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北陸クトゥルフ紀行(仮)  作者: 大滝龍司
13/14

十二 水面の底より来たりて 後編


 おぞましい影が背後から追い上げてくる。


 命がけでハンドルにしがみつき、狭まる視界のなかで前を凝視する。


 エンジンが分解するかのような振動を響かせ、全力で加速し続けるが、ああ、そんな、この速度にぴったりと追いついてきているだと!


 絶望が喉を干上がらせる。逃げられるわけがない……!


 しかし、その悪夢もわずかな時間でしかなかった。


 一時はその爪も届かんばかりに追い迫ってきた蜘蛛だったが、ある瞬間を境に車の背後から消えうせてしまった。


 最初はまたどこかへ姿を潜ませたのかと警戒したものの、それは杞憂に終わった。サイドミラーには、遥か後方へ置き去りにされていく巨体が映し出されていた。


 危機は去った。いまのところは。流石に危険すぎる速度であるため、ブレーキを徐々に踏み大人しい速度まで落とす。


「はぁ……っ」


 恐怖と興奮のあまり心臓と呼吸が乱れていたが、それに構う余裕はなかった。


 遠ざかり、バックミラーの中で小さくなっていく蜘蛛が、再び動き出す。


 胴体が持ち上がり、いかなる原理か脚を長く長く伸ばし、またあの鉄塔じみた姿になる。


「ああそうかい、短距離走と長距離走か……」


 あえぐように口にする。


 蜘蛛にとって、脚を長く伸ばした姿は長距離を移動するためのものであり、獲物に近づき仕留めるのは脚を短くした姿でのことなのだろう。


 まるでザトウムシとハエトリグモを合わせたような形態だ。


 カーナビに目をやる。


 今の暴走で既に県道四十四号線との交差点は通り過ぎていた。他に迂回できそうな道はなく、この先は海まで行くしかない。


 まるでこちらの動きを狙ってきたかのような蜘蛛の動きだったが、偶然だろう。つまり、運が悪かったのだ。


 やつめ、こちらがこの県道十一号線――広い幅を持つ道――の上しか走らないのを見て、ここから外れる、つまり真横へ逃げられないと気づき、全力で襲い掛かったに違いない。まるでチーターが狙った獲物に飛び掛るように。


 幸運にもその爪からは逃れられたが、俺の予定は完璧なタイミングで潰された。


 やつはまだ諦めていない。なおもしつこく俺を追って長大な脚で夜の町を踏みしめてくる。


 彼我の能力差は今のではっきりした。次にあの短距離走でこられたら今度は逃げ切れるかわからない。今のように高速で直進できる道だけとは限らないのだ。


 悠長に迂回ルートなど考えている余裕はなかった。


 覚悟を決める。このまま目的地へ直行し、そこでやつとの決着をつけるのだ。



 富山湾まであと二百メートルのあたりで十一号線は終端を迎える。


 丁字路を東へ右折。


 ここから最寄りの埠頭へは向かわない。この庄川河口近くで蜘蛛を迎えうったとして、庄川西部には鉢伏山や二上山などの山地が広がっており、夜明けまでにそこへ逃げ込まれる危険性があった。なんとしてもそこから遠ざけねばならない。


 車は射水市街を抜け、新湊大橋を目指す。


 富山湾には幾つか港があるが、その中でも巨大な入り江構造を持つのが富山新港だ。まるで左右から手をのばし、海を抱え込んだような地形をしている。狭い湾口の南には東西方向に湾が広がり、その縁辺には工業施設が建ち並ぶ。


 新港大橋はその狭い湾口部を繋ぐかたちで架けられた吊り橋だ。かつて家永たちは、厳密には吊り橋ではない、と言っていたが、工学部じゃない俺には違いがわからない。


 今の俺にとって重要なのは、ここを越えた先が目的地であり、そして橋とその周りの地形が一つの試金石であるということだけだ。


 西側から橋へ入るには、円弧を描くロータリーに入らねばならない。橋の下をくぐり、ぐるりと一周して橋の入り口へ、となる。つまり元いた位置へ戻るわけだが、蜘蛛に追われている今、そのちょっとした距離のロスも痛い。


 ロータリーでカーブが続くため、速度を上げて突入することも難しい。だがここを超えて先へ行かねばならないのだ。


 祈るようにロータリーへ突入し、ルーレット上の球さながらに車がカーブを走る。


 ほぼ一周を終えて橋への上り坂にさしかかった時、横手から長大な脚が迫ってきた。


 そのうちの一本が、車の前方、橋の上に下ろされる……!


「くそっ!」


 ハンドルを全力で回して脚を回避、横方向に身体が圧される。


 無茶な運転だったが、なんとかぶつからずにすり抜けることができた。


 しかしそれで終わりではない。一目散に橋上を対岸に向けて逃げていると、背後からまたしても脚を短くした蜘蛛が追いかけてきた。


 深夜でも橋上は煌々と照らし出されているが、それにも構わず大型バスのような巨体が暴風に乗る幽鬼のような速度で俺を追ってくる。


 ここが正念場とアクセルを踏み、橋よ落ちよとばかりにタイヤを回転させた。


 この時。恐怖の真っ只中にありながら、俺は一つの答えを得ていた。


 やつは湾口を渡るのに、わざわざこの狭い橋の上を通る方法を選んだ。脚を長くした姿で、ではなく。さしものやつも、二百メートルはあろうかという対岸へ、一足では越えられないだろう。しかしその脚の長さなら、海底まで届いてもなお胴体は海上にあり、歩いて渡ることは可能なように思われた。


 やつは水を避ける。


 飲み水はともかく、泳ぐこと、水に浸かることは本来の生態にはないのだろう。


 この考えを裏付ける根拠は、バックミラーに表れた。


 蜘蛛は、最初にその健脚を見せ付けた時とは裏腹に、今度は俺の車の真後ろへ追いつくことすらできなかった。あきらかに、体力か何かが落ちている。あるいは、俺を捕まえるのが目的なのではなく、橋を渡らなければならないために、どうしてもその短い脚の姿にならねばならなかったのでは……。


 いまだ橋上に取り残される蜘蛛を尻目に、橋を下りた俺は目的地を目指す。


 夜の闇はまだ濃く、東の空に白やむ気配は無い。



 富山湾へと長く長く突き出した防波堤。その最奥まで車をバックで乗り入れた俺は、そこで一度車外へと出た。


 夜の日本海に吹く秋風の冷たさに感情を動かされることなく、あらかじめここに用意しておいたものへ駆け寄った。昼間のうちに購入し、しかし重すぎて車に積み込めなかった危険物である。


 覆っていたブルーシートを剥ぎ取り、その下に隠していた二つの携行缶と複数の灯油缶を積んだ台車を押し、陸側へと運ぶ。急げ。急げ。


 やつの姿は、沿岸の照明の中に黒いシルエットとして浮かび上がっていた。ウェルズのトライポッドめいた闇が、その長い脚を大きく、しかしどこかぎこちなく動かし、こちらへやってくる。


 やはり、やつは海を避けるように移動していた。単なる習性によるものか、それとも太陽光と同じくらい致命的なものなのか。それはわからない。


 蜘蛛の移動速度と彼我の距離を目測で計算し、これ以上は限界というところで台車を置いて逃げ出した。その際、携行缶と灯油缶の蓋を外し、蹴飛ばし、中のガソリンと灯油をぶちまける。携行缶の片方を持って中身をこぼしながら車の方向へ戻った。


 置いてきた台車と車との中間あたりで手に持っていた缶も捨て、車へ。


 狭い防波堤の上を、ゆっくりと近づいてくる蜘蛛を、車内で息を潜めながら待ち構える。


「…………」


 口で息を吸い、吐き、吸い、吐く。


 運転席に座り、頭を低くしながら、フロントガラス越しに蜘蛛を窺う。


「…………」


 長かった蜘蛛の脚は、どういう理屈か、折りたたむでも、あるいはラジオのアンテナのように内部へ収納するでもなく、ゴムを伸び縮みさせるかのごとく短くなった。


 流石に防波堤の上でその巨体は大きすぎたか。蜘蛛はあの恐ろしい速度で襲い掛かってきたりはしなかった。それとも、追い込んだ獲物を逃がすまいと最後の詰めにはいっているのか。あるいは、警戒しているのか。


 まだだ。


 蜘蛛の後ろに沿岸の明かりがあるため、俺からは逆光になったその姿が、ただの黒く塗りつぶされたものにしか見えない。見えなくて幸いと言うべきか。


 もうすこし。


 それも今に見ざるをえなくなるだろうが。


 まだまだ。


 蜘蛛はぶちまけられた灯油缶の上を通過し――


 いまだ!


 俺は車のヘッドライトをハイビームで点灯させた。


 光が夜闇を切り払い、そこにいる不浄なるものを照らし出す。


 太陽光でも、まして最近流行の発行ダイオードでもない、ただのハロゲンライトだ。


 だが、それまで暗闇だったところに産まれた光を、真正面から食らえばどうだ?


「――IiiiiiIIIiiIIiiiii!!――」


 甲高い悲鳴を挙げ、怪物はのけぞる。


「――GruuuuuIiiaaaaaaa!!――」


 この一瞬だけ、蜘蛛の視界は奪われた。


 俺は車外へ飛び出し、用意しておいた即席の火炎瓶――中身はあそこで防波堤を塗らしている燃料と同じだ――に火をつけ、怒りをこめて投げつけた。


 過たず、落ちたビンは手前にぶちまけられていたガソリンの傍で火柱を上げ、引火。


 それを確認する前に、車の中へと飛び込む。


 座席下に身を滑り込ませている間に、燃え上がった火は、こぼしてきた道を逆に辿って、ガソリン携行缶と灯油缶の山まで到達したのだろう。


 まず光。


 次に音。


 最後に熱がきた。



 身を起こし、ヒビの入ったフロントガラス越しに外を見る。四方に破片が飛び散り、地獄めいた景色になった外を。


 蜘蛛の巨体をも越える火柱が、夜を赤く照らし出していた。


 怪物は赤々と燃える壁に閉じ込められた。ガソリンと灯油を満載した缶の山は怪物を飲み込む爆炎を生み、蜘蛛とこちらの間には俺が投げた火炎瓶とガソリンによる火の海がある。


 前後を炎の壁に、左右を海に挟まれ、そして怪物自身も炎に包まれていた。


「大嫌いな光に包まれるのは、どんな気分だ化け物」


 返事は苦悶に満ちた唸り声であった。


「――GiiiiYyyyaaaaaaaaGUUUUUUiiiii!!――」


 爆発で飛び散ったガソリンを被ったか、まだらに燃える脚をばたばたと動かし、巨大な胴体が黒煙の中で巨岩さながらに音を立てて転がった。


 熱せられた焦げ臭い空気が、開けっ放しの運転席側ドアから入り込み、鼻腔をくすぐる。揮発した燃料の臭いに蜘蛛がどう反応するか、近づかないのではと不安だったが、杞憂に終わった。やつは精製された燃料はおろか、人間世界に関する知識と経験に乏しいはず。そう見当をつけた俺の賭けは当たった。


 車のエンジンを始動させ、炎からさらに距離をとるため後退。


 作戦がうまくいったことで、今さらながら震えがくる。


 これでやつの逃げ道は海しかない。


 ただ海まで誘導しただけでは、蜘蛛を海中へ追い落とすことはできなかった。人間よりはるかに巨大で怪力を持つ相手を、まさか引っ張ったり蹴飛ばしたりするわけにもいくまい。そのために用意したのがこの火計だった。


 人間であれば火達磨になる大火でも、蜘蛛を殺すにはいたらないだろう。だが、いかな生物とて、炎に直接あぶられて完全に無事なものか。 


 これで炎から逃れるために蜘蛛が海へ身を投げれば、終わりだ。電灯とは違い、燃料に引火した炎は簡単には消えない。俺自身は炎の光が届く場所にいれば、朝まで蜘蛛から逃れられる可能性は高いだろう。


 海に逃れた蜘蛛が、その後どうなるかはわからない。ひょっとしたら海の中などまったくの平気で、富山湾の深海に逃れるかもしれない。それでも、人界から放逐することはできる。


「そのまま燃え尽きてしまえば、助かるんだがな……」


 焼かれる苦しみのうちに滅びてしまえ。


 追走劇の恐怖が薄れていくうちに、心の奥底からは抑圧されていた怒りと悲しみが、ようやく身を起こしはじめていた。


 山壁、宵満、家永、理渡。俺に良くしてくれ、俺のために死んでいった者たち。


 俺は今、やつに一矢報いて、己の罪をいくらか購えた。仇は討ったぞ。


 やがて怪物の黒い巨体が、小刻みに痙攣しながら炎の中へと沈んでいく。


 炎の燃焼によって酸素を奪われ、呼吸を潰されたか。


 意外と、あっけない。


 俺が恐れた夜の恐怖は、今、目の前で最期の時を迎えようとしていた。いずれ朝が来れば、太陽の光の中で不浄なものは全て消え去るだろう。


 これだけ大きな狼煙を上げたのだから、じきに消防と警察が駆けつけてくる。大目玉を喰らうことは間違いない。大学を退学させられるかもしれないし、刑務所にぶちこまれる可能性もある。


 それらは甘んじて受け入れよう。もう疲れた。はやく人間の世界へ、人が人の常識の中で生きていける日常へ帰りたい。たとえそれが冷たい牢獄の中だろうと、人ならざるものどもが這いずり回る世界よりマシだ。


 だが、夜はまだ終わってはいなかった。


 炎に包まれた蜘蛛は、左右どちらかの海へと逃れる。俺はそう予測していた。


 まさか、正面の火の壁を切って、こちらへ突進してくるとは思わなかった……!


「っ!?」


 声をあげる間もなかった。


 衝撃が車体と、その中の俺を襲う。


 身体が後ろに向かって、座席ごと回転。


 いや、車ごと後方へ投げられ……!



 わずかな浮遊のあと、最後の衝撃が背中から叩きつけられた。


「ぇが……ぁっ!」


 なにかにぶつかったような、なんだ、頭がズキズキして、周りがわからない。


 気づけば車内は暗闇に覆われ、鼻をつく臭いが充満していた。


 混乱するうちに、死神のごとく冷たい水が激しい勢いで押し寄せてきて、ようやく海に落ちたことを悟った。


 あっという間に海水が頭のてっぺんまで飲み込む。そのあまりの冷たさ、そして十分に息を吸い込めなかったことにより、命の危機を感じた俺は無我夢中で空気を求めてもがいた。


 まとわりつく衣服に邪魔されつつ、車を脱出し、なんとか海上まで到達する。


 念願の空気を、咳き込みながら何度も何度も吸い込む。


 俺の車は完全に水没してしまったらしい。


 運転席側のドアを開けっ放しにしたままで良かった。そのせいで海水が入り込み瞬く間に沈んでしまったが、もしあのまま中に取り残されていたら。パニックに陥った状態で、車内にあった緊急脱出用ハンマーのことを思い出せたか。仮に気づけたとして、それを暗闇の中で探し出し、息が続く内に窓を破れたか。ぞっとする想像だ。


 だが、今もまだ幸運とは言いがたい。


 俺は岸辺までを見て愕然とした。さっきまでいた防波堤が、目測で数十メートルも先にある。いったいどれだけの距離を吹っ飛ばされたのか。


 なんとかそちらへ辿り着こうと泳ぎだすが、波にもてあそばれ思うように進まない。あの岸壁の消波ブロックまでの、なんと遠いことか。


 秋の夜の海は恐ろしいほど冷たく、身体の先から熱を奪っていく。心臓は急激な温度変化に動転し、いつ発作を起こして停まるかわからない。


 そして海の中にいるのは、俺だけではなかった。


「――DeeeeeeeAaaaaaaa!――」


 背後から、今最も聞きたくない暗黒の咆え声が襲いかかる。


 この時の俺は、まだ運が続いていた。


 恐怖からつい後ろを振り返れば、蜘蛛は俺本人ではなく、海中に沈んだ車のほうに矛先を向けているようだった。海上に浮かぶタンカーのごとき巨体から、鋭い爪を持つ脚が幾度も海中へと突き刺さっていく。


 やがて金属音がし、串刺しにされた俺の車が再び海面に姿を現した。だがその姿は長く持たなかった。蜘蛛は怒りの声と共に残りの脚を叩きつけ、バラバラに分解しはじめる。


 その解体作業が終わった後はどうなるか。


 俺は自分の命のタイムリミットを悟り、全力で手足を動かしはじめた。車のルーフにべったりと塗った俺の血によって、蜘蛛はまず車を狙ったのだろう。それが完全に破壊され、中に俺がいないことがわかれば。その先は考えたくなかった。


 とにかく一刻も早く岸へ上がらなければならない。防波堤の上ではまだ炎が燃え続けている。あそこまで行くことができれば……!


 音を立てぬよう泳ごうとするも、焦りのあまり水音を完全には殺しきれない。それでも、愛車が解体されるたび残骸が水面に落ちる音で、ほとんどがかき消された。


 だが、無慈悲なるかな。それもわずかな時間でしかなかった。


 やがて大きな物体が――最後まで残るとしたらエンジン部分か――水面に叩きつけられる音を最後に、恐ろしい作業は終わりを迎えたらしい。


 岸壁まではあと何メートルだ。あと何分で辿り着ける。


 迫り来る恐怖が全身を駆け巡る。もう時間がない。


 冷たい海水に体温を奪われ、心も恐ろしさに震え、もはや生きている実感がなかった。


「――……ddaaaaTuuiiiiii――」


 背後から憤りを滲ませながら声がくる。


「――……aaaDaaaTiiii――」


 ゆっくりと、何かが向きを変える水音がする。


「――MmmmmaaaaaaDaaaaaaaTiiiii!――」


 夜風に咆える声が、意味のある言葉になっていた。


 それは、俺の名だった。


「――マアッァァァダァァァァツィイイィィィィィ!!――」


 家永か、それとも理渡か。


 どちらの声から盗んだ? それを。


 もう駄目だ。間に合わない。


「ひ……ひぃっ」


 悲鳴が口から漏れ、波間に泡を作る。


 こんなところで。こんな死に方をするのか。


 何もできないまま、仇も討てずに。


 誰か、いないのか。誰か助けてくれないのか。


 無慈悲にも、目に映るのは赤々と燃える防波堤の光のみ。


 あまりに遠い希望を目にして、闇に食われる他、なかった。



 不意に、背後からの音が止んだ。


 それが嵐の前の静けさ、蜘蛛が俺に襲い掛かる前の予兆だと、思わず目を閉じる。


 しかし、俺の身体を貫く一撃は、ついに来なかった。


「ぅ……?」


 凍えて身動きも満足にできないながらも、恐々と後ろを向く。


 蜘蛛はこちらを見ていなかった。


 黒々とした巨体は、俺のほうに向いている。だが、その意識は別のものに惹きつけられているようだった。胴体前部にある奇怪な形状をした器官が、ある方向へと伸ばされている。


 沖の方角に。


 次に起きたことは、最初どういうことか理解できなかった。


 海面がうねり、波が蜘蛛に押し寄せる。陸側から。


 沖合いからの波ではない、逆に沖へと蜘蛛を押し出そうかという強い波だ。


 岩礁に砕け散る白波のように、水飛沫が黒い巨体の上で飛び散る。


「――gggGiiiii、iiii――」


 金属板が軋むような声をあげ、蜘蛛が俺のほうへと脚を振り上げる。


「ひっ……!」


 トドメを刺される、そう思ったが、その鋭い爪のある黒い脚は俺を捕らえることができなかった。空しく宙をかき、再び水面に水柱を立てながら戻る。


 そうした動作を何度も、何度も繰り返す。


 蜘蛛はもがいていた。まるで瀕死の虫が死ぬ間際に激しく痙攣するように。


 なんて光景だ。あの巨体が、トン単位はあろうかという巨大なものが、いまや急速に押し寄せる水流によって、沖へ沖へと流されていこうとしている。


「離、岸流……?」


 呟くが、口にした俺自身ですら信じられない。


 離岸流は、海岸線に沿って左右から押し寄せた波がぶつかって合わさり、一つの大きな流れとなって沖へと向かう現象だ。しかし今俺がいるのは、海の真ん中に長く突き出た防波堤のすぐ傍。こんなところで、離岸流が発生するとは思えない。


 それでも見る間に蜘蛛の姿はどんどんと遠ざかっていく。


 蜘蛛は金切り声を上げ続け、必死に脚をばたつかせるが、何の抵抗にもならなかった。


「――Giii! iiiwaaaaa!――」


 為す術もなく、さながら蟻地獄に引きずりこまれるがごとく、その身は沖合いへ流されていくと共に、徐々に海中へと没していく。


 奇妙なことに、蜘蛛のすぐそばにいたはずの俺には、そうした急流の影響がまったく無い。離岸流であれば、大なり小なりその流れを感じるはず。だが、俺の身体は元いた場所にただ浮かんでいるだけだった。


「――Iiiiiiwaaaaaa! Gaaaarrrrrrr!!――」


 もがけばもがくほど、蜘蛛は沖へ、海中へと引きずりこまれていく。


 その時、水平線の上に、俺は何かを見た。


 丸く輝く、淡い光。


 月だ。


 いや、違う。あの方角は、富山湾の水平線は北に面している。本物の月は、西へ落ちていったはずだ。あんなところに見えるわけがない。


 その光は、暗闇に溶けかけており、その周りに何があるかはわからない。


 ただ。蜘蛛はその光に向かっていた。


 もう既にその巨体のほとんどが水面下に没している。俺からの距離は最初数十メートルまで迫っていたように思えるが、今や数百メートルの彼方に消え去ろうとしていた。


 あれはなんだ。


 直感で、それが漁船や巡視船のような人工物ではないとわかった。底引き網漁の漁船が、網にかかった蜘蛛を引っ張っている? それはない。蜘蛛の巨体を引っ張るだけの力があったとしても、それがなぜ海中へ、下方向へ引っ張れるのだ。


 あれはなんだ。


 自分を狙っていた脅威が消えようというのに、俺の中の恐怖は増大していた。


 家永の言葉を思い出す。


――富山湾は日本海側でも特に珍しい、深海が沿岸近くまで迫っている場所――


――深海の生き物が一番陸地に近いところに住んでいるとも言える――


――シーサーペントじみたものが富山湾に現れたら――


 あれはなんだ。


 水面の底にいるのはなんだ。


 今、あの恐ろしい蜘蛛を捕らえているのは、なんなのだ!


 ……やがて、水平線と重なるあたりで、おぞましく哀れな上古の怪物は完全に没した。


 月のような光も、時を同じくして闇の中へ消える。


 その水面下で何が起きたのか、誰も知る者はなく。


「……う、うぅ……」


 一部始終を見ていた時間は、どれほどだったのだろう。


 静けさを取り戻した海の中で、一人取り残された俺は、そこで体力の限界に達した。


 この後のことは何も覚えてはいない。


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