抜き身の刀
鞠子が宮中に出仕して、次の吉日が占われ初夜の日取りが決まりました。
その日前には、朝から髪を洗い、乾くまでじっと寝ていなくてはなりません。何もすることが出来ないので本当に苦痛な一日です。
この時代、長ければ長いほど美人だと言われる女性の髪ですから、3歳の髪置きからずっと伸ばし続けて来ています。
鞠子の髪も深窓の姫君らしく、身長を越すほどに伸びておりました。
(...本当に、帝はどんな方かしら...)
篤時は鞠子を帝の女御へと野心をずっと秘めて来たようですから、邸に訪れる兄 篤雅と篤行の友人たちに鞠子と接しないようにと、鞠子の居住はたいそう奥まった部屋にありました。
その為に父以外の異性とは本当に面識もなく、そうしてこのように入内となってしまい全く想像もつきません。
いよいよ、その日薄明かりの中を帝のお渡りを待つことになったのです。
やがて、格子越しに、夜目に白と緋色の袴の御引き直衣の姿。上背のある男性が鞠子の目に入りました。
御引き直衣を身に纏うのは、この世で帝ただ一人。
「そこにいるは誰ぞ?今宵は月も美しい...。端近くまで来て共にどうか?」
その宵闇に響く声は艶やかでした。
衛門が心得たように、するりと御簾を開けて
「こちらには藤壺の方がおいでです。姫君もただいま月を眺めておりました、是非にと仰せでいらせられます」
と帝に伝え、そのまま帝を寝所へとお通しし、再び妻戸を閉じて局へと下がって行きました。
「ご覧。月明かりで灯りも要らないくらいの美しさだ」
ゆったりと話されるその様子は、高位の男性らしくゆとりと教養を感じさせました。
格子越しに見えるその月は、確かに美しいまでの満月で夜空を照していました。その月明かりの下で、照らされたのはうつくしく整った、源氏の君もかくやという麗しい姿です。
しかし...。
鞠子は思いきって、帝へと口を開くことに...
「主上に申し上げたき事がございます」
「なにかな、藤壺」
無礼は承知であるけれど、ここで言わなくてはと指をついて頭を下げました。
「主上にはすでに麗景殿の御方と梅壺の御方がいらせられます。わたくしの父、篤時は権勢をさらに手にしようという、腹黒い男にて...。その為にもわたくしは、ここへ。ですから、わたくしのことはこのまま、捨て置いて下さりませ」
「...ほぅ?つまりは寵愛を受けたくないと、そう申すと?」
「はい、その通りでございます」
「ふっ...興あり」
パチリと扇を鳴らす音が、室内に響き、そしてシンと消えていきます。
「え...ならば、聞いてくださると...」
「二人の女御がおることも、篤時が権勢を欲している事も、私は承知の事。そなたの意思はしかと聞いた。
しかし、私には男皇子が必要だ。お主がそれを拒むというならば、それなりの覚悟をもって言っているのだな?」
几帳の中にいた鞠子の近くに帝はお立ちになると、圧倒するような気配がひしひしと押し寄せ、緊張に倒れそうに、そして逃げ出したくなりました。
「...覚悟...」
「月影の少将、刀を」
外に声をかければ、応じる気配があり刀が差し入れられる。
月影の少将は右近の少将のあだ名で、その人物は鞠子の兄の篤行のことでした。
明るく華やかな左近の少将 夏風の少将と対として、すこし影のある妖艶な雰囲気の漂う篤行はそう呼ばれています。
「これを使う事を赦してやろう」
そう、言い目の前におかれその白々と光る抜き身の刀が恐ろしい。
「私はこの国の帝である。上達目たちが各々思惑があろうことなど承知しておる。それを上手く律するのが私の役目ぞ。それがまさか、そなたは出来ぬと侮るか?」
はっと思わず、顔をあげてしまう。
「ここまで話してもまだ意思が変わらねば、喉をついて死に、一族朗党を路頭に迷わすか、それともただちに私を大人しく受け入れるか、選ばせてやろう。私は寛大だからな」
眼を見開いた鞠子はそれに手を触れることすら躊躇い身動き一つ取ることも出来ませんでした。
「さて...この内裏を血で穢す、それほどの強き思いでこの神にも並ぶべき私に逆らうというのか?」
神にも等しいその存在。それが目の前のこの方です。
「...浅はかな事を申し上げました。お許し下さりませ」
勘気を悟り、鞠子は震えつつ更に深く頭を下げて許しをただひたすらに乞います。
その様子を見て、刀を鞘に納め外に控えている篤行にそれを再び返しました。
外のその気配は遠くなり、また二人きりの空間となりまた違った緊張に身がすくんでひたすらに身をちぢこめ言葉を待ちました。
「名はなんという?」
「鞠子と、申します」
「では、鞠子。そなたは女御として宣除を受け、もはやこの私の物だ。どのように扱おうと、誰も助けに来ぬと心得よ」
「どのように、とは」
「深窓のおとなしやかな姫君ならば優しゅう扱おうと思っていたがな、その気性なら、その必要もあるまい」
くくっと喉で笑うような、その身に相応しい尊大な響き。
「なにを...なさるおつもりですか?」
小さくそして、掠れた声は鞠子の唇から零れました。
「知らぬ、とは言わせぬ。今宵はお前の初夜だ」
しゅっ、と衣擦れの音と共にその白き衣が極々近くに距離を詰めて思わず制止の言葉が出てくる。
「お待ち下さいませ」
「そなたは私だけの女御。私の子を産むが役目、お前の感情など知らぬ...従え鞠子」
無意識の怯えが脳裏を支配して、後退りして頭を振る。
「い、や」
「抵抗するな、無理強いは趣味ではないが逆らうなら仕方ない」
「ですが...!」
「黙るがよい、これ以上騒げば痛みを得ても知らぬ」
痛いのは、嫌でした。
それに...目の前のこの方はとても、恐ろしい。
「そう、力を抜け。されば、極楽へ行けよう」
その美しい衣越しに、力強く抱き締められ真上から落とされる接吻は、息苦しいほど。
えもいわれぬ高貴な薫りは、それ自体が力を持つかのように鞠子を包み込みそして、未知の世界へ導いてゆく。
暗闇に浮かぶ眼差しは、さっき見た抜き身の刀のよう。
(男君というものは...こんなに、大きくて力強いものなのね...)
帝は上背もあれば、その腕も鞠子とは全く違いそのまた身体はいうまでもなく。
接吻は苦しいほどに喘がせ、そして体の力を奪い尽くす。しゅるりと紐を一つひけば、女衣装はあっけなく秘めたその肌を晒させてしまう。
「そうだ、鞠子...そのまま私に身を任せよ」
帝の衣と、そして鞠子の衣と、明るければまるで美しい色の重なりが目を楽しませたであろう...。
それは褥の畳の上に拡がり、どこか扇情的でもありました。
「すべらかで美しい髪だ」
指先で掬いとられ、ゆっくりとすかれると感覚があろうはずもないのに、感じたことのない感覚が小さな炎のように燃え上がる。
「主上わたくしは...どうなりますか」
「そのまま、目を閉じて流れに逆らわず」
「はい...」
「なかなか、素直な所もあるのだな」
ふっと微笑まれ、鞠子は言われるままに目を閉じた。
圧倒的な存在感とその力強さはちっぽけな抵抗などものともせずに、その意思の元に支配していった。
帝の、衣と、鞠子の衣とを交換して、衛門が身仕度を整え帝は夜明け前に清涼殿へと帰っていきました。
そして、その朝早く。
《 春の日に 目にあたらしき 花と見ゆ
触れば忘れじ 花なりし君 ※ ①》
[ ※① 春に新たな花の香りに気づきました。その花はこんなにすぐ側にあったのですね。触れればなおいっそう忘れられない美しい花の君です]
帝からはそのような和歌が桜の枝と共に翌朝に届きました。
「まぁ、なんて見事なお手蹟!女御さま、すぐにご返歌を」
興奮している衛門を横目に、のろのろと体を起こして机に向かい、筆を取りました。
《 春の野は あまたの花の 香りあり
見つけし花の 名さへ知らぬや ※② 》
[ ※② この春の野にはあまたの花が咲いております。新たな香りとは間違いでは?貴方の野には他にも香しい花が咲いています]
鞠子はそのような和歌を返しました。
あっちへ行けとも、だから淋しいの。とも取れる返歌です。
でも、これが限界でした。
「まぁ、そのようにお辛そうに泣かれて...」
「初めは皆そうだと申しますよ、今宵もおいでになられますから、ゆるりとなさいませ」
「今宵も...来られるというの?」
「ええ、明日までは。初めは3日通うのが夫婦の正式な契りでございますから」
そんな事はわかっている。
「今日だけは体調が悪いからとお断りしてちょうだい」
「あらまぁまるで童のような事を」
ほほほっと笑われ、
「熱もなきに、お断りはできませぬ」
「衛門や、お前の主人はいったい誰?」
「もちろん、藤壺の女御さまにござります。ですけれど、女御様よりもこの世に並ぶべき者のない帝は更に仕えるべきお方です」
「わたくしが苦しんでいるというのに、なんて女房なのでしょう。かわいそうなわたくし」
女房たちは華やかな宮中にすっかりと夢中でおしゃべりの花が咲いています。