連結した長い車両を見送ったものだ。それに桜の木はまだ小さくて――


 ちょっと待て。僕は一体何を思い出したというのだろうか。

 同時に、僕をじっと見ている人の視線に気がついた。列車に気を取られていてその人の存在に気が付かなかったけれど、ホームのベンチに誰かいた。

 上品そうな白髪のおばあさんだ。七十すぎくらいかな。グレーのコートに煉瓦色の帽子がとてもお洒落。先の列車から降りた乗客は僕だけ。横に杖を置き、毛糸のひざ掛けを掛けているのは、長いことここに座っていたのだろうか。

 この人は乗らなくてよかったのかな? それとも誰かを待っていたのか。そんな疑問が浮かんだものの、他人のことをあれこれ詮索するのも良くない。

 目が合ったから軽く会釈をして通り過ぎようとした。

 でもそこでそのおばあさんが一言声を上げる。とても小さな、掠れた声で。

「おかえりなさい」

 僕に言ったのかな? 他の人に宛てた挨拶かなと思わず辺りを見渡したが、僕以外に人はいない。

 おかえりと言われても、僕はこの土地の人間ではないし、この駅に来たのは初めてなのに。誰かと間違ってるのか?

 じっと僕を見たまま、おばあさんは杖を支えに立ち上がろうとしている。手は震えているし、足に力が入っていないのがわかるその動きがとても危なっかしく、今にも倒れそうだったので、思わず駆け寄って支えに手を出した。

「大丈夫ですか?」

 僕は面倒事が嫌いなくせに、いつもお年寄りや子供に席を譲ったり、こうして手を貸したりしてしまう。お節介だと友人達は笑うけれど、どうしても放ってはおけないのだ。

 掴んだ腕の細さにどきりとした。今にも折れそうな骨だけのような腕。

 そんな僕の戸惑いなど気にした様子もなく、おばあさんは僕の方を見たまま。そして小さく呟く。

「間違いないわ……ちゃんとわかった。他の人とは全然違う。姿は変わっていても本当にわかるものなのね。約束を守ってくれるって信じてた」

 今にも泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな表情でおばあさんは言った。でも何のことか僕にはさっぱりわからない。

 姿は変わっていても? 約束?

「あの……」

 声を掛けようとすると、おばあさんは少し悲しそうな顔になった。

「こんなおばあちゃんになっちゃったからわからないのかしら? 私よ、若葉よ」

「え、ええと……」

 まるで久しぶりに会った恋人にでも語りかけるような口調で言われても。名前を名乗られたところで、もちろん心当たりもない。僕はまだ二十代だ。自分の祖母以外にこんな歳の知り合いがいるはずもなく。

 わけがわからなくて早くこの場から去りたかった。でも傷つけるのも辛いし。

「す、少し時間をください。思い出してみます」

「そうね。何十年も経って生まれ変わったのだからすぐには思い出せないわね。もう少しここで待っているから、必ず思い出して帰ってきてね」

 僕のその場逃れの言葉に、再び明るい顔になったおばあさんに胸がチクリとした。

 思い出すも何も……それに生まれ変わったって何の事だろうか。僕が?

 なんだか少し怖くなってきた。

僕はもう一度若葉と名乗ったおばあさんをそっとベンチに戻るよう促すと、足早に改札に向かった。本当はこのまま次の列車を待っても良かったところだが一旦駅を離れよう。

 この駅には自動改札の機械など無く、乗車券の回収箱と乗車証明書の発行機があるだけだった。回収箱に切符を放り込み、逃げるように駅から出た。


 駅前と言っても閑散とした眺め。良く言えば昭和レトロな、悪く言えば時間に取り残されて静かに消えていくのを待つだけの谷あいの小さな田舎町という風情。

 川と山を控えた駅前の道沿いには商店の名の入った行灯みたいな形の街灯と数件の店舗らしき建物が並んでいるけれど、半分くらいはもう営業していないのがわかる。人は住んではいるようだが、古びた看板だけを残して商売はしていない感じ。


 ――駅前ももっと店があって、ちょっとした商店街になってて、近隣のもっと山奥の人が休みになると集まって買い物に来るくらいには活気があったのに――


 あれ? まただ。また僕は何を思ってるんだろう。昔の様子なんて知る由もないのに。

 僕は振り切るように大きく深呼吸して、気を取り直して歩き出した。

 とりあえず現役で頑張っているっぽい、無駄にカタカナの名前で看板にパトランプが営業していることを主張しているという、昭和の匂いがプンプンする佇まいの喫茶店を見つけたので入ってみることにした。

 軽食くらいはやっているだろう。始発駅で駅弁を買い損ねたので昼食を摂りたい。

 ロゴ入りのガラスのドアを押し開けると、ドアベルがレトロな音をたてる。

 テーブル席が二つほどど、カウンターしか無い小さな喫茶店は、入るとコーヒーと食事とタバコの混じった独特のニオイがした。清潔にしていても長年積もり積もったそんなニオイ。古い駅の待合にも似てる。嫌いではない。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうには母ほどの歳の女の人。この店のママさんだろうか。他に店員らしき人もいないので一人でやっているのだろう。

 今、この時間は他にお客さんもいないみたいだ。

 カウンターの隅に掛けて荷物を置くと、すかさずおしぼりと水が出て来た。日焼けしたビニール張りのメニューは意外と品数がある。一人で作るには時間がかかりそうなので、無難にコーヒーとミックスサンドを頼むと、ママさんはすぐにカウンターの向こうで用意をはじめた。コーヒーのサイホンなんて久しぶりに見るな。

 待っている間、ポケットから時刻表を取り出して見ていると、ママさんが手元に視線を落としたまま言った。

「遠くから?」

 他にお客さんはいないから僕に言ったのか。あまり遠くから人が来る事も無いんだろうな。

「え、まあ……」

「駅でおばあさんに声を掛けられなかった?」

 訊かれて少しドキッとした。

「はい。どうしてそれを? 若葉さんとおっしゃいました。あのおばあさんは……」

「ここからもう少し奥の集落の人でね、三年くらい前からいつも桜の咲くこの時期になると毎日のように駅に来るんですよ。もう名物みたいなものよ。いないと逆に心配になっちゃうくらいにね。まあ滅多に都会の方から来る人はいないけど、たまにあなたみたいに学生でもない他所から来た若い男の人が下り列車から降りてきたら『おかえりなさい』って声を掛けるんですよ。でも、珍しいわね。名前まで名乗られた人は初めてじゃない? 」

 へぇ、そうなんだ。名物おばあさんだったんだ。そして僕は名前まで聞いた珍しい人間なのか。

『間違いないわ……他の人とは全然違う』

 そういえばそんな事を言っていたな。姿は変わっていてもとか、生まれ変わったとも言ってたけど、意味はわからない。僕が誰かに雰囲気が似ているのだろうか。

「あの人は誰かを待っておられるんですかね」

「さあねぇ……たぶんもう痴呆が入ってんでしょうね。でも今年は体が酷く弱ったみたいで一人では来られなくて、娘さんに連れてきてもらっているのよ。次が下りの最終だから、そろそろ迎えに来る頃よ」

 店のママさんがそう言った直後、店のドアベルがカランカランと涼やかな音をたてて、来客を告げる。

少しくたびれた感じの中年のおばさんが入ってきた。ママさんと同じくらいの歳かな。常連さんらしく、ママさんが親しげに声を掛ける。

「いらっしゃい。お迎えご苦労様ねぇ」

 隅の小さなテーブル席に座ったおばさんに水を持っていく途中、ママさんは僕の横を通り過ぎる時に小さく言う。

「若葉さんの娘さんよ」

 なるほど噂をすればなんとやらというタイミングだったのか。

 娘さんと言う言葉に少々違和感があったものの、あのおばあさんの娘だったら丁度よい歳だな。

 コーヒーを頼んだその人は、ママさんに愚痴をこぼすように言った。

「そろそろ病院に戻さないと相当キツイはずなのに……今日は酷く帰るのを嫌がるのよ。下りの最終は次の便ですよね? それが行けばたぶん諦めてくれると思うから、それまで待たせてくれます?」

「もちろん。ゆっくりして行って」

 ママさんがそう答えると、若葉おばあさんの娘さんは、大きく溜息をついた。とても疲れているようだ。病院とか言ってるところを見ると、あのおばあさんは病気なのだろうか。すごく弱ってるみたいだったものな……と、そこで、人の話を勝手に聞いてあれこれ詮索している自分に気がついて、振り切るようにもう一度時刻表と店の壁の時計に目をやった。

 現在午後二時少し前。次の便まであと二時間もある。

 注文した品が出てきたので、無言で遅い昼食を味わった。垢抜けないけれど、どこか懐かしい味のするサンドとコーヒーだった。

 しばらくして、他にお客さんも来ないので暇になったのか、ママさんはカウンターを出てきておばあさんの娘さんの席へ移動し、二人で何か少し喋っていた。極力聞かないようにと思っていたが、突然ママさんが言うのが聞こえて思いがけず僕もその中に入れられてしまった。

「今日はあちらの旅行者のお兄さんが捕まったみたいよ」

慌てて振り向くと、二人が僕の方を見ていた。

ちょっと! わざわざ言わなくてもいいのに。娘さんがすごく申し訳無さそうな顔になったじゃないか。

「あら、それは……ごめんなさいね。嫌な思いをさせたんじゃないですか?」

「いえ、そんなことは」

 こちらこそ申し訳ない気持ちになる。考えてみれば、声を掛けられた事には嫌な気はしなかったな。怖くなって逃げるように駅を出てきたけれど、それは他の何かが怖かったからだ。

 生まれ変わったからというのが。そして、初めて来たはずのこの駅や町にあるはずもない記憶のようなものが自分にあるのがわかったから。

 気がつくと、僕も娘さんの席の方へ移動していた。

「えっと……良かったら少し話を聞かせてもらえませんか?」

 僕は何を言ってるんだろうか。

 ふらりと立ち寄った旅先で、見ず知らずの人に立ち入った事を聞くなんて失礼じゃないか。

 でもそんな赤の他人の言葉に、娘さんは嫌な顔はしなかった。

 ぼつりぽつりと、娘さんは話してくれた。

「母は末期ガンでね、もう長くないんですよ。去年までは毎日一人で来てたけど、今年はもう一人では歩けないくらい弱ってて……痛み止めで何とか誤魔化してるだけなのに」

 先に支えた時の骨のような腕の細さを思い出して、悲しい気分になった。なるほど、そういうことだったのか。そんな体になって、送ってもらってまでも若葉さんが駅に来る目的とは一体何なのだろうか。

 深く気にする必要は無いのかもしれないけれど、なぜかしら放っておくことが出来ない僕はやっぱりお節介なのだろうか。

「どうして無理をしてまで駅に来るのか、何か聞いておられますか?」

 そう言ってから、僕は一言付け足した。

「その……なんだか気になって」

 娘さんは少し苦笑いした後、僕に語ってくれた。

「母が言うには、昔、もう亡くなった誰かと別れ際に約束したそうなんですよ。生まれ変わったら桜の咲く頃にこの駅に『ただいま』と帰ってくるって」

 

――駅舎の横の桜が舞う春の日。大きな荷物を抱えて町へ向かう上りの列車をただ黙って待つ。横で泣きながら俯いているのは若い女の子――


 あ、まただ。知りもしないはずの風景が頭に浮かんで、僕は目を閉じて小さく頭を振った。

「どうしました?」

 娘さんが僕の顔を心配そうに見ていた。

「いえ……そうですか。そんな約束をされてたんですね」

「しっかりしているようでも痴呆が進んでいて、記憶が若い頃に戻っちゃったのかもしれないですけどね。馬鹿馬鹿しい話だけど、母ももう長くないのがわかっているから、最後くらい好きにさせてあげたくて」

 悲しい顔で娘さんは笑みを浮かべた。

 最後くらいは……その言葉が胸に突き刺さるようだ。

「すみません、なんか立ち入った事を聞いてしまって」

「こちらこそごめんなさいね。変な話をして」

「そんなことは無いです。とても素敵だと思いました」

 そう言うと、娘さんはホッとした表情になった。後になって思えば、きっと一人で色々と抱えているのがこの人も辛かったのだろうと思う。誰でもいい、話をすれば少しは楽になるものだ。たとえそれが見ず知らずの人間であっても。

「誰か、嘘でもいいから『ただいま』って言ってあげたら、きっと納得すると思うんだけどね」

 横からママさんが軽い口調で挟んだ言葉にハッとした。

 そうだ……若葉さんはその一言を待っているんだ。

 嘘をつくのは正直嫌だ。だけど、僕はお節介だ。話を聞いて事情をしってしまった以上は。

 それに、その場逃れの言葉だったとはいえ、少し時間をくださいと言った。まだホームにいるというのなら、僕は約束を守らないといけない気がするのだ。

 もう冷めてしまったコーヒーの残りを流し込むと、僕は立ち上がった。

「少し写真を撮りたいので、僕はまた駅に戻ります。ごちそうさまでした」

 お金を払うとき、ママさんが僕のカメラを見て言った。

「記者か何かのお仕事ですか?」

「いえ、ただの旅人です」

 喫茶店のママさんと娘さんに手を振って、僕は店を後にした。


 まだ列車も来ない。待つ人もいない。そんな駅のホームの片隅のベンチに、その人はまだ座って桜を見上げていた。

 僕が近寄るとこちらを見て、黙って鳥のように首を傾げたその人の目は待っている。

「さっきはすぐに思い出せなくてすみません。あの……」

 僕は勇気を出して一言告げた。

「ただいま、若葉さん」

 そう言った瞬間、齢が刻む皺を湛えた上品そうな顔の頬に、一筋の涙が流れてドキッとした。でも悲しそうな顔じゃない。とても晴れやかな、安堵したような表情。

「待ってた……五十年もそう言ってくれるのを……」

 僕は、もう一人で立つことも出来ないほど弱ってしまった彼女と、桜の木の下のベンチに並んで掛けた。手編みっぽい毛糸のひざ掛けを掛けなおしてあげると、若葉さんは嬉しそうだった。

 時折聞こえる駅前の道路を行き過ぎる車の音と、駅舎の屋根でさえずる小鳥の声、まだ冷たさの残る春の風が過る音以外は、ほとんど何も無い静けさの中。午後の日差しがなんとなく景色を金色じみた色に染めはじめた、そんな穏やかな時。次の列車が来るまでの時間、僕達はただ並んで座っていた。

 駅前の喫茶店で聞いた話と、娘さんが語った話、それに彼女本人がぽつりぽつりと語る思い出話から察するに、若葉さんは若い頃にこの駅から旅立っていった恋人を待っていたのだとわかった。

 その人は別れてすぐ、若くして死んでしまった事も若葉さんは知っている。若葉さんはその後違う人と結婚して家庭を築き、子供を授かり育て上げて、孫も見て……そして数年前旦那さんは先だった。本人も直後にもう手の施しようも無いガンを患っていることがわかり、歳もあって進行は遅かったものの段々と弱って余命僅か。

 最後に彼女が思い出したのが、若くして別れた恋人の残した約束の言葉だったのだ。


『約束しよう。僕が先に死んで生まれ変わっても、この桜の咲く頃に「ただいま」と、この駅に帰って来る。その時には姿は変わっていても僕をみつけておくれ』


 どうして愛し合っていた二人が別れたのかは僕にはわからない。色々と一緒になれない事情があったのだろう。だけど彼はすぐに亡くなったらしいから、ひょっとしたら自分の死期をわかっていて愛しているがゆえに去っていったとも推測できる。もしそうだとしたら僕も男だからだろうか、なんとなく気持ちはわからなくもない。若葉さんの幸せを願って去ったのだろう。そして彼がそんな事を言ったのも、約束というより自分の願いをこめた遺言みたいなものだったのではないだろうか。

 それでも、自分にも死期の迫った今、若葉さんはその人のとの約束が叶う奇跡を待ったのだ。素人の僕が言うのもなんだが、他の人が言うように痴呆からくる記憶の退行がなせるわざなどで無いのはわかる。きっとそれほどまでに好きだった人なのだろう。幸せな家庭生活を営みながらも、心のどこかでずっと抱え続けてきた想い。旦那さんが先立って、死ぬ前にその想いを叶えるために賭けたのだ。

 僕は若葉さんの待っていた人になりすました、酷い嘘つきかもしれない。だけど、若葉さんの最後の望みを叶えてあげられたのなら、思い残すことが無くなって人生の終着駅に迷わずに辿り着けるのなら、嘘をついたことに後悔は無い。

 何よりも、初めて来たこの駅の昔の記憶がなぜ自分にあるのかもよくわからない。それに今日まで知らなかった他人で、歳も自分の祖母ほどの女性だというのに、この若葉さんとこうして座っているとホッとする。僕が若葉さんの死んだ恋人の生まれ変わりなのだとしたら、嘘じゃないのだから。僕は約束を守ったのだから。

 遠くで踏切の音が聞こえる。

 運転士と同じデザインの愛用の懐中時計をちらりと見ると、次の列車の到着時刻まで後二分ほど。

 僕が時間を確かめたのが若葉さんは気になったみたいだ。

「せっかく帰ってきたのに……また、旅に出るの?」

 ほんの少し、若葉さんの顔が翳って胸が痛くなった。でも僕は行かなきゃ。早く病院に戻してあげなきゃ、きっと体が辛いだろうし、娘さんも待ってる。

「はい。だから今度は次の世で会いましょう。そう……あの桜の咲く頃にまた『ただいま』ってまた帰ってきますよ。だからもう無理しないで。残りの時間を娘さん達と穏やかに過ごしてください」

 自分でもなんでそんな事を言ったのかよくわからない。宛もない約束をするなんて自分でも酷いなと思う。

 若葉さんは俯いて震える手を自分の胸に当てて、小さく頷いた。

「そうね……あなたは約束を守ってくれた。思い残すことは無くなったわ」

 そして若葉さんは顔を上げ、ふわりと笑って、まるで悪戯っ子のように言う。

「生まれ変わったらまた私は『おかえりなさい』と迎えるわね。あなたの大好きだったこの桜の咲く頃に。ふふ、今度は私のほうがきっと若いわ。それでもあなたは見つけてくれるかしら? それに、乗る人も少ない今、この鉄道は無くなってしまうかもしれない。その時にこの駅があるかしら?」

 一瞬、笑顔の若葉おばあちゃんがまだ若い美しい女性に見えたのは気のせいかな。

「見つけますよ。たとえこの路線が廃線になって、この駅が無くなっていても、きっとこの桜の木は残るでしょう。ここで、また会いましょう」

 二人で見上げた桜の木はまだ満開には遠い。

 この桜がハラハラと淡紅の雪のように花びらを散らせ、彼女の名前と同じ緑の葉が茂る頃に、この人はこの世にいるだろうか。

 これからこの人が死を迎えようという事には、不思議と同情や憐憫を覚えない。ただ、ささやかな願いが叶った今、辛さから早く開放され、残された時間を心穏やかに過ごしてほしいとだけ強く思い、涙が出そうになる。

 かたん、かたん、と音が聞こえはじめた。列車が来たみたいだ。

 僕は荷物を持って立ち上がる。

 汽笛と軋んだブレーキ音。他に乗る人もいないホームに滑り込んできた列車。これが今日の下りの最終列車。

「いってらっしゃい」

 若葉さんが笑顔で小さく手を振る。

「いってきます」

 僕も涙を堪え、笑顔を作って敬礼で告げた。それが旅立ちの合図。

 くすんだ赤の古びた車両。ドアが開いて、乗り込むまで僕は振り返らなかった。

 席に着き、窓から桜の木の下のベンチを見ると、迎えに来た娘さんに支えられながらも、若葉さんはまだ弱々しく手を振り続けていた。腕を持ち上げるのもやっとなのに。

 何十年か前も、こうやって旅立つ恋人を見送ったのだろう。きっと列車が見えなくなるまで彼女はああしている。泣き顔でなく、笑みを湛えた穏やかな顔なのが救い。

 動きはじめた列車は小さな駅を後にした。


 本当に僕が若葉さんの待っていた人の生まれ変わりなのかどうかはわからない。何か不思議な力が働いて、誰かの記憶をそっと後続列車のような僕に託したのかもしれない。だけど、初めて来たはずのこの駅に懐かしさを覚えるのも、知るはずもない昔のこの駅の景色が頭に過ぎったのも、桜の木に惹かれて途中下車したのも、ただ単に偶然とは言えない気がするのも確かだ。

 それに……もしも人が生まれ変われるのだとしても、前の世で交わした約束など覚えていられるのだろうか。でもほんの少し、何十年か経ってこの駅にもう一度来た時に、誰かに『おかえりなさい』って言われたいな、そう思う。その時は僕も『ただいま』って言おう。

 言葉に出来ない、むず痒いような、痛いような、それでいて甘酸っぱい気もする――そんな感覚に囚われながら、僕は目指す終着駅までの便に揺られていた。


 決められた時間に分刻み秒刻みで運行されるダイヤ。敷かれた軌道からふらりと横道に逸れることも無く、不測の事態以外は駅以外で途中停車することもない日本の鉄道。だけどそんなレールの上にも色んな物語がある。出会いも、別れも、不思議な事も。

 それぞれの人の思いを乗せて、今日もリズミカルな音を響かせながら列車は走る。

 廃線になり、そこから列車の音が消えても、歴史の中や人の心のなかで走り続ける。

 僕はこれからも鉄路の旅人でありたいと思う。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 激しいぶつかり合いがあるわけでもなく、燃えるような恋慕もなく、穏やかなストーリーの中で感動できました。「こんな小説を書きたいな」と思えるような作品でしたよ。
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