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北陸クトゥルフ紀行(仮)  作者: 大滝龍司
3/14

二 九頭竜の社

 二日後。


 カーラジオから流れるニュースを聞き流しながら、俺は車を南へ走らせていた。


 北陸自動車道(北陸を東西に走る高速道路)は平日の朝ということもありガラガラだったが、空は台風が去った今も曇天のまま、今にも降り出しそうな暗い雲が足早に流れていった。


 石川県から福井県へと入り、県境の山地を過ぎると目の前に開けた平野が見えてくる。福井県嶺北地方に広がる、県内最大の福井平野だ。石川県の長大な加賀平野、富山県の広大な富山平野に比べれば若干小さいものの、それでも人間の身には大きな堆積平野である。


 車はやがて大きな橋に出て、雨上がりでもなお激しく音を立てる濁流の上を通過していく。


 この福井を代表する河川、九頭竜川の流れを遡った先に、今日の目的地はあった。



 ◆



 研究室に顔を出した日の晩は、結局、いつものように地獄の一夜となった。俺は朝の訪れと共に力尽きて、睡眠薬の力を借りずに意識を失った。


 目覚めたのは午前も半分を過ぎた頃。ベランダのカーテンを開けると、外の景色は強い風と雨に沈んでいた。夜ほどではないにしても、日光が差さない天気では気が滅入る。


 昨日、カーラジオの天気予報で台風が接近していると報じていたことを思い出した。進路は日本列島を直撃するコースのようだが、どうせ県内に大した影響はあるまい。


 石川県が台風の被害に遭うことは、ほとんど無い。河川の増水や強風といった間接的な影響は出るものの、他県のように学校が休校することなど数年、十数年にあるかないかだ。隣の福井県が台風で被る大きな被害と比較すると、とても隣県とは思えない差である。


 地元民は、白山が台風から守ってくれるからだと言う。南の県境に聳える白山連峰が、たとえ本州直撃コースに入った大型台風であっても、石川の地を守ってくれるからだ、と。この話は時として恨み混じりで語られることもある。折角の学校が休みになるチャンスが台無しだよ、という意味だ。これは小学生から大学生に至るまで変わらない。


 もっとも、その白山連峰を始めとする山脈群によって、冬は豪雪になるのだが。冬の北陸は陽の射さない日が数ヶ月も続く薄暗闇の銀世界だ。迫り来る太陽無き季節の足音に、俺の心と気分は暗澹たる陰鬱さに塗りつぶされていった。


「今日は休みだな……」


 気晴らしに外の空気でも吸おうかと、換気も兼ねて玄関の扉を開けにいく。学生寮の玄関側は、まだベランダ側より雨風が入りにくいから、濡れる心配は無い。


 ドアノブを回したところで、それに気がついた。


 投函口に、大きな茶封筒が一通、入っている。


 請求書か、ダイレクトメールか。はたまた誰かからの手紙か。確認しようと茶封筒を掴んで投函口から取り出した。


 茶封筒の表には【金沢市鈴見台二丁目イの四 ハイツ・エルム二〇三号室 真舘朗 様】と宛名が記されている。差出人の名前と住所は、裏にも表にも書かれていなかった。


 誰からかは皆目見当が付かない。それの糊口を、行儀悪く指先でビリビリと破いて開く。


 中に入っていたのは数枚の手紙。適当に一枚を取り出すと、その指ざわりには覚えがあった。いつ、どこで触れたものだったか。それを思い出した時、文字の羅列が目に潜りこんでいた。



【 真舘 朗 様


  このたびは、当方の依頼に対し

  真舘様がお受けしていただけるとみて

  改めて依頼内容の詳細をお送りする次第です。


  報酬に関しては、金五萬の他、

  真舘様が現在抱えている問題について

  当方に解決の手段がありますゆえ、

  もし依頼を達成できない場合であっても

  それを進言いたしたく思います。


  依頼に関する詳細は、

  同封する別紙二枚をご確認ください。


                石川県白山市 鶴来船岡町四六  

                       船岡神社代表 理渡 】



 同封されていた別紙とやらは他に二枚ほどあった。


 そのうち、大きいほうの紙を開く。



【○依頼内容


  福井県大野市高尾町九一〇の黒瀬神社にて荷物を回収し、

  石川県白山市鶴来本町の鶴来駅前まで運送すること。


 ○期限


  あたう限り早く。

  真舘様の予定を優先されても構いませんが、

  なるべく今週中、遅くとも今月中に。


 ○報酬


  荷物の受け渡しが完了した後、

  伍萬圓をお支払いいたします。

  また経費として参仟圓を同封いたします。


  この頃は天候も不順ですので、

  お車の運転には、くれぐれもお気をつけて。

  何卒よろしくお願いいたします。


 ○追記


  運ぶべき荷物に関して、概要を書いた指示書を同封します。

  運搬方法等については、そちらを御確認ください。        】



 残る一枚の紙には図が描かれており、これが荷物に関する指示書なのだろう。


 再度、封筒の中身を確かめると、手紙の通り千円札が三枚入っていた。


 無意味と知りながら、俺は玄関の外に首を突き出し、無人の左右を見渡す。


 俺はおもむろにスマホの履歴から坂井の番号を選び、電話をかけた。


『よぉどうした』


「少し聞きたいんだが、今そっちで俺にドッキリ仕掛けようとかいう連中はいないか?」


『いや、知らんけど。なにがあったよ』


「朝起きたら三千円送られてきていた」


『はぁ? 誰から?』


「差出人は……なんて読むんだこれ。理科の理に、橋を渡るの渡」


『理科の理に渡るねぇ。リワタル……リトか?』


「リト、じゃ男か。そんな奴、学部にいたか?」


『聞いた覚えは無いなぁ。大学絡みってのは確かなん?』


 俺の視線は、机の上に放り出されたままの、昨日持ち帰ってきた紙へと平行移動した。


「たぶん大学関連だ。それで、誰かがドッキリなりイタズラなり仕掛けてるんじゃないか、と思ってな」


『うーん、この忙しい時期にかぁ? ……そうだな、三年の奴らって可能性もあるか。先輩が病気で苦しんでるからサプライズしてやろう、とか』


「俺は皆から何だと思われてるんだ」


『気の毒に思われてるぜ、わりと。あんな事件に巻き込まれて病んじまったんじゃな。けど同情しても、表立ってお前に言えるわけねぇ。そこんところ、ほら、お前だって周りから色々言われるのは嫌だろ?』


「そりゃあ、まあ。気にしないと言えば嘘になるが」


『だーからサプライズなんじゃね? 三千円、貰ったんなら貰っとけ』


「……実はお前も一枚噛んでるとかないよな?」


『そんな面白いこと俺が参加しねぇわけねぇだろ。でも全然聞いてないんだよなぁ。ドッキリ大成功って言われたら俺にも教えてくれよ』


「わかった、わかった。その時が来たらな」


 それから二、三のやり取りをした後、俺は通話を切った。


 電話で、坂井には手紙の中身については話さなかった。今となっては、話さなかったことを若干後悔している。


 不気味だ。


 おそろしく不気味だ。


 誰が、何の目的で、こんなことをするのか。それも気になるが、一番不可解なのは、俺が事務室横の掲示板から紙を持ち帰ったことを、この手紙の主が知っていることだ。


 しかしよくよく考えてみれば、その時俺は夢遊病のように意識が不鮮明な状態であったと思われる。周囲に誰もいなかったという記憶はあるものの、それが正しいとどうして言えよう。俺が知らないだけで、誰かに見られていた可能性は十分あった。


 ではイタズラか。本当にドッキリなのか。



  真舘様が現在抱えている問題について

  当方に解決の手段があります



 その文字列をじっくりと読む。


 今の俺が抱えている問題。暗闇に対する恐怖症。そのことを話した他人は、先生や坂井といった、ごく近しい人達だけのはず。


 電話で坂井が言ったように、それを知っている後輩たちによるイタズラだろうか。それともその情報がどこかから漏れて、詐欺師の耳にでも入ったか。


 いや。本当にこれが詐欺なら、わざわざ三千円という現金を同封してくるとは思えない。気前が良すぎる。俺を陥れるための餌かもしれないが。


こいつの目的はなんだ?


 俺は差出人の名前をとっくり眺める。


 大学で俺が紙を取るところを見ていた。俺の住所を知っていた。けれども直接会わず、手紙で連絡を入れてきた。手紙の中身は怪文書一歩手前で、胡散臭い。そして恐らく、俺がこれを他人、たとえば警察に読ませても構わないと考えている。


 大学構内に入れる人間で、俺のことを知っていて、なおかつこんな手口を使う理由。


「イタズラか……」


 俺の中の磁針は、これが手の込んだ悪ふざけであるという結論に傾き始めていた。いかにも暇を持て余した大学生がやりそうな、杜撰な手だ。


 念のため、紙に書かれていた連絡先の番号に、電話をかけてみる。


「…………」


 耳を澄ませながら、呼び出し音の後に誰が出るかと身構えてみたが。


 呼び出し音すら鳴らなかった。


『おかけになった電話番号は、現在、使われておりません。もう一度、電話番号をお確かめになって、おかけ直しください……』


 録音された音声をたっぷり五秒は聞いたのち、俺は通話を切った。


「だろうな」


 もしこれが詐欺なら、デタラメな電話番号を記入するはずがない。必ず誰かしらに通じていなければ、連絡のやりとりができないからだ。これで悪徳行為を目的とした線は消えた。


 すると残る可能性は、後輩連中か誰かによるイタズラとなるわけだが。ではそのドッキリか何かに乗っておくべきだろうか。


 俺の手元には三千円という、少なくない現金がある。福井県大野市までのガソリン代くらいにはなるだろう。


 俺は変な気分のまま、しばらく迷った。後輩連中が俺を元気付けようと画策しているのか、あるいは誰かが「五万円に釣られたアホ」を笑うために仕掛けた罠か。前者なら乗ってやってもいいし、後者なら悔しい。


 しかし、どちらにしても危険性は少ないだろう。最近は変な人間による猟奇事件なんてのもあるが、ここまで丁寧な手紙を書いて待ち構えるサイコパスもいまい。いざとなったら一一〇番に頼るだけだ。


 いずれにせよ今日はどこにも行けない。もし仮に仕事を請けて出発するなら、晴れた日の早朝になる。途中で宿泊でもしない限り、日が落ちる前に金沢から福井まで行って戻ってこなければならないからだ。


 俺は瞼を閉じて一つの賭けをした。もしこのまま睡眠を取って、寝溜めすることができて、明日の朝早く睡魔に襲われず行動できるコンディションになっていたら。そんなお膳立てが叶ったら、ひとまず、福井まで行ってみようと。


 まだまだ睡眠を欲していた身体は、そのまま眠りの底へ沈んでいった。



 ◆



 そして賭けがどうなったかは、ご覧の通りというわけである。


 寝溜めは効果が無いとは言われているが、少なくとも今朝の俺から睡眠欲が消えていたのは確かだった。天気はいまだ曇天なものの、予報では午後から晴れるという。


 俺は必要な準備をし、福井を目指して出発した。



 大野の市街がある大野盆地は、山中にぽっかり空いた穴のような土地だ。地図で見ると星型のような五角形をしている。長野や松本といった、周りを山に囲まれた有名どころの小さい版と言えば分かりやすいだろうか。


 福井平野から、狭い谷をずっと登った先にある、開けた地。そうした攻めにくく守りやすい地勢からか、大野は戦国時代に城下町として栄えた。それから四百年あまり、今でも北陸の小京都として、古風な名所が残されている。残念ながら、今日のルートでは市街地のそうした風景を楽しむことはできないが。余裕がある日であれば寄ってみたかった。


 大野市の北東、山との境界に沿って九頭竜川は流れている。大野盆地の五角形のうち、北東の一辺をなぞるように。そして俺の車もそれに平行して、川沿いを上流に向け走っていた。


 この辺りは郊外も郊外、周りにあるのは田畑と山と、たまに家屋が目に入る程度。寂しい風景と言ってしまえばそれまでだが、俺はこういう山間の集落然とした景色が嫌いでは無かった。


『進行方向、三百メートル先、左折です』


 カーナビの音声が、目的地が近いことを教えてくる。


 だんだんと傾斜がきつくなっていく坂道を登りながら、俺は車を山中へと向かわせた。



 ◇



 指定された住所の町まで辿りついた時、太陽はまだ南中まで登りつめていなかった。


 朝、寮を出た正確な時間は覚えていないが、下手をすると三時間も経っていない。


 もしも今日中に石川まで戻れなかった場合に備えて、福井市内のビジネスホテルに予約は取っておいたが、この分だと日没までに寮の玄関をくぐるのは楽勝に思えた。が、何が起こるか分からない以上、用心に越したことはない。


 そう。何が起こるか分からないのだ。


 もしこれがドッキリなら、出向いた先で色々な意味での歓迎を受けるかもしれない。大学の誰かが何かを仕掛けていて、それが一時間と経たずに終わるものならまだマシなほうだ。延々と引き止められて夜を迎えてしまう最悪のケースだけは避けたかった。


 悶々としながら運転していると、カーラジオからの声が耳に入ってきた。


『特殊詐欺、撲滅キャンペーン。最近、県内では振り込め詐欺、架空請求などの特殊詐欺が流行っています。お金を振り込む前に、よく確認。また、郵便や宅配便でお金を送ることは違法です。「宅配便で金送れ」は、全て詐欺。おかしいと思ったら、すぐご相談を。福井県安全協会も、このキャンペーンを応援しています』


 犯罪防止の宣伝が終わるのと、車が目的地に到着したのは、ほぼ同じだった。


「…………」


 車を路肩に駐車して、おもむろに茶封筒を取り出す。


 中に三千円、現金が入っていた封筒だ。


「…………」


 違反行為だったのか。


 これを送りつけてきたやつも馬鹿なことだ。もっとも、そんな法律があるとは、俺も今のいままで知らなかったのだが。


 そう思って、茶封筒を眺めていると、ふと、ある事に気がついた。


「……消印が、無い」


 消印が無い。つまり郵便局を通っていない。だから。だから、この茶封筒は、直接、俺の部屋の投函口に、入れられた。


 誰に?


「……誰が入れたってんだ?」


 一人呟いた声に、背筋が震えた。なぜか振り返るのが怖くなる。後部座席には誰もいないはずだし、怖い話を聴いた時のような錯覚だという自覚もあった。だからバックミラーを見て、首を後ろに回して何もいないことを確認し、無理矢理に心を落ち着かせた。


 よく考えろ。これこそイタズラの証拠のようなものじゃないか。誰かが入れたのなら、それは俺の部屋の周りに済んでいる他の学生に違いない。暇を持て余した連中が、凝った演出をしたと考えるのが、最も違和感の無い仮説になる。


 俺が依頼の紙を持ち去ったところを、誰かが盗み見ていた。俺が誰で、どこの寮に住んでいるかも、研究室の人間に聞けば簡単にわかる。あとは予め用意しておいた茶封筒を投函口に投げ入れれば、いいだけだ。


 そんなことだろうに、どうして嫌な感じが消えないのか。


「いかん、いかん。疲れてるにも程がある」


 論理的な思考が働かない。わずか数時間のドライブで、ここまで精神に来るとは。


 座席の背もたれに身を預け、深呼吸を一回。


 そして窓の外にある階段――目的地である黒瀬神社へと続く石段――に目を向けた。


 悶々と今考えていた疑問は全て、この上にいる誰かに聞けば分かるだろう。


 もう一度息を吐き、俺はシートベルトの留め具を外した。



 石段を上った先に、黒瀬神社はあった。


 多くの神社がそうであるように、高く伸びた木々の影が、境内に落ちて木陰を作っている。


 小学生がやる『踏み外したら死ぬルール』ではないが、俺は意図して日向のみを踏みつつ社殿へと歩いていった。


 建築のことは専門外だから、特にどういう造りのものかなどと表現することはできない。ただ、名前のイメージとは違って黒色なのは瓦ぐらいで、全体的に古びている感じの木造建築、と言える程度か。


 そう、古びていた。ここまで歩いてきた石畳や砂利の間からは、雑草が茫々に生えている。手水場には水が流れていないどころか、水道が引かれていた痕跡すら無い。社殿は神様が住む場所にしては、手入れがほとんどされておらず、神社の造りをしていなければ廃墟と勘違いしただろう。


 社殿の前には賽銭箱も鈴も無く、近くで見ると屋根からも雑草が生えている。人の手がまったくこれっぽっちも入っていないことだけは確かなようだった。


「おーい」社殿に向かって声を掛け、すぐに言葉を丁寧なものに変えた。「すみませーん。誰かいませんかー。ごめんくださーい」


 返事は無かった。


 住所を間違えただろうか。だが、社殿の軒には確かに「黒瀬神社」の文字があった。掠れていて読みづらいが、たぶん、間違いない。するとここが、やはり目的地なのだ。


 どう見ても……無人。


 改めて、茶封筒に書かれていた文字を思い出す。


(荷物を『受け取れ』じゃなく『回収』ってのは、そういうことか……)


 一人で、ここから荷物を探し出して持ち出して来い。


 言外にそう指示していたのだ。


「勘弁してくれ」


 どう考えても、ここでソレが置いてあるのは社殿の中しかない。他に建物は無いのだから。


 背負っていたナップザックから、荷物について描かれた紙を取り出し、改めて目に通す。


 中央に大きく描かれているのは、円柱状の容器のようなものだ。上部に蓋がしてあり、茶筒の縦横比を正方形に近づけたような形をしている。なにやら文字か文様のようなものが描かれているが、何と読むのか、そもそも読めるものなのかは、わからない。


 その周りには注意書きがいくつか書き込まれている。


【天地無用】


【布(水を弾くものが望ましい)に包むこと】


【回収できた後、鶴来駅前に置いてください。こちらから受け取りに参ります】


 一番必要だろう【自分で見つけろ】という注意文はどこにも書かれていなかった。


 これを探し出し、持ち帰れば、五万円。ただし本当にそうなる保障は無し。


 意を決して。目に見えぬ神様に一礼した後、社殿前の階段を上がり、埃と雨露で汚れた扉に手をかける。


 意外にも、途中でつっかえることなく、扉はすんなり開かれた。しかしそれを喜ぶ間もなく、俺の前に天敵が現れる。


 社殿の中は暗闇だった。


 ぞくりと怖気が走り、階段の下まで後ずさる。そのまま車に駆け戻って寮まで帰りたくなる衝動が襲ってきた。


 だが、なんとか踏みとどまり、震える手つきでナップザックを階段に降ろして、中からフライパンのような形状をしたハンドライトを取り出した。こいつは半キログラムもある重たい照明だが、何とか片手に持てる大きさの、携行できる太陽光再現灯だ。どうしても暗い場所へ行かねばならない時のために、痛い出費と引き換えに購入していた虎の子である。


 スイッチを入れ、心強い眩しい光が放射されるのを確かめると、俺は再び社殿への階段を上がり、扉の向こうへと足を踏み入れた。


 ハンドライトの頼もしい光が、社殿の中を照らし出す。土足で入ることに気が引けるが、すぐに外へ飛び出せることと天秤にかければ、靴を脱ぐことなど論外だ。


 内心で毒づきながら、一歩ずつ奥へと進む。こんなみっともない姿、大学の奴らには見られたくない。もしこれがドッキリで、今もどこからか隠し撮りしているのなら、後々関係者全員を皆殺しにしなければならないだろう。


 薄暗闇の奥には、また扉があった。たぶん、今いるのが拝殿で、この扉の先が本殿だろう。四方の床と壁を見たが、依頼の品はおろか何も置かれてはいない。となると、本殿にあるのか。


 慎重に、必要以上の慎重さで、奥の扉の前に立つ。お化け屋敷では、こういうのを開けた瞬間に、脅かし役が大声で襲ってくるものだ。正直に言って、怖い。だが、同時に怒りもある。今の俺にとってそれは最悪の侮辱だ。もし誰かが現れたら、問答無用で蹴りを入れてやろう。


 扉に手をかける。


 さあ、どっからでもかかってこい。痛いのを食らわせてやるぞ。


 そして、力を込めて、扉を開け放った。


「…………」


 何も、起きなかった。


 誰も、出てこなかった。


 だが。だが、目の前に現れた光景を見たとき。頭の中の全てが吹っ飛んだ。


「…………っ」


 本殿の中。拝殿の暗闇を通り抜けた先。そこには灯りが並んでいた。


 血の気が引く音と感触が全身から伝わってくる。半秒にも満たぬ間に。


 ひ、と息を呑んだ。


 蝋燭が十本近く、俺からみて横一列に並んでいる。橙色の灯火と、暗闇とが、本殿の中で赤黒く交じり合っていた。


 そんな馬鹿な。なんで、こんなことになっている。俺の前に、俺の他に、誰かがここへ来たってことなのか? 誰が? いつ?


 そして気づく。灯りに目を奪われていたが、その灯台の下に、何かが置かれていることに。


 円柱上の、茶筒のようなもの。絵で見ていたそれが、床に置かれていた。やや違うのは、縄か何かが巻きついていることだ。おそらく、蓋が外れないようにするものだろう。


 それが。それぞれの蝋燭台の下に、いくつも置かれていた。


「……おい、誰かいるのか」


 俺は咄嗟にハンドライトを左右に振りかざした。


「おい! 出てこい!!」


 叫ぶが、返事は無い。ライトの強力な光だけが、空しく本殿の壁を伝うのみ。


 人の気配はまったくなかった。どこにも、誰かが潜めるような隙間も部屋もなかった。


 これは、本当に悪ふざけなのか? こんな手の込んだ仕掛け、本当にただ俺を驚かすためだけに用意したとでもいうのか?


 見えざる何者かの意思に、そして目の前にある闇にひるみ、一目散に入り口へ向けて逃げ出そうとした。だが、本殿を出るあたりで、踏みとどまる。


 荷物を運ばねば。


 だが、どうすればいい?


 俺は床に並べられた円柱状の容器に目を落とす。


 数えると、容器は全部で九つあった。


「くそ、こんなにあるなんて聞いてないぞ」


 恐怖を紛らわそうと、あえて口に出して毒づく。


 蝋燭に照らされているそれらの材質は、竹か木材のようだ。絵では分からなかったが、実際の大きさはサッカーボールが入るぐらい。


 重さを確かめようと、手近な一つを両手で持ち上げてみる。予想よりも軽かった。


 これ全部を運び出せば良いのか。それとも、この中から一つを選ぶべきか。だが、選ぶにしてもその基準は俺には分からい。


 そうして迷いつつハンドライトの光を当てていると、容器の側面に何かが描かれているのが見えた。九つの容器それぞれで、それは異なる形をしているようだ。


 俺は再度紙を取り出し、見比べてみる。紙に描かれていた文字のような文様のようなものが、九つのうちの一つと合致していた。


「これか」


 俺はそれを抱えると、社殿の外へと急いで駆けた。


 途中、本殿の扉を閉め忘れてきたことに気づく。


 後ろを振り向こうとした俺は、そこで。




 がくりと、顎が落ちた。


「んぐぁ」


 間抜けな声が車内に漏れる。


 いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めると、運転席に座ったままだった。


「……げっ」


 時刻を確認すれば、とっくに午後。数時間は眠りこけていたことになる。


 わずか数時間のドライブでも、気づかないうちに寝落ちするほど疲れていたのか。


 確かに車外へ出たと思っていたが、どうやらそのあたりから夢だったらしい。


 俺は無駄にしてしまった時間を悔いるように、諦めの境地で車内を見渡した。


 助手席に、何かがあった。


 ダンボールの箱が、シートベルトで固定されている。この箱は荷物を運ぶために用意したもので、来るときは蓋が開いていたが、今はしっかり閉じられていた。そして何より、確か後部座席に無造作に積み込んであったはずだが……。


 俺は左手を伸ばそうとして、そこで自分もシートベルトを締めたままであることに気が付いた。外す間もなく寝てしまったのだろうか。もどかしい手つきでその戒めを解く。


 箱の中には、これも俺が用意した古布が、何かを包みながら納まっていた。その形は、中に円柱状らしい何かがあることを、暗に仄めかしている。


「また、夢じゃなかった……?」


 自分の夢遊病が進行しているらしいことに、気が滅入りそうになった。


 その後、後部座席にナップザックが放り込まれてあり、大事なハンドライトその他も無くしていないことを確認。俺は目的を果たしたとして、帰路につくことにした。


 意識が戻った後、俺は階段の上にある神社まで改めて足を運ぼうは思わなかった。もしそこに、神社も何も存在していなかったら。そんな妄想にとりつかれていたのかもしれない。


 曇天の下、走り出した路面に、境内で踏んだような日向が存在していないことも、俺は努めて見ないようにした。



 来た道をひた走り、車は北陸自動車道へと戻ってきた。


 高速に乗って間もなく、今朝も通った九頭竜川に架かる橋が前方に見えてくる。


 つくづく、今日は九頭竜川と縁がある。そう考えているうち、昔聞いた話を思い出した。



 ●



「福井県の九頭竜川も、この手の話には興味深い地でね」


 それは、オカルト的な見地から見た北陸についての会話の中で、出てきた話の一つだった。


「九頭竜川は昔っから大変な暴れ川で、崩れる川、崩れ川が元々の名前だった、って説もあるぐらいだ。それがなんで九頭竜川になったかというと、これは白山の神の化身が九頭竜王であることと関係している。簡単に言えば、化身の九頭竜が川を泳いでいったから、九頭竜川と呼ばれることになった、という。ただ、九頭竜川に竜神様を祀る風習があったことは確かなんだけど、それが九頭竜であるとされたのは、どうも後付けっぽいんだよね。九頭竜は戸隠という長野あたりの伝承から引っ張ってきたらしくて、それ以前にそもそも、九頭竜王は仏教、もっと遡るとインドの神話に行き着くものだ。日本発祥の神じゃない」


 インドからわざわざ日本までやってきた神様、だと浪漫があるけどね。と家永は言う。


「さて、ここで僕はこう思うわけだ。福井に元からあったのは、オカミノカミという竜の神への信仰だった。それが後々になって九頭竜ということにされた。九つの頭の竜、読み方を変えればクトウリュウ。ク・トーゥ・リュー。この名前を持つ神を祀ることにしたのは、たまたまなのか、それとも何らかの理由があったものか。さあ、どうだろうねぇ」



 ●



 おぼろげで懐かしい記憶の断片だ。


 その時は、自分の目で件の川を目にすることになるとは、思わなかったが。


「九頭竜か……」


 インドの竜といえば半人半蛇、あるいは他頭の蛇として描かれるナーガが有名だ。仏教の竜王、特に八大竜王のモデルとなったのは、ナーガとその王たるナーガラージャだったという。その八大竜王のうち一王が、日本では九頭竜王と呼ばれている。


 こうした無駄知識も、あの頃に仕入れたものだったはずだ。


 すると。そこで何かが頭の中でかちりと合わさった。


「…………」


 九頭竜。九つの頭を持つ竜神。


 手も足もない胴体のみの蛇体神。


「…………」


 九つ並べられていた円柱状の容器。


 容器の材質は竹か木製で、それはまるで、そう……首桶のような。


「……まさか」


 まさか。考えすぎだ。


 俺は横目で助手席にある荷物を盗み見る。


 夢の中で、いや夢だと思っていた現実の中で、あれを持った時。それは見た目から想像するより軽かった。


 まるで乾燥して干からびた人間の頭部が入っているように。


「まさか」


 そんな即身仏のようなものが、あんな場所にあるものか。


 ましてや、俺のような一介の民間人に、神社の関係者が移送を頼むわけがない。


 船岡神社代表、理渡。


 偽名かどうかはともかく、黒瀬神社に誰もいなかった以上、最後に話を聞く機会はもうそいつぐらいしか残されていない。


 一体この奇妙な仕事は何なのか。直接問いただすことを、今の俺は望んでいた。


 車は、九頭竜川の上を通過していく。得体の知れない何かを飲み込んだ濁流は、今も日本海へ向けて、のたうつように流れていった。



 ◇



 石川まで戻った後、一度寮に帰るか、そのまま荷物を引き渡しに行くか迷った。もし引渡しに手間取れば、日没までに帰れない危険性がある。


 だが、この依頼をしてきた首謀者の顔を拝んでおきたかったのと、助手席の荷物を自宅に持ち込むことに縁起の悪さを感じたため、俺は手紙に書かれた場所へ向かうことにした。


 鶴来駅前に着く頃には、運転の疲れからすっかりへとへとになっていた。高速のインターチェンジは海岸沿いにあり、鶴来は山と平野の境にある。その間に横たわる長い長い道程を信号に引っかかりつつ走破するのは、流石にこたえた。


 駅前ロータリーの邪魔にならない所に車を停めて、俺は溜め息を付く。


 助手席に縛り付けられた荷物を見、それから例の指示書をもう一度読む。


【回収できた後、鶴来駅前に置いてください。こちらから使いが受け取りに参ります】


 たったこれだけだった。


 雑だ。


(駅の中なら大丈夫か……?)


 駅員の目が届く場所に置いておけば、盗まれる心配はない。いっそのこと、落し物として駅に届けてやろうかとも考えた。


 依頼人が何故、代表を務めているとかいう神社ではなく、駅を指定したのかは分からない。いすれにせよ今日はもう一社たりとも神社に寄りたい気分ではなかった。そもそも、書かれていた肩書きが本当かどうか、また理渡という人物が実在するかどうかも、怪しい。


 福井でおかしな体験をしたとはいえ、まだドッキリやイタズラの可能性が残っている。この【持って来い】だけで【連絡を入れろ】といった一文のない指示は、つまり、この駅で誰かが既に待機していることの表れかもしれないのだ。


 誰だか知らないがドッキリ大成功のプラカードと共に抱きついてくる奴がいたら、蹴り倒して脇目も振らずに帰路を走ってやろう。


 そう心に決めて、俺は荷物を抱えて車を出た。台風の余波はすっかり去り、空は青空が広がっていた。



 駅舎内には、俺以外の客の姿は無かった。


 改札口の上に掲示されている時刻表を見ると、十分ほど前に一本発車していたらしい。そういえば、来る時にそれらしい電車とすれ違っていたな、と俺は思い出した。


 鶴来駅の駅舎は線路のこちら側にしかないから、誰かが俺を待っているとすれば、ここしかないはずだった。だが待合所にも、改札を出てすぐのホームにも、人の姿は無い。線路を挟んで向かい側の二番線乗り場を覗いてみても、人影は皆無だった。


 駅に入ってすぐ出迎えがあることを期待していただけに、これは拍子抜けも良いところだ。


 やはり【置いて】とは、文字通り荷物を置いておけば後で誰かが回収しにくるという意味だったのだろうか。まるで裏取引か何かだ。


 いや、まるで、ではないな。無人の神社から失敬してきた代物だ、表立ってやり取りなどできるはずがない。


 そう思った途端、急に駅員の視線が怖くなった。彼らは警察ではないが、それでも駅というトラブルの起きやすい場所に勤めている人たちである。犯罪に関わった場合の対処もわきまえているだろう。


 となると、駅員に預けるというプランはやめたほうが良いか。大人しく誰かが来るのをここで待つか、それとも本当に駅前に置いて逃げ出すか。


 いずれにしても面倒なことになってしまった。


 そんな憂いに直面しつつ、気を紛らわせるのも兼ねて、俺は水分を補給することにした。


 一度駅舎から外に出て、左手にある自販機へ向かう。


 ダンボール箱を一度地面に置き、空いた両手で財布から小銭を取り出す。


 その時。


 視線を感じた。


 見えざる背後から、こちらを見つめる目。どこか、覚えがあるような……。


 俺は振り返って、駅前に人の姿を探す。すると、意外にもごく近く、三メートルもないほど離れた場所に、誰かがいた。


「…………?」


 白い服の女だった。


 白のつば広帽に白のワンピース。まるで夏を題材にした古い映画に出てきそうなデザインだ。若い。俺と同じ大学生か、それより下か。


 帽子のつばに隠れて、顔は見えない。


 そいつはこちらへ歩いてくると、しゃがみ込み、自販機前に置かれたダンボール箱から顔を見せている俺の荷物へ、細く白い腕を伸ばした。


「あ、おい」


 制止の声をかける。


 女は手を止め、こちらを見上げた。


 はじめに思ったのは、髪だった。長く黒い髪が、顔の右半分を隠している。


 次に感じたのは酷い嫌悪感。


 残りの左半分の顔が醜かったわけではない。美人だ。少なくとも俺の美意識では。


 表情でもない。俺の声に振り返ったそれは、ほんの少し驚いたか呆けたような色を浮かべているだけ。悪意や侮蔑は微塵も混ざっていない。


「…………」


 無言の女――少女、か?――は、俺を見たまま小首をかしげた。


 なんだ。俺は今、何に嫌悪感を示した?


 答えは、そいつが立ち上がった時に分かった。


 目だ。


 ギョロリとした、魚のように大きな目が、俺をまっすぐに見つめている。


 俺の視線の高さより低いところから、そいつの目玉が射すくめてくる。


 それに気おされて、そいつが荷物を腕に抱えていることに、しばらく気がつかなかった。俺の制止は、通じなかったか無視されたか。


「それは俺のだ、勝手に持っていくな。それとも……」


 それとも。お前が、受取人なのか?


 俺がそう聞く前に、そいつは口を開いた。


「あなた」


 抑揚に乏しい、透明な声だった。まるで洞窟の深部から響く風のように、冷涼な。


「あなたが、真舘さん?」


 ひどくゆっくりと言葉を紡いでいく。そいつは俺の反応を待つかのように、口を閉じた。


 俺は……知らない。大学に、こんなやつがいたかどうかを。


 先輩と同期にいないことは確かだ。後輩には、自信はないが、見かけたおぼえはない。少なくとも、こんな目をした奴、見たことがあれば忘れないだろう。


「そうだ」ともかく、俺は返答した。「そっちは、理渡という人の使いか?」


「リト……?」


「船岡神社の人だと聞いてる」


「船岡、ああ。ええ、知っています」


 得心がいったのか浅く頷き、そして笑みを浮かべた。瞼は閉じられ、大きな目玉がその下に隠れる。


「はじめまして、真舘さん。船岡神社のほうから、荷物を受け取りに来ました」


 やはり、こいつが受取人。


「それじゃ、あんたに渡せば良いんだな。……もう持っているが」


「ええ。確かに受け取りました。今日は福井までの遠路、ご苦労様です」


 そいつは小さく頭を下げた後、その場を動かなかった。


 無言で、こちらを見続けてくる。


「……なんだ?」


 問いかけるも、返事は無い。


 不気味な奴だ。美人な顔に、歪な目のアンバランスさが、酷く不快感を煽る。


 まるで戯画化された人物画のような。何かの特殊メイクのような。


 …………。


 まさか、今この瞬間、俺はまた夢遊病になっているのだろうか。


 本当は誰もいない、ただの虚空に向かって、俺は話しかけているのか。


 自分の知覚に自信が持てない。今が現実だと断言できない。


 馬鹿げた考えだが、そう思ってしまうほど、目の前のこいつには現実味が無かった。


 それほど、ただの目玉に、俺は嫌悪感を抱いているというのか。


 自問するように、口を開く。


「今は、これは……お前は、俺の夢なのか?」


 それに対し、そいつは。


 一拍の間を置いて。


「あら。随分と、情熱的な方なんですね」


 そう言って、笑みを浮かべた。


 くすくすと、笑う。それは、決して嘲りや悪意の混じったものではないようだったが。俺には、そいつの目玉と同じくらい、気味が悪かった。


「ねぇ、真舘さん」


 そして、そいつは言った。


「あなたは今、何に苦しんでいます?」


「……なんのことだ」


 何を知っている。


「とても恐ろしい目に、遭いませんでしたか?」


「……知っているのか。誰から聞いた」


 夏に大学で起きた殺人事件のことを言っているのか。


「いいえ。知ってはいない。聞いても、いない。けれど、わかる」


「なにが、わかるって」


「あなたは、なにが怖い?」


 怖い。


 俺は、怖い。夜が怖い。陽の当たらぬ暗闇が怖い。


 それは……。


「……報酬に書いてあったな、俺の問題を解決できると。これは、そういう話か?」


「ええ。わたしと一緒に、神社まで来てくだされば、それを治してあげますよ」


「俺のこれは精神的な病だ。神社に医者でもいるのか」


「いいえ。それに、医学では無理でしょう」


「神頼みでも無理だろ」


「あら、ご利益はありますよ。きっと、治ります」


 胡散臭い。そんなのは、よくある心霊商法の手口だ。


 俺は、ますますこの女が嫌いになった。生理的嫌悪に似たものに、今、理屈の上でも忌避すべきものが加わっていた。


「悪いが、これからすぐ帰らなきゃならない。今からそっちへ行くのは無理だ」


 日没までに戻らなければいけないのは、本当だ。そして、こいつの勧誘を断る口実としても、この理由は最適だった。


「そう。残念」


 意外にもそれ以上は引き止めてこなかった。


「それでは、日を改めることに、しましょう。お金は、ごめんなさい、今は手持ちがありませんの。真舘さんの都合の良い日に、また。日取りが決まりましたら、連絡をくださいね」


「連絡?」


「電話番号は、知っているでしょう?」


「いいや。手紙には住所しか書いてなかった」


「あら。一度こちらに、おかけになったじゃないですか」


「……待て、あれは使われていない番号だったぞ」


 少なくとも、俺は録音音声がそう告げるのを聞いたし、すぐに通話を切ったから誰とも会話したはずがない。


「ふふ。今は使われていますよ」


 また、笑う。


「それでは、また。もうお帰りになるのでしょう?」


「あ、ああ」


「では」


 それだけ言って、踵をかえす。


「なあ」自分で帰る口実を告げておきながら、俺はどうしても気になることがあって、呼び止めた。「その荷物。中身は、なんなんだ」


 女は振り返り、胸に抱くそれに目をやる。


 そして、おもむろに包んでいた布をめくり、縛ってあった紐を解き、封印を切った。


 蓋が開けられる。その中には……。


「……空?」


 何も、入っていなかった。


 近寄って、覗き込んでみても、中身が空であることを確認するに終わった。


 なんだ。荷物というのは、これに収められていた何かではなく、この容器そのものだったのか。


 拍子抜けした俺に、女は笑みを向けた。


「空っぽ?」


「ああ、空っぽだな」


「そう」


 微笑を浮かべたまま、そいつは言う。


「あなたには、そう見えるのね」


 そして再び蓋は閉じられた。

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