桜の宴
桜の宴が紫宸殿で執り行われる事となり、鞠子もまた席を用意され、帝の後ろに控えていました。
少し前には麗景殿の女御、そして鞠子の横には梅壺の女御がしっとりと優雅に座しております。
日がくれて紫宸殿は、松明に照らされ幽玄の世界を作り上げていた。上達目たち貴なる方々が、束帯姿で居並ぶ様はとても雅やかでした。
「ここには慣れたかしら?藤壺のお方」
麗景殿の女御が、半身だけ鞠子へと向けて扇ごしに微笑を浮かべつつ尋ねてきました。
「はい...心安らかに過ごさせております」
「そう...ほんに可愛らしい女の童のようですから、このお役目は大変かと思っておりましたの」
(また、この方はわたくしの事を子供だと強調して...)
「まぁ...そこまでご心配下さってありがたい事ですわ。麗景殿の女御さまも色々とご心配がおありでしょうに」
「あら、わたくしに心配事?何かしら?」
「花の色は...と言いますし」
《 花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに (※小野小町)※①》
[※① 桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。]
「まぁ!」
(あからさま過ぎたかしら?)
そのやり取りにクスリと笑みを漏らしたのは梅壺の女御である。
「確かに藤壺のお方から見れば、わたくしたちはそのような歌もしっくりとしていても仕方ないわ」
梅壺の女御は、帝よりも4歳年上、麗景殿の女御も3歳年上であった。鞠子は帝よりも5歳年下。二人よりも随分と年少なのでした。
つまりは、鞠子を子供だというならばあなたは色あせたおばさんだと返したのです。
「梅壺まで」
ギラリとした瞳で睨まれれば、なまじ美しい人なだけに迫力がありました。
「そう、睨むでないよ薔子」
可笑しそうに微笑みながら扇を鳴らし
「薔子も、鞠子も。ご覧、美しいだろう?」
御簾ごしに見えるのは、楽に合わせて舞い踊る麗しい公達の姿。
艶やかで、そして華やかなこの世の春。
兄の 篤雅が舞っていた。
詩歌を詠じながら、ひとさし舞う様は桜の花の下でまるで桜の精がこの世に現れたかのよう。
そして、篤行と夏風の少将が二人舞を披露する。
対のような二人は、素晴らしい技を見せつけて、よりいっそう宴を盛り上げため息と、喝采が起こる。
先程のやり取りで機嫌を損ねた麗景殿の女御だが、帝がしきりに杯をすすめたからか、すっかり白い肌の頬が朱に染まっていて黒い髪との対比がとても艶かしい。
「大事ないか?」
心配そうに見やるその帝の姿が目に入り、
「わたくしは...そろそろ休ませてもらいますわ」
すこし具合も悪そうな気色もあり、ふらついているようにも思えます。
「そうなさるとよい。誰かある!」
そう帝が呼ぶと、女房たちがさやさやと寄ってきて麗景殿の女御を支えるかのように局へと下がっていき、そうしてまた
「わたくしもそろそろ、下がらせて頂きますわ」
梅壺の女御もそう声を出した。
「慧子もか、疲れたか?」
「ええ、少しばかり。今日は、面白いものが見れましたから」
しゅっと、きれのよい衣擦れの音をさせて梅壺の女御は退出していきました。
「鞠子、こちらへおいで」
帝の隣に座り直せば
「飲んだことはあるだろう?」
「少しなら」
杯を渡され、少し口をつける。
「...麗景殿は、酒に弱いのだ」
クククッと笑えば
「大人しげな顔をして、なかなかの返しだったな」
「聞いていらしたのですね」
「まあな」
ばつが悪いというのはこういうことかと鞠子は杯を空にしました。
「あまり、美味しくありませんが、癖にはなりそうです」
お酒を飲んで鞠子は眉を寄せた。
少しずつ杯を重ねていけば、ほわほわと夢見心地になり、外の賑やかな管弦の音が更に酔いを加速させてしまうようでした。
帝と女御が寄り添うように座っているからか、女房たちは少し遠巻きで、帝と鞠子の距離は近づくばかり。
ゆったりと、背を覆う黒髪をすく手が心地よく鞠子は自然と笑みになる。
間近にある、目の前の形よい唇に、酒の雫が光っていて、まるで誘うように見え顔を寄せて接吻をしてしまう。
「酔っているな...?」
「主上がいけないのですわ。わたくしに飲ませたのですもの」
「いけないのは、そなたの唇の方だな」
笑えば、そのまま深い接吻を返されて鞠子は帝の胸元へすがりついた。
するりと力が抜けてしまうと、帝は鞠子を支えて
「やれやれこれでは本当に女の童と言われても仕方ないな」
「あら、それでは主上は枯れる寸前の老爺ですの?」
くすくすと笑えば、
「ならば、今から確かめてみるか?」
ぞくりとするほどの妖艶ともいえる笑みを返されて、その腕に抱き上げられる。
「若き女御を酔わせてしまったようだ。このまま私は下がるが、皆はこのまま宴を楽しむがよい」
そう帝は言いおくと、軽々と鞠子を抱えたまま渡殿を通りの藤壺へと迷いなく寝所へと入っていきました。
「さて...私の若き女御の君。ご機嫌はいかがかな?」
「とてもご機嫌はよろしいわ。主上」
「なるほど、これからは少しばかりの酒を飲ませるように言いつけよう」
しゅるりと、紐はほどかれ裳が外れ、そして唐衣を脱ぎ五つ衣が床に彩りも綾な流れを作った。
女衣と男衣が重なり、新たな彩りを作ってゆく。
細い腕を伸ばして、その背に手を回す。
「今宵の鞠子は、男を誘う艶やかな蝶のようだ」
「主上は、それに誘われて下さったの?」
くすくすと笑えば
「その答えは...わかっているだろうに」
(どうしようもない...この人に惹かれてしまうのは...)
「わたくしは、あなたではありませんから...その答えは分かるはずもありません」
《 いろ染めし 白妙にほふ 心へと
会ひてわかれに まどふこの名を ※② 》
[ ※②色に染まった白い布のように、香の匂いも色づくように私の心は変わりました。貴方と会って離れるときに切なくなるこの気持ちを何と呼ぶのかその名前を知っていますか?]
そのふと浮かんだ和歌は、言葉にもそして文字にも出来ない。
それはこれまでの、表面の和歌ではなくて...鞠子の心そのものだから。それを知れば、離れてしまうそんな気もして、認めれば辛くなるだけな気がして。
「なるほどな...。鞠子にそれでは教えてやろう、私の名を」
「お名を...。ではお聞かせ下さりませ」
「ならばこれからは 清嶺とそう呼べ」
「清嶺さま」
「そうだ」
名前を、お教えになるなど...、なんて思わせ振りな事。
帝は、鞠子たち女御を等しく大切にするけれど、誰か一人を愛したりはしないのに、この方はこうして女の心を容易く手にしてしまうのでしょう
「帝ならぬ、清嶺さま」
「呼んだか?」
「呼びましたわ」
「どうした」
「呼びたかった、只それだけです」
「そうか」
この時ばかりは、ただの清嶺とそして鞠子という男女が二人きりで過ごしているだけ。
身分も他の女御たちも、左大臣家も何もかも、忘れて。
「きょうの限りの命ともがな...」
《 忘れじの 行く末までは 難ければ
今日を限りの 命ともがな (※儀同三司母)※③》
[※③「いつまでも忘れない」という言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。]
こんな事を呟いてしまうなんて、なんて女とは他愛のないものなのでしょうか...。
お読みくださりありがとうございました
平安時代は、名前を教える事はプロポーズのような意味だそうです。ですから、そのような解釈でお読みくださると嬉しいです。