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北陸クトゥルフ紀行(仮)  作者: 大滝龍司
2/14

一 夜を恐れて

 九月中旬。大学は夏季休暇の真っ只中にあった。が、卒論を控えた四年生にとって、夏休みなど授業がない平日の集合体にすぎない。


 お昼を目前にした研究室の中に湯気が立ち昇る。


「また徹夜か?」


 坂井はインスタントコーヒーを淹れながら言った。


 春の学会用に購入した徳用コーヒー粉は、購入量に対して著しく消費量が少なかったため、晩夏になった今でも在庫処分が続けられている。


 その消費を手伝えとばかりに、俺のマイカップへも粉と熱湯が問答無用で注がれていった。それを重い目で見つめながら、だるい返事をする。


「ああ。結局、昨日も眠れなかった」


「居眠り運転は怖いぜ」


「明るくなってから、少し眠ったよ」


 ならいいけど、と坂井はカップを手渡してくる。


 マイカップを受け取り、これまた大量に余っている砂糖スティックの束から一本引き抜いて自分の席へ戻った。コーヒーと砂糖をマドラーで掻き混ぜつつ熱を冷ます。安物の電気ポットは、人間の喉が耐えられる温度で保温してはくれない。さりとて高級品であれば適温で保温してくれるのか、俺には分からない。


「夜が怖い、ねぇ」


「正確には暗い場所が駄目だ。トンネルや、窓のない地下室も……」


「試料庫行けないじゃん」


「だから困っている。こうなるともう、適当な卒論しか作れんだろう。フィールドワークの途中で夜になって、周りに誰もいない場所で倒れたら生死に関わる」


「難儀な身体になっちまったなぁ」


 まったくだ、と返答しながらコーヒーをすすった。



 俺の通う石川大学で殺人事件が起きたのは、八月半ばのこと。夏季休暇がはじまって二週間も経たない頃だった。


 犠牲になったのは、工学部に在籍する学生三人。そのうち一名は今も行方不明のままだ。


 工学部四年生の山壁日也、宵満惇。二人の遺体は、殺害現場である理工学部の研究棟一号館、通称工学部棟の一階にある実験室もろとも、バラバラにされていた。


 そして現場に残されていた血痕から、同じく四年生の家永守人も致命傷に等しい量の出血をしていたことがわかった。いまなお遺体は見つかっていないものの、恐らく生きてはいまい。


 事件から一ヶ月以上が過ぎたが、いまだ犯人は捕まっていない。犯行が早朝におこなわれたことで目撃者がおらず、捜査は難航しているらしい。一月たって閉鎖は解除されたが、三つある研究棟のうち工学部棟だけは現在も立ち入りが禁止されている。


 犠牲になった三人は互いに親しい友人関係にあり、実を言えば、俺もまた、その交友の輪の中にいた。事件前日も、俺はやつらと言葉を交わしていた。いつもと変わらず、何気なく。


 そして、最初にあの惨状を目撃したのも、俺だった。


 事件の第一発見者となり、友人の惨たらしい死を直視してしまった俺は、その後まもなく精神を病んだ。以来、夜や暗闇といった、太陽の光が届かない場所や状況に直面すると、酷く取り乱したり、立っていることすら困難になるほど、精神不安定になってしまった。


 医者は不安神経症と診断し、トラウマによるものだと説明した。俺が現場を見たのが、夜明け前の暗い時間帯であり、それを思い起こさせる状況下に置かれると、忌まわしい記憶がフラッシュバックしてしまうのであろう、と。


 特に夜の時間は地獄であった。眠ることすらできず、息ができないような苦しみが何時間も続く。朝と共に眠ることで安らぎは得られるが、それが何週間も続いた今、俺の心と身体はだんだんと悲鳴をあげはじめていた……。



「ところで先生を知らないか。論文の件で相談しておきたかったんだが、今見てきたら居室にいなかった。今日は夏期講習もないはずなんだが」


「タバコじゃね? 中庭か屋上か……」坂井は窓から中庭を見た。「……屋上っぽいな」


「屋上か……」


 俺は顔をしかめて、首を横に振った。


「じゃあ戻ってくるまで少し寝る」


「唐突だなおい」


「正直、寝足りない。コーヒーを飲んでも全然眠気がとれん」


「そんな即効性ねぇよ。あと確か、眠い時にカフェイン摂取しても効果はないはずだぞ」


「なあ坂井、悪いが先生が戻ってきたら起こしてくれないか」


「オーケイ、でもうっかり忘れたら勘弁な」


 頼む、とだけ言い残し、俺は椅子を二つ並べてその上に身を横たえる。


 浅めの深呼吸を一度しただけで、俺の意識は深みへと落ちていった。



 ●



 事務室の前を通りかかった際、俺は掲示板の右端をいつものようにざっくり眺めた。


 掲示板は、事務室の入り口に近い左側から順に、優先度の高い情報が張り出されていく。左端は今日の授業日程や休講時の連絡、真ん中には行事予定、そして右端には学業に関係の薄い、校外の催し物などのお知らせが、事務員のお姉さん方によってピンで止められている。


 右端にはたまに、短期のアルバイトの募集が張り出されることがある。今や夜間の作業という条件が全滅した俺にとって、短期なり自宅作業なりで小銭が稼げるここのアルバイトは、当面の生活費を稼ぐ為の生命線でもあった。


 昨日と同じように告知で埋まった壁の前に立った時、初めて見る紙があるのに気がついた。掲示板の一番下に、葉書よりも小さいサイズのものが、虫ピン一個で止められている。


 文字を読むために、その紙の下側を指でつまんで持ち上げると、それは変な手触りをしていて、なんだか和紙に似た感触だった。


 紙には、筆ペンだろうか、綺麗な筆致で、こう書かれていた。


【依頼をお受けしてくださる方を探しています。


 ご希望の方は、この紙をお持ちください】


 そんな簡潔な依頼文の後に、連絡先と、アルバイト代金が提示されていた。


 たった二行の、詳細というものをほとんど欠いた文章だ。怪しいを通り越して、こんな告知で人が来るのだろうかと、変な心配まで湧いてくる。


 だが、アルバイト代として提示された金額を見て俺は仰天した。そこには【伍萬圓】と書かれていたのだ。


 五万円。


 大学生が月に稼ぐアルバイト代の平均が、確かそれぐらいだったと記憶している。


 春の学会の時、会場設営やら接待やらで二日間借り出され、アルバイト代として支払われたのが一万ちょっと。割りの良いものと思えたが、これはそれを軽く上回る。上回りすぎる。


 依頼内容の不透明さといい、この代金といい、あまりにも怪しすぎた。普通の神経をした奴なら、こんなものに手を出すなど、愚か者のすることだと一顧だにしないだろう。


 だが、今の俺は普通の神経では無かった。とにかく金が必要だったし、機会があれば何があっても掴むべきだった。


 俺はその紙を掲示板から外して、自分のズボンのポケットへと押し込んだ。


 廊下を早足で踏みしめるように歩き、自分の研究室へ戻る。


 後ろめたさが無かったわけではない。良心と金銭欲との葛藤は殴り合いに発展しかけていた。しかしそれも、研究室入り口のロックをカードキーで開錠して扉を開けるまでだった。


「……家永」


 扉の先は、見慣れた我らが研究室ではなく、冷たい光の差し込む、埃っぽい物置のような部屋になっていた。


 無機質な実験用机の周りの椅子に、いつか見たように、友人たちが座っている。


「いらっしゃい。午後の拡散光は並べ終わったかい」


「ほら座れ座れ」


 山壁が椅子を引いてくれる。俺は心が落ち着いていくのを感じながら、そのパイプ椅子にどっかりと腰かけた。


「なんだよ、また夢だったのか……」


 大金が手に入ると、わずかでも期待したのが馬鹿だった。


 いや、悔しい。現実でなかったことが、あまりにも悔しい。


「これが本当のことだったら良かったのに」


「持ち出しは事務に届出が必要だ」


 宵満が律儀に応える。こいつはいつでも、無駄なことは極力言わないやつだった。


「事務が管理しているのか、夢を」


「詳しいことは本館で聞いてくれ」


 夢は自分が夢であることを認めない。もとより、夢の中でまともな会話ができることのほうが少ない。


 山壁は定期購読している車雑誌を開いて、工具でページを指し示している。


「学祭で繋げた飛騨山脈との直行ルート、今度行かないか。山のてっぺんにある始発駅で美味い店がたまーに出るってさ」


「いいね。オオサンショウウオ料理を認可されたところだろう。試験対策に、一度チャレンジしてみたいと思っていたんだ」


 様々な記憶の断片が、手にとったピースを無理やり繋げたジグゾーパズルのように、会話の端々に現れては消えていく。


 今日は、いつの時間を夢に見ているのだろうか。


「ここはいつで、今はどこかな」


 おかしな言い回しが自分の口から漏れる。聞き覚えがある気がするが、今は心当たりを思い出せない。どんな支離滅裂も、夢の中では真面目な理論になる。


「いつがいい?」


 家永は問い返す。


「あの日でなければ、いつでも」


「あの日って?」


「それは……」


 お前たちが、死んだ日。


 俺一人だけ残して、三人の友が消えた朝。


 冷たく恐ろしい夜の闇。


 あまりにも、おぞましき、あの光景。


「それは、いつだい」


 不意に、俺と三人との距離が開いたように感じた。


 気づけば、部屋の中に漂っていた淡い光が、弱まっていた。じわりじわりと、壁をつたうツル草のように暗闇が忍び寄る。


 耐えられず、両腕で胸を、身体を抱き掴む。いやだ。闇はいやだ。夜はいやだ。来るんじゃない、来ないでくれ。


 夢の中でも、暗黒への恐怖は確固として俺の心を支配していた。見えざる冷たい鎖に巻かれるように、身を前にへし折り、膝をつく。


「…………?」


 その時。俺は背後から何かを感じた。暗闇だけではない、もう一つの、なにか。


 視線だ。


 なにかが、俺の後ろから、こちらを見つめている。


 そう悟った時、より強い恐怖が襲った。


 俺を見るものは誰だ。見ているのはなんだ。


 振り返れない。振り返ってはいけない。理屈ではなく、本能が必死で訴えてくる。きっとそれは、見てはいけないもの。


 背後の暗闇に潜むなにかは、なんの物音も発しない。


 ただ。夢の中でのみ作用する直感が、伝えてきた。どんなに距離を隔てても、どれほど荒唐無稽な理屈であろうと、瞬時に理解し納得してしまう、あの感覚。


 それは、ある意思を無言のまま発した。



「 見 つ け た 」と。



 ●



 目覚めると、研究室の中には人の気配がまったく無かった。


 寝汗で湿った服が、肌にまとわりつく。


 窓からは中庭にいる人の話し声や、鳥の声、木々を叩く風の音が聞こえてきていた。


「……今、何時だ……」


 部屋に差し込む陽は、だいぶ移動したように思えた。時計を見ると、午後も半ば。


 目覚ましをかけなかった自分が悪いにしても、予定の倍以上も眠りこけてしまうとは思わなかった。いや待て、何か忘れている。何だっただろうか……。


 寝ぼけ眼で、しばらく唸っていると、坂井が外から戻ってきた。


「よ。おはよう」


「ああ。……おい。確か俺はお前に、起こしてくれと頼んだはずだが」


「お前の寝顔があまりにも病人みたいだったから、そっとしておこうって。先生が」


「先生は?」


「俺から説明しといたわ。卒論とりあえず進められる分で良いから作っておけとさ。後で先生の居室に顔出しとけよ」


「ああ、分かった。すまんな……」


 正直なところ、まとめて数時間の睡眠が取れたのは有難かった。


 俺は睡魔を払うために、頭を振って上体を起こす。完全に眠気を取るには、軽くストレッチでもしたほうが良いだろう。


 これから先生にお礼と詳しい話を聞きに行って、戻ってきたら論文を進め、それから……。


「……あ」


 思い出した。


「ん、どした?」


「ああ、いや、惜しいことになったな、と。変な夢を見たんだ」


「夢?」


「事務室の掲示板に、五万円のアルバイトが張り出されててさ」


「五万、てことは月給か」


「確か日給だった」


 そりゃ惜しい、と坂井は笑った。


「日に五万は美味すぎるだろ。現実だったら良かったな」


 こちらも笑って返し、ポケットに手をつっこみながら肩をすくめる。



 クシャリと、何かが指先に当たって潰れる感触がした。



 いや。待て。


 予想とは違う手応えに、俺の手はそのままポケットから出てこなくなった。


 なんだこれは。まさか、本当に?


 うっかり出し忘れて洗濯してしまった、ポケットティッシュの残骸。という線は無さそうだ。けれども、何か別の物を入れていたかもしれない。そう、たとえば前のアルバイトで使っていた、仕事の段取りのメモとか。


 ゆっくりと、手を引き出す。


 俺の目の前に、無造作に突っ込まれたせいでクシャクシャになった紙が現れた。見覚えのある、見慣れぬ質感の紙。


 手で皺を伸ばしてみると、虫ピンで止められていたような穴が、端に空いていた。


 あれは、夢ではなかったのだろうか。


 そういえば、やけにリアルな夢だった。もしかしたら俺は、夢遊病者のようにフラフラと起き出して、寝惚けたまま事務室前の掲示板からこれを持ってきてしまったのかもしれない。


「……なあ坂井。お前、今までどこ行ってたんだ?」


「あ? タバコ休憩だよ。屋上で」


「先生もか?」


「ああ。屋上で一緒になって、お前のこと話してさ。一時間ぐらいかなぁ、それっくらいで戻ってきた」


 一時間。その間に出歩いて戻ってくるのは、充分ありえることのように思えた。


 俺は坂井に気取られぬよう、何気ない仕草で紙をポケットに戻す。ちらりと開いて見たが、中身が別物ということも無さそうだった。間違いなく、夢の中で、いや、夢だと思っていた現実で、俺が取ってきたものだ。


「どした? えらい顔色悪いぞ」


 坂井はいぶかしげに俺の顔を覗き込んでいた。


「そうか」


「なんか真っ青っていうか、真っ白になってる」


「嫌な夢でも見たせいかな」


「五万円のことはもう忘れろよ」


「ああ……」


 忘れようにも、それそのものが今ここに実在している。


 あの夢は、どこまでが本当だったのだろう。


 家永たちが出てくる、いつもの夢に切り替わったのは、どのタイミングだったのか。


 不気味な終わり方をした悪夢の記憶も手伝って、身体の中心から寒々とした震えがくる。


「……今日は、もう帰ろうか」


 ぽつりと、無意識に言葉が口から出てしまった。


「そのほうがいいと思うぜ。明るいうちから少しでも寝溜めしとけ」


「それも、そうだな……」


 坂井の言葉に、有難く後押ししてもらうことにした。


 俺は早々に研究室を出て、学生寮への帰路についた。


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