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北陸クトゥルフ紀行(仮)  作者: 大滝龍司
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七 シラヤマガミ


 船岡神社のあの一室で、俺は理渡に事の顛末を話して聞かせた。


 視線を下に落とせば、座布団の上にかいた胡坐が、記憶に蘇った恐怖ゆえに震えている。


 長い話のようで、実際に口に出してみれば、あっさりと終わってしまった。言葉ではこんなにも短く言い表せるもののために、俺は今まで苦しんでいたのか。ふと、そんな思いが胸中をよぎる。


 全てを語り終わるまで、俺の対面に座る理渡は相槌すら打たず、ただ黙って聞き役に徹していた。聞き流していないことは、やつの左目が監視するかのように絶えずこちらに向けていたことでわかる。


「……事情は、理解しました」


 俺が話し終わってからしばし後、理渡はそう言って目を伏せた。随分と久しぶりに、その声を間近で聞いたような気がする。


 理渡から電話を受け、俺が再び――今度は見失わずに――船岡神社へと辿りついてから、こいつの口数は以前とは比べ物にならないほど減じていた。元々饒舌ではなかったが、鳥居の下で俺を出迎えて、社務所に招きいれ、部屋まで案内する間、理渡の薄い唇には沈黙が根ざしていた。


 愚人に対する怒りか、それとも哀れみゆえか。


 しかし、次に理渡が見せた動きは、俺の予想外のものだった。


「まずは、お詫びと、そしてお礼を」


 理渡が俺に対し、頭を下げた。


「良かれと思い、早急に記憶を封じたことが、かえって真舘さんを苦しめてしまいました。それから、このたびのあらましを語っていただき、ありがとうございます。これで、ようやく事態の全貌をつかむことが、できました」


 突然の言葉に呆然とする俺を前にして、理渡は顔を再び上げる。


 その一連の動作は、沈む時も浮かぶ時も非常に所作が整っていたため、長い黒髪が乱れることはなかった。


「それで、それが」


 理渡は目を開き、俺が後生大事に抱える、包みに視線を投げる。


「そうだ」


 震える手で俺は包みを解き、中からそれを取り出した。


 家永たちを破滅に追いやった、元凶。


 俺が記憶を取り戻したきっかけ。


「……水竜の、書」


 理渡は左目を細め、その名を口にした。



 俺が工学部棟の屋上から、本館にある総合事務に駆け込むまでの間。警察にも誰にも話していないことがあった。


 階段を下って三階に到達した時、俺は家永の所属する研究室へと向かった。屋上に姿が無かったのなら、あるいは、通り過ぎたこっちにいるかもしれない、と。


 その望みはあえなく潰えたが、あの古びた赤表紙の本が、家永の机の上に無造作に置かれているのを見つけた。


 なぜここにあるのか。そんなことを考える余裕はなかった。


 俺はそれを掴み取り、研究室を後にした。


 最初は研究棟の裏手にある焼却炉に、この忌まわしい、悪魔の本を葬ろうかとも考えた。だが俺にはできなかった。これは危険な知識であると同時に、唯一残された手がかりなのだ。もし灰塵に帰してしまえば、もう二度と、我が身に降りかかった恐怖が何であったのかを知ることができなくなる。


 とはいえ警察がこんなものを信じるはずもない。良くて証拠品として押収されはすれども、インチキ本として扱われ、保管庫に死蔵されるか、最悪破棄されてしまうだろう。


 どこかに隠す必要がある。自分の研究室に戻った俺の頭の中はそれでいっぱいになった。ロッカーに隠すか。いや、あからさまな隠蔽は、後々警察に疑惑の念を抱かれるかもしれない。山壁たちの死体を見つけた俺が取り調べを受けるのは目に見えていた。出入り口にあるカードリーダーの履歴を調べれば、ここへ一度戻ったこともバレるだろう。


 では隠し場所はどうする。


 どこへ。どこに。


 おあつらえむきな場所があるじゃないか。


 研究室は三年と四年生、そして院生が利用するに充分な広さがあり、それだけ机の数も本棚の数も多い。俺は三年生のスペースへ行くと、そこの共有本棚の一番上に無造作に水竜の書を突っ込んだ。この本棚は学術書だけでなく、漫画本や雑誌など学生たちがめいめい持ち寄った本が雑多に詰め込まれている。ここに漢文で何かが書かれた本があったところで、そうした私物の一つと思われるだろう。木を隠すなら森の中。本を隠すなら、だ。


 これ以上の偽装は思いつかなかった。俺は無人の研究室を後にし、本館の総合事務へと走った。この時の俺は冷静に判断していたと当時は思っていたが、自分で警察に電話するという発想が抜け落ちていた。それは恐ろしい体験で頭がおかしくなっていたためか、あるいは、自分のしたことが警察にバレるのを恐れたためか。どちらであったのだろう。


 結果として、水竜の書は捜査から無視され、病院から戻った俺によって回収された。あとから考えてみれば馬鹿馬鹿しい話だ。警察もまさかこんな本が原因だとは気づくわけがない。見落として当然だったろう。


 しかし、回収したこの本を、俺は紐解くことはできなかった。夜間恐怖症を発症したばかりで精神の衰弱が甚だしく、とてもこの暗黒の知識と対峙する勇気がなかったためである。


 結局俺はこれをロッカーに放り込んで鍵をかけ、記憶と共に封印してしまった。あの朝、俺が屋上で見たものは全て、死体を見たことで動揺した心が見せた幻影だったのだ。そう、己に言い聞かせながら。



「見せて、いただけますか」


 理渡が手を差し伸べてくる。


 俺はそれには応えなかった。身体の影に隠すように書を脇へどける。


「その前に。答えてくれ、あんたは一体なんなんだ」


「なに、とは?」


「あんたも、この神社も。普通の人間には見えていない。ただの人間じゃないんだろう。この本や、あの化け物と同じ存在か。それとも、なにもかも俺の夢だとでも言うのか」


「まあ」


 理渡は喜悦交じりに口と目を三日月に延ばす。


「あいかわらず、情熱的な方」


「茶化すな。あんたが事件の情報を得るために、俺に接触してきたことぐらいわかっている。こちらから連絡をとろうとした時には雲隠れしやがって。あんたが何なのか、何を目的にしているのか、それを俺のほうも知っていいはずだろう?」


 俺はやつの眼光に負けじと睨み返す。


「そうでなければ。これをあんたに渡すわけにはいかない」



 それに対し、理渡は。


「……ふふ」


 クスクスと、笑いを含んだ吐息を口の端から漏らした。


「真舘さんが先に、私を見つけたのでしょう」


「なに……?」


「私が、隠れたんじゃない。あなたが、見えなくなっただけ」


 理渡は身をのりだし、俺の前の畳に手をつく。


「あなたは、時折どこか別の世界を、見ることがあるでしょう。夢か現か、見わけのつかない時が」


 理渡の頭が、俺の胸あたりの高さにまで沈む。


「人ならざるモノたちの世界。あなたが言う、普通の人間が見ることのない世界」


 なまめかしく蠢く眼球が、俺を見上げる。


「たまに、いるの。あなたのような人が。夢を見て、夢を歩き、夢を持ち帰ることができる、夢見人が」


 白く細い手が、俺の胸元にあたる。水死体のように冷え冷えとした手の平に、たまらず鳥肌が立った。


 その感触におののくように、俺は声を絞り出す。


「……福井の、黒瀬神社……」


 あの神社の階段下に停めた車内で、俺は夢を見た。


 夢の中で社殿の中を歩き。


 ある物を持ち帰った。


「それ以前にも、あったでしょう」


 俺の胸にあてた手を支点として、理渡が上体を起こす。目の前で細い身体が上がるその様は、白い大蛇を思わせた。


「私が書いた、あの紙。あれが、あなたと私を、引き合わせた」


 事務室前の掲示板。


 わずか二行の、小さな紙。


「あれは、お前の罠か」


「ふふっ」


 予期しない問いかけだったのか、目の前の薄紅色をした唇から愉快げな声が漏れる。


「罠。ええ、罠。そうかもしれない。あれは目印。禁忌に触れた人は、時として夢見人になることがある。もし、あの場所で、なにかを見た人がいたなら。この世にあらざるものを見た人がいたなら、私の言葉も見えるはず。でも……」


 理渡は両手で俺の顔に左右から触れる。籠か、あるいは檻を閉めるように。


「あなたは、私の予想以上だった。私の文字を読めただけじゃない。私を見ることができた。あなたと最初に出会った時。それからあなたの大学で出会った時。私は、あなたたちの世界にはいなかったのに」


「どういう……」


「あなたには、素質がある」


 今や理渡の顔は、胡坐をかいて座る俺の頭より上にあった。膝をついた格好で、俺の顔に指を這わせる。水飛沫を浴びるように冷気が肌を伝う。


「あなたは夢見人。きっと、その血には、修験者か、巫女か、なにかしらの血が流れている。それが恐ろしい目にあって、目覚めた」


「おまえは、いったいなんだ」


 無意識に、言葉が口を出た。


 そんな話をする、目の前にいる女は誰だ。


 オマエ ハ ナニモノ ダ


「私は」


 理渡の両の掌が、俺の顔を固定するように頬を包む。


「シラヤマガミ」


 その時。


 俺の頭が、後ろから掴まれた。


「…………!?」


 理渡の両手は、確かに俺の顔を掴んでいる。


 三番目の手が、誰かの手が、後ろから頭を掴んでいた。


 今まで俺の背後に、人の気配などなかったというのに……!


「人と人ならざるモノの間に立つ者。顕界と幽界、人界と神界の境を行き交う者」


 咄嗟に拘束を解こうと動いた両手が、また誰かの手に掴まれる。


 右手首に一つ、左手首に二つの冷たい掌がからみつく感触。理渡の両手に顔を固定されている俺には、それを見ることが出来ない。


「人と神とを繋ぐ橋。その間に横たわる水の流れ」


 上から理渡の目が降りてくる。


 境の神。


 水の神。


「く、菊理媛……」


「そう呼ばれることも、ある。あるいは白山権現。白山比咩神」


 いくつもの手が背後からまとわりつく。二の腕に、腰に、胸元に、足に。


 俺の視界に映るのは理渡の顔だけ。己を縛る戒めを見ることはできない。誰がそうしているのか。それとも、誰もいないのか。知ることはできない。


「あなたたちが神と呼ぶもの。神に奉じられしモノたちの末裔」


 四肢を伝って冷気と恐怖がよじ上ってくる。


 氷室の中に迷い込んだように。閉じ込められたように。


「おま、えは……」


 神なのか。


 それとも。


 俺たちが今まで神だと思っていた、ナニカなのか。


「……ふふ」


 俺の眼前にある表情が和らいだ。


 やにわに理渡は脱力し、俺の肩に両腕を回すようにして覆いかぶさる。


 理渡の頭が、俺の頭の側面へとまわり、きめ細かな黒髪が頬と顎を撫でた。


「私は、夢」


 ささやく吐息が、耳朶とうなじをくすぐる。


「あなたの、夢」


 そして。


 パシャンという水音と共に、理渡と戒めの全てが溶けた。



 気がつくと、部屋の中は元通りになっていた。


 理渡は先ほどまでと寸分違わぬ姿勢で、俺の対面に座っている。


「……今のが、おまえの言う、夢というやつか」


 俺は自由になった――と感じる――手で、耳の上の髪を触る。


 汗か、それとも。髪の毛はわずかに湿り気を帯びていた。


「実際に、見ていただければ、信じてもらえると、思いましたから」


 すました風に言うが、そこには微量の悪戯っ気が混ざっているような気がした。


「あれは、別の世界なのか。それとも、普通の人間には見えていないだけで、あれこそが本当の、世界、なのか……」


 言ううちに、そら恐ろしくなった。


 人間の目では紫外線や赤外線は知覚できない。


 それと同じように、人類が生み出したあらゆる科学装置を用いても、認識しえない領域があるのではないか。


 そしてそこには、人を殺す怪物や、理渡のような得体の知れない存在が、人知れず闊歩している……。


「どちらかと言えば、前者」


 俺の不安を知ってか知らずか、理渡は答える。


「人の世界と人ならざるモノの世界は、普段は滅多に交わることのない、水と油のようなもの。その境界を越えることができるのは、あなたのような夢見人か、私のような者ぐらいでしょう」


「……おまえはどっちだ」


 人と、人ならざるモノと、おまえは言う。


「人間の味方か。それとも」


「私は、境に立つもの」


 あらかじめ用意していた答えであるかのような、よどみない返事だった。


「荒ぶる神を鎮め、彷徨い人を送り返す番人。神が人を害するのなら人の味方に、人が神を害するのなら神の味方になる。それが私の役目」


 それが、理渡が自認する己のあり方ということか。


「なら今は」


「真舘さんたちを襲ったものを、止めねばなりません。あれは、境界を越えてしまいました。元いた場所に戻すか、あるいは滅ぼすしか、ないでしょう」


「剛毅なことだ。アレが殺せるのか」


「他に手段が、ないのであれば」


 そのためにも、と理渡は言う。


「そのためにも、その水竜の書を見せてください。あれがどこから来たものなのか、それを知らなければなりません」


「…………」


 俺は脇にどけていた書を見る。それはまだそこにあった。


 理渡に悪意があるのなら、さっき俺に夢を見せている間に、いくらでも奪えただろう。


「……いいだろう」


 どのみち俺には漢文はさっぱりだ。隠し持っていても有効活用できるとは思えない。


 本を受け取った理渡は、白い指をページの重なりにそわせ、そしておもむろに開く。


 無言で目を通したのち。


「……わかりました」


 それだけを言って、パタリと本を閉じた。


「真舘さん。これは、こちらで処分しても、よろしいですか」


「まて、それだけでいいのか」


「最後に知りたかったことが、これでわかりました。もう、これは必要ありません」


 理渡は水竜の書を畳みの上に置く。それに対する興味は失われているようだった。


「真舘さんは、これから、どうなさいます」


「どう、って」


「また記憶を封じますか? 今度は、さらに多くのことを、忘れるかもしれませんが」


 それはつまり、俺にもう帰れと言外に宣告するようなものだった。


 全てを忘れて元の日常に戻れと。


「……俺は」


 なにもかも投げ出して、後始末は誰かに押し付けてしまう。


 それが、一番楽な道だ。


 理渡はその手の専門家らしいじゃないか。餅は餅屋、素人の俺がこれ以上関わる必要もない。


 もとより、ただの人間の俺に、化け物退治ができようか。


「俺にも、手伝わせろ」


 だが、ことこの件に関しては、けじめをつけなければ。


「今度のことは、俺にも責任がある。家永たちの仇も討ちたい。アレを殺すのなら……」


「危険ですよ」


「わかってる。アレに襲われたらどうなるかは、よく知っている」


 頑丈な扉を破壊し、人体を挽肉に変えてしまうということを、嫌でも見せつけられた。


「……罪滅ぼしを、したいの?」


 その言葉に、心臓が一度跳ね上がる。


「……そうだ」


 罪滅ぼし。


 ああ、そうだ。俺は自分の罪を償いたい。


 本当の元凶は、俺なのだから。


「…………」


 理渡は考え込むように視線を落とす。


 どうすれば俺を諭せるかを考えているのか。最初はそう思った。


 だが、再度俺に瞳を向けた後、理渡はこう言った。


「わかりました。本来なら、危険にさらすようなことは、しないのですが。この件に関しては、真舘さんに協力していただきたいことが、あります」


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