五月雨
京の都は、灰色の雲が空を覆い雨模様です。
《 五月雨の 空なつかしき たもとかな
軒のあやめの 香るしづくに (※慈円)》
[※ 五月雨の空に心ひかれるまでに、香るわたしの袖の袂です。軒に葺いたあやめが香り、雨と共に滴りおちる雫に濡れています。]
しとしとと、屋根から落ちる雫を見つめていればそんな和歌がふっと思い出され、しみじみとその美しさに魅せられます。
「小式部さん」
鞠子の側に控えていた小式部に、周防が声をかけました。
小式部にそっと手渡したのは、やはり文でした。小式部はとてもモテますから、きっと男性からの文に違いありません。
「どんなお歌?」
鞠子は微笑んで小式部に聞きました。
小式部がその美しい薄様に書かれた文をそっと鞠子に見せてきますと、そこにはほのかな香りも趣味がよく
《 雨やまぬ 軒の玉水 かずしらず
恋しき事の まさるころかな (※平兼盛)》
[※ 雨がやまない軒先から宝石のように透きとおった雨水が数えきれないほど落ちてきて、その雨のしずくが落ちるようにとめどなく、あなたへの恋しさがまさる日々ですよ]
堂々とした筆運びの男手で書かれた和歌でした。
まさにこちらでも見ていた雨の雫をその男性も眺めて、小式部を恋しく想っていたと思い浮かぶような、恋歌です。
小式部もその率直な和歌に満更でもない様子で、やんごとない公達(と、文からは予想される)と美しい女房の恋のさやあてなんて、いかにも物語的でうきうきとしてしまいます。
こんな雨ですから、訪ねてくるひとも居ないでしょうと思っていたのですけれど、遠くから先払いの声が聞こえてきました。
「あら...こんな雨の中を」
衛門が開いていた絵巻物を片付け、そして他の女房たちも室内を整えて来客に備えます。
そして雨のしたたる中を姿を現したのは、朝霧の中将とそれから鞠子はまだはじめて会う洗練された公達の二人でした。
「こんな雨の日に、訪ねて来られるなんて」
「このような日だからこそ、お訪ねした方が“趣ある人”というものなのでしょう?」
ああ、と鞠子は微笑みました。
「女御さまに、私の友人の兵部卿の宮をご紹介しますよ」
「兵部卿の宮さまと仰ると」
「ええ、主上とは従兄弟になります」
道理でどことなく帝と雰囲気が重なるようだと思いました、そして声も似ています。この兵部卿の宮の方が少しばかり生真面目な様には見え、篤雅と友人だというのが何となくわかりました。
そして、篤雅の母は、先の帝の妹宮ですから、兄とも従兄弟と言うことです。
「このような天気だからこそ、女御さまをお慰めしなくてはと二人で参ったのですよ」
「まぁ...それはとても嬉しいですわ」
「私の龍笛と箏の琴と合わせませんか?」
兵部卿の宮がそう言うと、袋から見事な龍笛を出してこられます。
「それはとても楽しそうですわ」
鞠子が答えると、菊乃や少納言など女房たちが琴を前に置いたり整えて、準備を察したらしい兵部卿の宮は龍笛を構えて吹き始めました。さすがは宮さまというべきか、その名笛は素晴らしい音色を響かせて、鞠子はそこに音を重ねて爪弾きました。
雨音がしとしとと奏でる音と共に、殿舎に響くその合奏はいかにも宮中らしくてとても優雅でそして楽しい一時となりました。
「今日...おいでになられたのは、やんごとない(※高貴な方)辺りの命ですの?」
御簾ごしにこっそりと鞠子は篤雅に訪ねると、湿った空気が濃厚な兄の香を伝えて来ました。
爽やかさのあるその香は篤雅らしくてとても心地のよい物です。
「さて、女御さまは私が誰かに命じられないと動けない若輩だと申される?」
クスリと篤雅は微笑みました。
先日の、麗景殿の女御との贈り物やり取りは、かなり麗景殿の女御を怒らせてしまったらしく、気色の優れない女御を宥めるのに帝はあちらに通いづめだとか。
それが意識的だとすれば、麗景殿の女御は大したものです。
それ故に鞠子の元へはしばらく足は遠のいていて、帝に似た兵部卿の宮と彼の友人であり、鞠子の兄である朝霧の中将 篤雅をお使わしになったのだとそう思われました。
「まぁ、兄上さま。そのような事を思うわけがありませんのに」
「まぁ、実際に私はまだまだ若輩者だからね」
そう穏やかに話す口ぶりは鞠子の心を慰めてくれました。
度々こうして、訪ねてきてくれるのはとても心強いものです。
兵部卿の宮は手すさびに、龍笛を吹き鳴らしていて下さって、その程よく力の抜けた様子もなんともゆったりと優雅な方です。
やはりその姿は帝にすこしばかり似ていて、まざまざとその姿を思い出されます。
《 さみだれに 君とおもひし 音を聞けば
まだ来ぬ人の 音や恋しき 》
[※ 雨がふっているのを眺めていると、私の思うあなたに似た人の声を聞きました。姿の見ないあなたの声が聞きたいものです。]
そして、この和歌を鞠子は篤雅に託しました。
そうすると、文使いの童が、程なくして返歌をもってやって来ました。帝の返事はなかなかの素速さで返ってきたのです。
《 五月雨に 雫に染めし 姿かな
思ふ音かと 玉水ながめ 》
[※ 五月雨の雫に、私の想いが染まって影となり、あなたの元へ行ったようですね。私もあなたの声が聞こえないかと玉水(宝石)のような雨粒を見ながら眺めています。]
(...ほんとに眺めてるとは思えないけれど)
雨はまだまだ降り続きそうで、そして帝はこの夜も、鞠子の元へは来ませんでした。
来なければ来ないで...。
なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
知らず深いため息が出るのは、雨天のせいでは、それだけではないのです。