昨日もこの場所で
流れるような人の波を、かいくぐって逆走する。
ぶつかるなんてヘマはしない。
こちとら、8年も縦社会のビッグウェーブを乗りこなしてきたんだぜ。
このくらいで目を回しているレベルじゃないのよ。
しかし。
「あちー、あちー、あちーなーあ」
走りながら、思わず憤りが口からこぼれる。
Yシャツの袖をまくってあらわになった腕でもって、額の汗をぬぐう。
もう9月も半ばだっていうのに、なんだこの破壊的な暑さは。
午後の太陽は、容赦なく街を焼きつくす。
焦げたアスファルトから、カゲロウがゆらゆらと立ちのぼっている。
地面についた革靴の底から、溶けていくんじゃないかと思った。
地下鉄へ降りる階段をいったんは通り過ぎて。
ふと、立ち止まった。
誰かに呼ばれた気がしたからだ。
よく知っている声のような気もするけれど、まったくはじめて聴くもののような気もする。
振り返ると。
ちょうどいちばんてっぺんの段をのぼり切ったところで、その場にしゃがみこむ女性がいた。
「大丈夫ですか」
慌てて駆け寄ると、彼女は青ざめた顔でうっすらと微笑んだ。
「平気です。ちょっと貧血持ちなんで」
そういった持病は、清楚でいかにもはかなげなタイプがなるものだと思っていたが、誤解だったようだ。
目の前の女性は、顔立ちもメイクも派手で、ツンとつり上がった目が活発さを感じさせる。
なんだか、1年前にフラれたあの子を思い出す。
「手ぇ貸しますか。休めるとこまで行きましょう。あぁ、でもオレに触ったら妊娠しますよ。まぁ、そん時はしかたない。嫁に来てください」
手のひらをスラックスでゴシゴシとこすりながら言い、差し出した。
彼女は一瞬キョトンとして。
すぐに噴き出した。
「親切なんだか、あつかましいんだか」
「そうなんですよ。よく言われるんです。でも、あなたみたいな好反応ははじめてですよ。たいてい舌打ちされます」
「でしょうね」
そう言いながらも、彼女の表情には不愉快さは浮かんでいなかった。
お願いします、と手を握ってきさえした。
彼女の温度は、痛いほどの暑さの中なのに少しだけ冷たくて、心臓をドキリとさせた。
「オレ、キソダニっていいます。呼びにくいと思うんで、キソって呼んでください」
「シホです」
「お仕事中じゃないんですか?」
100メートルほど歩いたところで見つけた、ファストフード店のカウンターで、彼女は心配そうに尋ねてきた。
オレがネクタイを締めていたからだろう。
「じゃないんです。昼休みなんすよ。ちょっとセンパイに買い出しを頼まれまして」
「あ、じゃあ、すぐ戻らないと。待ってるんじゃないですか?」
と、彼女のほうが慌てる。
「いやぁ、いいのいいの」
さっきまで手首にぶら下げていたコンビニのナイロン袋を、カウンター机の隅に隅にと追いやった。
「もう手遅れなんで」
「え?」
「いや、こっちの話です。そんなことより、具合はどうですか」
すると、彼女は猫のような瞳の目尻を垂らして、くったくなく歯を見せ、ペコリと頭を下げた。
キツい印象が、そうするとガラリと変わる。
「おかげさまで、もう平気です。ちょっと暑かったせいですかね。……あ」
「はい?」
「なんか……漏れてますよ」
彼女が、オレの肩の向こうを指さす。
振り向くと、先程の袋がくにゃりとこうべをうなだれて、先端からトロリとした白い液体を吐き出していた。
テーブルの上だけならまだしも、床にまで進出していたのには、正直参った。
急いで紙ナプキンを数枚手に取り、店員の目を気にしながら床をふき、テーブルもふき、素知らぬ顔で袋ごとダストインする。
「いやぁ、失礼しました。あなたの美しさに理性が負けまして。オレの先っぽから欲望がダダ漏れしました」
これはさすがに引くかな、と様子をうかがった。
彼女は目をしばたたく。
そして豪快に噴き出したかと思うと、手を叩いて笑い転げた。
「アイスですか?」
涙を浮かべている。
「アイスです」
嘘をつく必要も感じられない。
「いいんですか、捨てちゃって。また買いに行かないと」
「いいんですよ。こんな炎天下にそんなものを買いに行かせるほうがどうかしてるんです」
「確かに」
彼女はひとしきり笑い終わったあと、マスカラを気にかけつつ、言う。
「おもしろい人ですね」
いやぁ、と頭をかいてみるものの、悪い気はしない。
「ご迷惑おかけしました。ありがとうございました」
店の外に出たとたん、肌を刺すような陽射しが照りつける。
右手を額にかざしひさしにして、彼女は丁寧に頭を下げた。
「アイス、申し訳ないことしちゃいましたね」
と上げた瞳には、イタズラっぽい笑みが含まれている。
「いいんですよ。気にしないで」
オレはまったく気にしていない。
じゃあ、と軽く手を上げ、方向転換したところで、ふと気になって質問をしてみた。
「これから、どちらへ?」
お前に知る権利なんかないわ!ととがめられるのも覚悟していたのに、彼女は踏み出した足を止めて、微笑んでくれた。
「公園を抜けたところのライブハウスに。大好きなミュージシャンが、結婚1周年記念のアコースティックギターライブをやるんです」
「へぇ。そういえば、オレの知り合いにもいますよ。ギターがめちゃめちゃうまいミュージシャン」
言いながら、知り合いと呼べるほどのものではないな、と思う。
たった1度顔を合わせて、握手をしただけ。
やたら男前のその彼が、あの子をかっさらって行ってしまった。
いや、もとからあの子は彼のものだった。
もう1年も経つから、今さら胸を痛めることもないが、ほんの少しの悔しさは残る。
「あの、もうひとつだけ」
けして淡白な性格ではないと自覚してはいるが、ここまで粘るのも珍しいことだと自分で驚く。
「最初に会った時、オレのこと呼びませんでしたか」
自意識過剰も頬を赤らめるセリフだ。
「いえ」
彼女は不思議そうに首をかしげる。
「名前も知らないのに」
「そうでしょうよね。すいません」
こめかみをかく。
「あの、あのあの、もうひとつ、いいですかね」
人差し指を立てる。
そろそろ呆れる頃だろうと思うのに、それでも彼女は不機嫌さのかけらも見せないでつき合ってくれた。
「なんでしょう?」
「あの……なんて言うか、昨日も、あなたに会えていたら、なんて。そしたら、今日も会えたって、きっと、嬉しかっただろうなって……なんて、ダメですかね」
ハハハ、と顔は笑ってみたけれど、心は泣きべそだった。
あまりの陳腐さに、しっぽどころか尻まで巻いて逃げ出したくなった。
彼女はポカンとした。
当然だ。
でも、耳を疑うべきことに、次の瞬間、彼女はクスクスと漏らし出して、それから言った。
「そうですね。じゃあ明日、またあの階段口で会いませんか」
「明日?」
本当に?
「はい。明日会ったら、今日が昨日になるじゃないですか。ダメですかね」
と今度は彼女のほうが訊き返してきた。
「いいえ」
即答するに決まっている。
きっと、胸をはずませ、人混みをかきわけ、走っていくことだろう。
明日のオレから、今日のキミに。
昨日、またこの場所で。
(fin)