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北陸クトゥルフ紀行(仮)  作者: 大滝龍司
12/14

十一 水面の底より来たりて 前編


 それからどうやって逃げ延びたのかは覚えていない。


 気がつけば、俺は何処とも知れぬ広い駐車場に車を停めていた。全身を汗でびっしょりと濡らし、心臓の動悸がおさまった後、あたりを見渡してみると、朝霧に包まれた田畑が広がる、平野部にいるらしいと知れた。


 どうやら一気に山を降りて、あたりに影を作るような建造物のない場所まで来ていたらしい。朝日が駐車場を照らし出すのを見て、俺は安堵し、そのまま気を失った。



 ○



 暗闇に鎖された夢の中で、俺はただ立ち尽くす。


 近くて遠く離れたところに、血まみれで横たわる理渡がいる。


 四肢は捻じ曲がり、血の池に浮かぶさまは、まるで赤いトマトスープに沈む具のようだと、俺はそんな場違いな感想をぼんやりと思い浮かべた。


 理渡の首は二つあった。胴体にかろうじて繋がっている首は、虚ろな目で暗闇の中のいかなるものも見ていない。


 もう一つの首は、理渡の胴体の上に置かれていた。その生首は目を閉じていて、まるで眠っているかのよう。それは死体という台座に置かれた彫刻作品めいていて、グロテスクな美しさと皮肉さを内包していた。


「理渡……」


 俺の呟きに、生首の瞼が開かれる。


「「私は……理渡。私は……夢」」


 生首は俺を見つめると、不思議な震えのある響きを言葉に乗せた。


「「あなたは……なに?」」



 ○



 目を覚ましたのは、さほど時間が経っていない、まだ朝と呼べる頃。ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動を発し、それが目覚ましとなった。


 誰からのものか確認もせず通話を選び、押し当てた耳に入り込んできたのは、緊張したような声。『真舘朗様のお電話でしょうか』という問いに肯定を返すと、今度は安堵の溜め息が聞こえてきた。


『今朝になって、真舘様とお連れ様の姿が見えないものでしたから。お連れ様もご無事でしょうか』


 返答に、窮した。


 俺の連れ、理渡は……。


「……失礼だが、そちらは」


 我ながら阿呆な質問だった。今のやりとりだけで、この相手が昨日泊まった宿の人間だとすぐわかったろうに。


「ああいや、なんでもない。昨夜は、二人で外へ出ていて……」


『まあ、そうでしたか』


「夜明け頃に戻るつもりだったが、思いのほか長く出てしまっていた。今からそちらへ戻ろうと……」


 戻るのか。あの山の中へ。


 いかに陽の下とはいえ、今は少しでも山から離れていたかった。


 それにしても、我ながらなんと白々しく応対できるのだろう。あんな目に遭った後だというのに。


 そう自嘲気味になっていると、電話の向こうが困ったような声に変わった。


『いえいえ、お客様がご無事なら何よりです。ただ、お荷物が見つかるかどうか……』


「はい? どういうことです?」


 様子がおかしい。そう気づいた時、旅館からの声はこう続けた。


『ご存知ではないのですか? ああ、夜のうちに外へ出ておられましたから。……実は、今朝方に地すべりか何か、まだ原因はわからないのですけれど、お客様がお泊りになられていた部屋が崩れてしまったんですよ。わたくし、てっきりお客様も巻き込まれたんじゃないかと、心配で心配で……』



 宿からの電話に応対した後、ネットを介してニュース一覧を見てみれば、早くも画像つきで宿の件が報じられていた。


 原因はいまだ不明とあるが、俺には一目でわかった。宿の壁面をバラバラにし、一室まるごと崖下の庄川へと落とした、この破壊痕。かつて大学で見たものと同じ爪跡だ。


 やつが、蜘蛛が俺たちのいた部屋を襲った。偶然ではあるまい。


 俺はやつを怒らせたのだろう。あの時、太陽光再現灯で照らしたことで、完全な不意打ちを喰らわせることになった。そうして蜘蛛がひるんだ隙に俺は逃げることができたが、やつは後を追って山を降り、俺の匂いが残っていた宿に辿りついた。そんなところか。


 運転席に身を沈めて、深い暗澹とした溜め息をつく。事態は最悪の方向へ転がりだしていた。とうとう、やつが俺を知覚した。それも怒りをもって。とはいえ、日中隠れる場所のない平野部にいれば、あるいは逃げ切れるかもしれない。


 だが人間そのものに敵意を抱いていたら? 少なくとも昨夜のうちにそれらしい犠牲者は出なかったが、今夜以降はどうなるか。


 このまま蜘蛛を放っておくことはできない。しかし、どうすればいい。


 理渡は死んだ。死んでしまった。


 目を閉じれば鮮明にあの光景が浮かび上がる。


 首筋をはじめ、牙を突き立てられ、へし折られた身体。


 あの後、理渡がどうなったかは考えたくないが、容易に想像できてしまう。


――神を殺すには神の手で屠るか、神が喰らうか、あるいは神の力を借りるか――


 人ならざる者に喰われれば、神の血を引く理渡とて滅びは免れない。


 よもや、お前のほうが殺されてしまうなんて。


 いつのまにか、俺は理渡に大きな信頼を寄せていたらしい。こいつなら、まさか返り討ちに遭うようなことにはなるまい、と。たかが蜘蛛などという化け物に負けるはずがないと。


 しかし相手はただの蟲ではなかった。


 今ならわかる。蜘蛛は会話ができるのではない。ただ真似ていただけだ。


――出て、くれ――


――寝て、いる、のか――


 あれは、家永が俺に電話をかけている時の声だったのだ。蜘蛛から逃げながら、必死になって呼び出そうとした時に漏らした、助けを求める声。


 ある種の生物は、他の生物の声真似をして狩りやコミュニケーションに利用している。蜘蛛のそれは、おそらく、獲物をおびき出すためのものだろう。


 そして理渡は、人語を解する存在だと錯覚して近づき、やられた。知性ある存在に見えたことで、説得しようとしたのが仇になったのだ。


 やつは言葉を持たない、ただの怪物だ。断じて、神などではない。


「くそっ……」


 全てを悟り、怒りが沸々と湧き上がる。


「みんな、みんな殺しやがって。家永、山壁、宵満、それに理渡……。絶対に許すものか。絶対に、殺してやる。殺してやる!」


 誓うように言葉を口にするが、しかし、それは無謀に等しかった。


 唯一やつを滅ぼせただろう理渡は死んだ。


 それでも誰かが、この事態を治めなければならない。


 そしてそれができるのは、もう俺しかいないのだ。



 車内で富山県の地図を広げ、作戦を練りなおす。


 当初の計画では、東の立山連峰の地下深くに蜘蛛を放逐するはずだった。しかし理渡亡き今、地下への入り口がどこにあり、どうやって開き、また閉じるか、その詳細は闇の中に葬られてしまった。


 別の方策を考えなければならない。重要なのは、目的をどこに置くかだ。最も阻止すべきは、蜘蛛が人間を無差別に襲い始めることであり、そのためには蜘蛛を殺すか、無力化するか、とにかく人界から遠ざけることが必要となってくる。


 問答無用で蜘蛛をぶち殺してしまいたかったが、あくまでそれは手段の一つだ。他に有効な手立てがあれば、より確実性の高い案を採用すべきだろう。


 ではどうするか。


 現状、一つの変化が起きている。蜘蛛は明らかに俺を狙いはじめた。それは俺の身が危ないのと同時に、こちらが動けば向こうもそれを追って移動する、かもしれないということだ。


 やつを上手く誘導し、こちらに好都合な場所へ引きずり出すことができれば。たとえば、まわりに遮蔽物のない開けた場所へ誘い出し、そこで夜明けになれば滅ぼすことも可能だろう。


 だが、どこへ? 地図を眺めても、良さそうな場所は見つからない。いくら北陸三県の中でも特に広い富山平野とはいえ、建造物による遮蔽はあちこちにあるし、また平野部から山林までの距離もそう遠くは無い。


 夜通し追跡され続ける他に、朝日が昇るまでやつを足止めする方法も思い浮かばなかった。夜明けの瞬間、水田地帯など開けた場所に時間ピッタリでたどり着く。そうでもしなければ、確実に仕留められない。


 北欧の古エッダを思い出す。小人のアルヴィースは雷神トールに無理難題を吹っかけるが、逆に夜明けまで質問攻めにされる。気づいた時には既に手遅れ、地底暮らしのアルヴィースは朝日を浴びて石になってしまった、という。それを話術ではなく命がけの鬼ごっこで再現しなくてはならない。頭を使うか身体を使うか、どちらがマシか。


「無謀すぎるな……」


 御伽噺のように上手くいくはずがない。俺は英雄でも神様でもない、ただの人間だ。使えるのは現代文明の利器たる(中古)車とスマホと、ちっぽけな脳髄だけ。これでどう戦う。


 それら手持ちの駒を思い浮かべているうち、ふと思い出した。


 理渡から受け取っていた、御守。


――もしもの時は、この中に書いてあるとおりに、してください――


 この中に。なにが書いてある?


 もしかして、事態がこうなった時のための、打開策か何かが……?


 俺はもどかしい手つきで御守袋の口を開き、中に入っていた紙片を取り出す。


 懐かしい手触りを感じながら、折りたたまれていたそれを開き、文面に目を走らせた。



『もし私の身に何かあった時は、私の荷物を全て処分してください。できれば地元の手取川か海に投げ捨ててしまいますよう』



 それだけだった。


「……なんだこれは」


 裏返しても、すかし見ても、書かれていたのはたったこれだけ。


「なんだよ、これ。こんなの、ただの遺言じゃないか」


 自分が死んだら私物は捨ててくれ。


「最初から、死ぬ覚悟で行ったのか、理渡。おまえは……」


 最後まで何も憂いがないような笑顔をして。内心では、最悪の事態を予想していた。


 それを言わなかったのは、俺を安心させるためか。


「馬鹿やろう」


 涙と、怒りが湧き上がる。もっとあいつのために何かをしてやれただろうか。これから弔い合戦をしてやろうじゃないか。後悔と戦意が入り混じり、理渡が残した御守を握り締める。


 そして、今しがた見た文章の中、一つの文字に意識が集約した。


――海――


 はたと、ひらめきが生まれる。


 俺は地図を広げ、北に広がる富山湾に指を這わせた。


 かつて家永と交わした会話が脳裏に蘇る。



 ●



「……富山湾は日本海側でも特に珍しい、深海が沿岸近くまで迫っている場所だってね」


「ああ、そうだな。急斜面というか、沖に出てすぐ海底が落ち込む地形をしてるらしい」


「それじゃ、深海の生き物が一番陸地に近いところに住んでいるとも言えるわけだ」


「たぶん、お前が考えてるような深海魚はいないぞ。日本海は大昔に無酸素事変が起きててな。水中の酸素がなくなる、いわば酸欠状態で、一度深海生物が全滅したらしい。そのせいで日本海側の深海魚ってのは太平洋側のグロテスクなやつじゃなく、浅い海の魚が深海に降りていって適応進化した、奇妙でもなんでもないものばっかりだと」


「ふうん。なんで太平洋側の深海魚は、後から日本海側へ移動しなかったんだい?」


「対馬海峡とか津軽海峡とか、日本海への入り口にあたる海が浅いからだよ。ようするに今でも入り口は閉じたままなんだ。だから日本海側の深海は独自の生態系を保っているという」


「なるほどねぇ。僕はまた、シーサーペントじみたものが富山湾に現れたら面白いだろうなと思ったんだけど」


「案外、富山の郷土資料にはそんな記録があったりしてな」



 ●



 深海。陽の届かない常闇の世界。


「海か」


 蜘蛛を海に突き落とす。それは悪くない考えのように思えた。


 やつは陸上を動き回り、川を渡るにも場所を選ぶことから、水中での呼吸は不得手と見える。人ならざるモノに常識がどこまで通じるか、過信するのは危険だが、この推測はそう外れたものではないだろう。


 仮に水中でも生きられるとして。それでも日光は天敵のはずだ。海に落ちた蜘蛛が太陽から逃げようとすれば、最も近い闇があるのは深海。人の世界から遠く隔たった場所。


 立山連峰に封じる案とは違い、深海に追いやったところで、夜になれば海から上がってくる危険性はあった。それでも次善の策として、これは悪くないのではなかろうか。少なくとも、このまま山林にあんな化け物を放置しておくよりマシになるはずだ。


 地図に指を沿わせ、蜘蛛を海中へ叩き込むに最も適した場所を探しながら、反対の手で御守を強く、しかし今度は感謝をこめて握り締めた。


 ありがとよ理渡。不本意かもしれないが、お前のおかげで光が見えた。


 俺はこの一連の事件に決着をつけるべく、最後の戦いを一人静かに開始した。



 ○



 陽が高いうちに、車で庄川沿いを再び遡り、その途中途中で餌をしかける。


 蜘蛛をおびき出すのに最も効果的なのは、俺の血だ。昨晩のように数滴を地面の目立たない場所に垂らし、それを数百メートルおきに繰り返す。


 蜘蛛が最後にいたと確認できる宿には戻らなかった。その近くに蜘蛛が潜んでいるだろうことは明らかだったからだ。朝方に宿を襲ったのなら、夜明けまでに移動できる時間はそう無い。俺が血を落としている間も、あの辺りの森かトンネルに身を隠しているはず。


 太陽の出ている間は大丈夫だとわかっていても、時折雲の陰に隠れてしまう時は、内心穏やかではなかった。秋の空は雲が半分近くを覆い、頻繁に頼みの綱である日光を遮ってしまう。


 時間との勝負だ。


 日没までに用意を済ませ。


 日の出まで生き延び、かつ誘導する。


 言うは易いが、行うは難い。秋の夜は長く、朝まではあまりにも遠い。


 かさぶたが傷をふさぐたび、ナイフで手の平を切って血を流しながら、その痛みで俺は心に巣食う不安を殺していった。



 夕方までに仕込みを終わらせた俺は、ガソリンスタンドで補充をすませた後、蜘蛛を誘導するルートを一度下見する。


 不測の事態に備えて、信号機や人通りの少ない道を注意深く意識して走っていると、気がつけば港のあたりまで到達していた。


 手近な駐車場に車を停め、休憩も兼ねて所持品のチェックを行う。


 宿の崩落で失ったのは着替えなどの宿泊用具だけであり、これはさして痛手ではない。だが俺は最も大事な切り札を失っていた。


「ライトがあればな……」


 何度探しても虎の子の太陽光再現灯の姿は無かった。どうやら昨晩のうちに、どこかへ落としてしまったらしい。恐らくは、あの血まみれの現場に。


 唯一蜘蛛に直接痛手を与えることができる手段だっただけに、喪失感と絶望は大きかった。あのライトだけで、どれだけ助けになったか。


 苦労して手に入れた特注品を今から最入手する時間はない。だが、あの場所へまた戻ることは危険すぎる。


 他に何かあるとすれば、理渡の残した荷物類か。


 俺は後部トランクを開き、中に収められていたものを手前に引き出す。


 女性の、それも死者が遺したものの中身を見るのは気が引けたが、何かしら役に立つものがあるかもしれないと、心を鬼にして封を紐解くことにした。


 中を覗いてみると、皿や筆、何かの紙らしきものが、それぞれ別の箱に収められている。


 用途はさっぱりわからない。呪術的、魔術的に意味があるのかもしれないが、現代科学の世界で生きてきた俺が使い方を知るはずも無し。ぞんざいに言えば、全てガラクタの山にすぎなかった。


「めぼしいものは無い、か」


 嘆息した後、全て元通りに片付ける。いずれこれらは船岡神社に返さなければ。


 あるいは、理渡亡き後、あの神社はまた俺の前から姿を消してしまうのだろうか。


 ああ、そうか。そうなった時のために、手取川に捨てろと書いたのかもしれない。白山の神の膝元を流れる川。あいつの物を返すにふさわしい……。


 後部トランクを閉める音で我に返った。今ここで将来の予定を考えてどうする。これから夜を無事に越えられるかどうかすら、わからないのに。


 手持ちの駒は少なく、賭け皿には俺の命。絶望的な勝負であることは明白だった。



 ○



 そして、長い夜が再び北陸の空に戻ってきた。


 庄川が山間部から平野部へと流れ出てくる近く、河岸に沿って走る道の端に車を停め、待機する。


 あたりに目立った遮蔽物は無い。車の窓から外を窺えば、広い範囲を遠い距離まで見通すことができた。ここなら、急にやつが現れても反応して対処する時間が稼げるだろう。


「…………」


 しかし、予想外に長い時間を、俺は車内で過ごすことになった。


 一時間、二時間と時計が進むにつれて、緊張感は次第に弛緩し、心臓の鼓動は安定期に入り、やがてガソリンを無駄にしないようエンジンすら止められた。ただ、じっとりと汗をかいた両手だけはハンドルから離れなかったが、それは半ば意地のようなものだ。


 アテが外れただろうか。


 やつは俺などに見向きもしないのではないか。


 誘導のための血液は、辿ればここの近くへ出てくることを狙って、山間から平野部へと点線のように落としてきた。昨晩、やつが俺たちの前に姿を現した時とは比較にならない量のはず。けれども今のところ、それらしい兆候は見当たらない。なぜだ。


 じりじりと、焦りのような、あるいは安堵のようなものが喉を這う。何もわからない。状況は進展しているのか。それとも蜘蛛は俺を無視して立山方向へと向かったのか。


 やつがこちらへ来ることを微塵も疑っていなかっただけに、過ぎ去った無為な時間の長さに不安をおぼえる。蜘蛛は何をしている? なぜ来ない? なぜ?


 答えは闇の彼方、生い茂る木々の狭間に隠れて見えはしない。



 まんじりともしないまま、夜が更けていく。


 どこでなにを間違えたのだろう。蜘蛛は俺の血の匂いを辿ってやってくると、理渡は言っていた。その前提が誤りだとしたら。昨夜蜘蛛が嗅ぎつけてきたのは俺ではなく、同じ人ならざるものたる理渡の血のほうだったのかもしれない。それを証明する術はなく、あくまで仮説にすぎないが。


 暗記していた公式を正しく思い出せず、試験問題を何度も解こうとして、うまい具合に答えを導き出せない、あの嫌な感じに似ている。俺は何を見落としているのか。蜘蛛のこれまでの動向から考察のメスを入れてみるが、あまりに材料が足りなさ過ぎて信頼性のない仮説ばかり産まれてしまう。


 今夜はカフェインの助けを借りずとも睡魔の顔はまだ見えない。それでも長時間運転席に座りっぱなしで流石に身体が痛み出し、ハンドルにもたれるように身を倒した。


 傾けた視線の先、助手席側の窓からは夜空から落ちようとする月が見える。あの月齢であの高度となれば、今はだいたい丑三つ時か。


 今夜の月は赤い。不吉な色と人は言うが、科学を齧った者なら否定は簡単。あれは夕陽が赤く見えるのと同じ原理で、月の光が大気中を進む距離が長くなると赤色の光だけが届きやすくなるからだ。天頂にある時は垂直方向の距離分しか大気がないが、地平線に近づけばケーキを斜めに切るように直進距離が長くなり、届かなくなる色の波長が出てくる。月が赤く見えるのは月そのものの色が変化するからではなく、赤色以外の光が大気中で脱落していったにすぎない。第一、月の光の源は月からではなく……。


「…………っ」


 車の天井に頭をぶつけそうな勢いで俺は飛び起きた。


 まさか。まさかまさかまさか。


 窓から月を凝視する。間もなく地平線下に沈もうとする赤い月は、西から駆けつけてくる雲によって早くも姿を隠そうとしていた。


 月は地球の衛星で、自ら光を発しない天体。その光の源は――太陽だ。


 消えかける月を見て、俺はキーを回し、エンジンを叩き起こす。


 蜘蛛が太陽の光を恐れるならば、その反射である月の光に対しては?


 気づくべきだった。やつは俺の持っていた太陽光再現灯によっても手傷を負った。本物の太陽に比べれば大した光量でも熱量でもないそれをだ。ならばやつの身体に致命傷を与える要素とは何か? 太陽が放つ莫大な熱や光ではない、恒星光特有の波長だ。それが可視光線なのか紫外線・赤外線の範囲に入るのかはわからないが。


 今ここで重要なのは。ハンドライト程度の光に傷つくのなら、月を経由して降り注ぐ光にも、減衰はあるだろうが少なからず悪影響を受ける可能性が充分考えられることだ。太陽光が灼熱の業火だとすれば、月光の威力はどれほどか。煙草の火を押し付けられるようなものか、あるいは熾火の上を歩く程度か。どちらにせよ進んで浴びたいものではあるまい。


 では。


 その月が見えなくなれば?


 俺はその答えをすぐに知ることとなった。


 西風がたなびく雲を運び、月を隠す。光は消え、富山平野に闇が降りる。


 そして背後からそれが来た。



 俺が背筋に感じ取ったのは、気配というより予感だった。


 だから背後を振り返り、夜に沈む山々の影を見つめたのは何かしらの予兆や確信があったわけではないし、そこに何かを見出したのは偶然としか言いようがなかった。


 縦に細長い何かが見えた。黒々とした太線のような影は、まるで巨大な電信柱のようにも見える。それが異質なものであると気づけたのは、この夜の間、何度も何度も繰り返し窺っていた景色とは異なっていたからだ。そうでなければ簡単にその異物を見落としていただろう。


 だが、その正体はいったいなんだ? 俺はかつて、大学の屋上でやつの抜け殻を見たことがある。昨夜は――細部まで思い出したくないが――間近からその面を拝んだ。しかし今見ているものは、そのいずれとも異なる形状をしている。蜘蛛はどちらかといえば丸く、彼方に現れたものは縦に伸ばした影法師にしか見えない。


 蜘蛛ではないのか。やつはどこにいる?


 疑問を抱いているうち、細長いそれは空中へと消えた。風船が飛んでいくように、リアウィンドウの横長な枠内を上へと昇っていった。


 その時、俺は理解した。


 理解と同時にアクセルを力の限り踏みつける。


 急加速の凄まじい勢いに耐えながら、バックミラーに映る後方の景色を見た。


 車が走り出すと共にリアウィンドウから見える範囲は広がっていき、あの黒く縦長の影法師が左右から幾つも現れる。四つか、五つ。それぞれの間隔が広かったため、遠ざかるまで気づけなかった。


 リアウィンドウの枠内では、それらの上部がどうなっているかまでは捉えきれない。だが、猛スピードで駆け抜ける庄川沿いの道がカーブにさしかかった時、サイドミラーを介してそれを見ることができた。


 一瞬だけ視界に入った影。だが、それだけで現状を確認するに足りた。


 数本の影法師は上空で一つに合流し、その結合部には黒く大きな丸い影が。


 あの電柱に似た影は、蜘蛛の長大な脚だったのだ!


「聞いてないぞあんなの!」


 無我夢中でアクセルを踏み込み、更に加速。


 闇夜に現れた巨影が、逃げの一手を選択した俺を追う。


 バックミラー越しに見る脚は、緩慢な動作でこちらへ進んでくるように見える。しかしそれは遠くにあるがゆえの錯覚で、実際には目測でゆうに数十メートルを一瞬で移動していた。


 一歩一歩と進むたび距離が着実に詰められる。まるで、全速力で逃げる小人と、歩いてそれに追いつく巨人のようだ。歩幅があまりにも違いすぎた。


「なんだよあれ! なんだよ!!」


 ほとんど悲鳴に近い声を上げ、暗夜の道に目をこらし必死でハンドルを捌く。


 法定速度などもはや頭の中には無かった。ただひたすら先へ、先へと魂が逃げ出そうとするのに合わせて車を走らせる。ひと気の絶えた深夜でなければ、追いつかれるか先行車と衝突事故を起こすか、いずれにせよ今頃あの世行きだったろう。


 命がけのレースの最中、頭の中で行われた計算が良くない未来を弾き出す。


 元々の計画では、庄川東岸沿いを北上しつつ、途中で朝までの時間稼ぎのため幾つか迂回ルートを走るつもりだった。


 だが、あんなものが相手じゃ、迂回しようとした隙に追いつかれる。


 かといってこのまま最短コースで海に到達すれば、夜明けまで早すぎる。


 朝まで追い回されるか。追いつかれるのを防ぐか。


 どうする。


「……計画変更だ、ちくしょうめ!」


 選択動機は単純だった。今を生き延びねば先の予定に意味は無い。


 俺は朝日という切り札を捨て、この場を切り抜けるほうを取った。



 暴走族もかくやな速度を維持しつつ、北へ、北へと向かう。


 歩行者や他の車が出てこないことを祈りながら、蜘蛛に向ける注意力の半分をカーナビに注ぐ。


 庄川沿いの道がいずれ行き止まりになる都合上、ある時点から川沿いを離れなければならなかった。あらかじめカーナビに入力したルート設定の指示通りにしなければ、袋小路に入り込んで即お陀仏だ。


『次の交差点を、右折です』


 来た。ここだ。


 ブレーキを踏まぬまま交差点に突入し、強引なハンドル捌きでタイヤが甲高い異音を立てる。ほとんどドリフト状態で東に向かって右折。そこから一キロほど駆け抜け、再び交差点で北に左折し、県道十一号に乗った。


 後はこのまま沿岸道路まで一直線に走ればいい。


 ここからの懸念の一つは、人口密集地を通ることだ。


 庄川東岸の射水市は田園の占める範囲が多いものの、十一号線沿いには住宅地やビルディングが立ち並んでいる。対岸にある富山県有数の都市である高岡の市街地に比べれば小規模だが、それでも大きな町を通ることに変わりはない。


 当然、事故を起こす危険性が高まるのと共に、蜘蛛による人家への被害も出るだろう。


 そうこうするうち、田畑の合間にある小さな町を一つ、二つと、一分にも満たぬ時間で通り過ぎていく。


 俺はサイドミラーを――もちろん前方に危険がないことを確認した上で――瞬間盗み見る。


 蜘蛛の動きは明らかに鈍っていた。オンボロとはいえ車の速度につかず離れず喰らいついていたはずが、いつのまにか後方遠くに置き去りにされている。


 走り疲れたか。俺の血の臭いを追えなくなったか。


 そうこうするうち、異音が聞こえた。


 ガラスを地面に叩きつけたような、何かが壊れる音。


 断続的にそうした耳障りで甲高い音が、猛スピードで回転するエンジンの騒音を突き破って俺の耳にまで届いてきた。


 なんだ。なんの音だ。


 バックミラーに映った光景にヒントがあった。たった今走り去ってきた道路が闇に包まれている。俺が車で通過した際は街路灯に照らされていたはずなのに。


 するうち、あの破壊音と共に、また光が消えた。


 ……街路灯を壊している……?


 充分に彼我の距離が離れていることを確認して、路肩に一時停車。


 窓を下げて頭を外に出し、直に後ろの闇を見る。


 遥か遠く高くにある蜘蛛と、そこから伸びる脚は、苦悶と激怒に震えているかのようだった。脚は荒々しく地上の何かへと叩きつけられ、それにより胴体も激しく揺れる。


 蜘蛛がこちらへ近づくにつれ、地上の光は一つまた一つと消えていき、その度に街路灯が脚によって打ち倒されていることを示していた。


 太陽光でなくとも、光そのものがやつにとって鬼門なのだ。


 人間で言えば、行く手に現れる蝋燭の火を消していくようなものか。あるいは、夜目には邪魔な光源を潰しているのかもしれない。暗視スコープをつけていると普通の光でさえ目が潰れてしまうように、闇に適応した生物には小さな光でさえ目障りになるのだろう。


 俺はたっぷり二分ほどやつの行動を観察した後、最初より遅くなったとはいえ尋常でない速度で向かってくるのを見て、再び車を発進させた。


 石川富山で頻発していた破損事件から推察していたが、やはりやつにとって光は、思った以上に影響を受けるものらしい。


 ならば、そこにつけいることができれば。


 車を飛ばしながら、俺の頭の中はめまぐるしく計算をはじめていた。



 蜘蛛が街路灯に気をとられ、そのぶん時間に余裕ができたのは僥倖だった。


 十一号線と交差する北陸新幹線の高架を潜り抜けると、行く手に町が広がっていた。庄川の西岸にある高岡市街の街並みが、対岸のこちら側まで伸びてきたものだ。


 今まで走ってきた郊外とは違い、ここから先は国道八号線や複数の県道を跨いでいくことになるため、流石に速度を落とさねばならない。深夜とはいえ、いや深夜だからこそ長距離トラックなどと出くわすかもしれない。出会いがしらの事故は避けたかった。


 法定速度ギリギリを維持して深夜の町中を飛ばす。人通りは絶えていたが、コンビニをはじめとする深夜営業の店舗には光が灯っていた。


 俺が連れてきたようなものだが、願わくばそれらに蜘蛛の矛先が向かぬように。


 いや、他人の心配をしている暇があるか。八つ裂きになる第一候補は俺なのだ。


 バックミラーで後方を確認。蜘蛛の影はまだついてきている。


 俺の血は車のルーフにべったりと着けておいた。凝固しても臭いは強いだろう。少なくとも蜘蛛が嗅ぎ取れる程度には。だからやつが俺を見失う心配は――本音を言えば残念だが――ほとんどなかった。


 時間的にも精神的にも余裕ができたことで、落ち着いた思考が戻ってくる。


 これから予定を戻し、やつを朝まで引きずりまわすべきか。


 この先は建物が密集した沿岸地域に入る。それだけ街路灯や店舗の明かり、その他照明の数も多いだろう。蜘蛛の足を止めるに足るだけの数はあるはずだ。


 そう考えながら、俺はもう少しばかり車の速度を落とした。


 蜘蛛が現れてから死に物狂いで運転に集中し続けていたら、気づけば山からここまで既に十キロ以上を走りぬけていた。恐ろしさに時間間隔は引き伸ばされていたものの、果たして現実では一時間も要したかどうか。


 計画は開始当初から大きくズレこんでいた。これからなんとか挽回していかねば……。


 蜘蛛を連れまわすならどこを走るべきか。この先に東西に走る県道四十四号線がある。これに乗って東の富山市方面へ一度向かい、途中で南北に走る県道四十一号線へまた乗り換えて富山湾を目指す。距離だけを見れば、最短ルートより時間が稼げそうだ。


 カーナビを見ると四十四号線はもうすぐ先にせまっていた。


「曲がるべきか、直進すべきか。曲がるか、進むか」


 この迂回ルートで懸念すべきは、富山平野を分断する呉羽丘陵の北端がすぐ近くにあることだ。蜘蛛にとって山林地帯は格好の隠れ家となる。だがこれは考慮しなくとも良いだろう。怒り狂っている蜘蛛が逃げ出すとすれば朝が来た時だけ。今から四十四号線に乗って呉羽丘陵近くを通ったところで、その頃にはまだ空が白むことすらあるまい。


 不安要素は消えた。今は僅かな時間でも朝に近づきたい。


 俺は四十四号線に進路を変えるべく、カーナビに手を伸ばした。念のため事前にルート登録はしてある。それを呼び出せば……。


 だがオンボロカーナビはこんな時に限って操作への反応が鈍い。


「ええい、この死に損ないが」


 いつまでも操作のために片手を空けてられない。後ろを振り返り、蜘蛛との距離を測る。早くしなければやつが後ろから……。


「…………」


 ……なぜ、見えない?


 蜘蛛の姿は忽然と消えていた。


 鉄塔もかくやという大きさだったはずだ。それが、どこにも見出せない。いかに夜の闇が濃いとはいえ、まったく見えないということがあるだろうか。


 今走っている県道十一号線は一車線とはいえ見通しの良い道だ。道路沿いの建物も二階建てがほとんどであり、頭上には広い空が広がっている。小さく区切られたリアガラス越しでもなお充分なほどに。そして現に今までそれで確認できていたのに。


 嫌な予感を抱き、アクセルを強く踏む。急な加速にエンジンが不満の悲鳴をあげ、車窓に映る町並みが後方へとどんどん飛び去っていく。


 なんだ。今度はなんだ。


 サイドミラーを見ても何も映らない。


 車窓から頭を出して直接確認すべきか。


 だが、急に湧き出した恐怖心が心を縛った。理屈は知らない、それでも振り返ってはいけない気がする。これは良くない前兆かもしれないのだ。


 俺はただひたすら前を見て運転を続けた。


 蜘蛛は俺を見失ってどこかへ消えたのか。それとも帰還限界、すなわち朝が来て隠れる場所がない地域にいることを悟って、しぶしぶ山地のほうへと帰ったのか。


 いや。それはない。


 確証なき直感だが、やつは俺に対し怒りをおぼえている。そして朝まではたっぷり時間がある。これから俺を捕まえて八つ裂きにし、それから悠々と山へ帰ることなど、余裕でこなせるだろう。ここで追跡を諦める理由はあるか。なにもない。


 では蜘蛛が姿を消したのはなぜだ?


「……ぁ……」


 その答えは、再びバックミラーに映った。


「あ、ああ……」


 だが、それは。


「あああっ! うあああああああぁーっ!!」


 絶叫が喉を貫いた。


 まず血の気が引き。


 アクセルペダルを折れんばかりに蹴りつけて踏みしめ。


 見開いた目をただただ前のみに向け。


 まるで車を構成する機械部品の一個になったかのように、ひたすら加速を強いた。


 背後から追跡してくる影。


 それは紛れも無く蜘蛛であった。


 ただ、その脚の長さは、かつて俺が屋上で見た抜け殻のそれと同じにまで縮んでおり。


 それを高速回転するキャタピラのように胴体の左右で動かしながら、暴走したダンプカーのごとく恐ろしい速度で、しかし無音で至近距離まで追ってきていたのだ……!


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