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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
誰が駒鳥殺したの
99/105

⑵途切れる

 偶々、虫の居所が悪かっただけだった。


 苦労して熟した課題が思うような評価を得られなくて、財布を落として、電車では痴漢に遭った。酷く疲れていて眠ってしまおうとベッドに潜り込んでも睡魔は訪れず、結局、朝方まで寝返りを打っていた。

 嫌なことは記憶に残り易い。忘れてしまおうと思うのに、頭から離れない。


 そんな朝だった。


 リビングの窓を開けると物干し竿に鳥籠が下げられていた。霖雨がそうっと覗き込むと、其処にはあの灰色頭の雛鳥が蹲っていた。

 先日までは和輝の部屋で保護されていたけれど、鳥籠に移動したらしい。扉には内側からは容易く開くような細工が施されている。この雛鳥が飛び立とうと思う時には出られるように配慮しているのだろう。


 餌箱や水飲み場も設置されていた。与えられる餌ではなく、自らが空腹を感じた時にそれを満たせるようにしているのだ。

 あの気味の悪い幼虫を潰さずに済むことに胸を撫で下ろすべきなのだろう。


 雛鳥とも、もう呼べないのかも知れない。羽毛も殆ど生え揃い、鋭い嘴は自分の力で餌を捕ることが出来る筈だ。


 もう充分だからと自然界へ投げ出さないことが、和輝らしいと思った。凡ゆる事態を想定しながらも、最低限、命の保証はしている。それでいいよと言う彼の声が聞こえるようだ。


 けれど、霖雨には解らなかった。

 和輝の行為は善意で、正解なのだ。これ以上無い模範解答なのだろう。けれど、全ての雛鳥がこうして安全を守られ巣立つ訳ではない。この雛鳥だけが運が良く特別で、この先、厳しい自然界で生きて行けるのか。


 解っている。巣立った後のことまで責任を負う必要は無い。そんな義務は無いし、第一、拾って来た霖雨が世話するべきだった。

 これは霖雨の個人的な感情だ。ーーずるい。そう、思った。


 これだけ環境を整えられているのに、ぬくぬくと鳥籠の中で呼吸している存在が、ずるいと思う。


 扉は内側からは容易く開く。外敵から身を守る為の檻なのだ。閉じ込めているのではない。


 何の関係も無い筈なのに、提出した課題を突き返した教授の顔や、鬱陶しそうに対応する警察官、見て見ぬ振りをする他人の群れが浮かび上がる。

 霖雨は、自分の神経がささくれ立つのが解った。今すぐにでも檻を開けて、出て来いと叫びたい。


 和輝は、霖雨や葵に対しても同じことをするのだろう。それでいいよと手を広げ、最低限のラインは引いている。


 お前、何様だ。お前に何が解る。

 世界はお前が思う程に美しくも優しくもない。お前は簡単に手を伸ばすけれど、救われないことだってあるのだ。和輝は希望があると言い、葵は絶望だと言った。霖雨には解らない。




「霖雨」




 聖人君子みたいな青年が、後ろから呼び掛けていた。霖雨は腹が立って仕方無かったが、気を落ち着けながら振り向いた。

 今更になって、葵の気持ちが解る。

 世の中はきれいごとではやって行けない。彼が膝を着いた時にこそ言ってやりたいと思う。だが、彼はその信念を此処まで貫いて来たのだ。それがやり切れなく、悔しいと思う。


 和輝が立っていた。苛烈な存在感を放ち、揺らぐことの無い意志を滲ませていた。

 世界にはヒーローが必要だ。けれど、友人になるには難しいだろう。




「朝食、出来たけど」

「今行くよ」




 笑顔で答えたけれど、口調は尖ってしまった。和輝は何かを言いたそうに立ち止まっていた。

 それを躱すつもりで背を向けると、和輝が腕を掴んだ。溺れる者が藁に縋る様に似ていた。




「霖雨、聞いて欲しいことがあるんだ」

「ーーごめん」




 今は、聞けない。

 霖雨が言うと、和輝は力無く笑った。

 その口は正論を吐くのだろう。正解を言うのだろう。自分には出来なかったことを、当たり前みたいに言って、実現するのだろう。


 これは、嫉妬だ。

 霖雨は和輝を突き放した直後に、それに気付いた。


 振り向いた時、和輝が立っていた。

 何も無かったみたいな顔で小首を傾げながらも、その場所を動こうとしない。

 まるで、置いて行かれた迷子みたいだった。

 霖雨は手を伸ばしたい衝動に駆られた。だが、和輝はそのままキッチンへと消えて行った。その背中がやけに小さく見えた。









 誰が駒鳥殺したの

 ⑵途切れる









 自分が敵を作り易いことは、解っていた。


 和輝は物干し竿に下げた鳥籠を眺めながら、そっと目を落とす。外は冬の気配が近付き、指先は外気に晒され冷たくなって来ていた。

 雛鳥が巣立つ為に適した季節なのかは解らないが、何時までも部屋に閉じ込めて置く訳にはいかない。


 目を上げる。突き抜けるような蒼穹だ。急に郷愁が込み上げて来て、和輝は慌てて頭を振った。


 自分が敵を作り易いことは解っている。けれど、その理由が解らない。

 解らないからと訊けば、冷たくされることが多かった。どうせ、お前には解らないよ、と。


 じゃあ、誰なら解るのだ。

 和輝はその言葉を吐き出す先を知らなかった。如何して自分だけが線の外側に追い遣られて、仲間外れみたいにされるのだろう。

 輪の内側に入る術が無かったから、自分で輪を作るしか無かった。けれど、それでは殻に籠っているのと同じようではないのか。

 理解出来ないからと排他的になっているのは、自分ではないか。そう思うから、和輝は微温湯の中から出ることを決めたのだ。


 解っていたことだろう。

 何度でも、自分に言い聞かせる。

 一度や二度の失敗で結果が解るのなら、誰も生き方を間違いはしない。


 大丈夫、大丈夫。




「ーー本当に?」




 何処かから声が聞こえて、和輝は顔を上げた。緑柱玉の瞳が、此方をじっと覗き込んでいた。




「お前は正しいよ。でもね、世界は正しい人間の方が少ないんだ」




 不法侵入ではないのか。

 和輝は、何時の間にか庭へ侵入している翡翠を睨め付けた。




「何処から来た」

「庭先から見えたから」




 それで許されるのなら、警察なんていらないだろう。

 翡翠は鳥籠を見て、意味深な笑みを浮かべた。




「正論の塊みたいだねえ」

「何が」

「これ、お前の同居人には見せた? 嫌な顔をされただろう」




 まるで、先程の遣り取りを知っているみたいだ。匠からの情報を思い出して、自分を監視している存在を疑った。

 こんなことを咎められる謂れも無い筈なのに、今朝の霖雨の声が蘇って退けられなかった。

 翡翠は楽しそうだった。




「お前は正しいよ。吐き気がするくらい正しい。でも、全ての人間がこの答えを導き出せる訳じゃない」

「何で。最善を尽くせば行き着く答えだろ」

「人は最善を尽くさない。何処かで手を抜いて、妥協しながら生きている」

「そういう時もあるだろう。でも、それだけじゃない筈だ」

「人は、自己と他者を比較しながら生きている。誰でも横並びで歩き続けたいと思っている。だが、お前はその中で簡単に走り出す。それを見ると、周りは焦る。急いては事を仕損ずるというから、碌な結果は出ない。そんな時、如何すると思う?」

「失敗したと思うなら、反省するだろう。同じ失敗を繰り返さないように、今度は転ばぬように最善を尽くす筈だ」




 和輝が言うと、翡翠は声を立てて笑った。

 ほらね、それだよ。それが、違うんだ。

 揶揄するように、翡翠が言う。




「殆どの人間は、走り出した奴を恨むのさ。お前が走り出さなければ、こんな結果にはならなかった。お前のせいで、お前さえいなければーー」

「卑屈だね。何かで劣れば何かで秀でている。細胞が自己修復機能を兼ね揃えているように、人の心にも自己を励まし前へ進める力がある」

「何も無かったら?」

「そんなことあるもんか」

「あるよ。お前、誰かを尊敬したことある?」




 同じ質問をされたことがある。

 和輝は、此処にいない透明人間の幻を見た。


 あるよ。

 言葉は声にならなかった。




「他者を自分よりも上の存在として、敵わないものとして認識したことある? 無いだろう。人は横並びだと、お前は信じているから」

「上下があると思うのは、見方が偏っているからだ。普遍的な視野で考えれば、人は平等だ」

「人は平等ではないよ。だからこそ、競争し、向上心を持つ。世界はそうして回って来た。お前は世間一般の大多数の人間にとっての敵だ。打ち倒すべき壁で、乗り越えるべき障害物なんだ。それなのに、お前は何時までもお高く止まって其処に居続ける。それが人を追い込む」




 鳥籠を片手に弄びながら、翡翠が笑う。

 歌うような軽やかな口調で、言葉は台本を読んでいるみたいに滑らかだった。




「大空を飛べる鳥に、地べたを這いずる蟻の気持ちは解らない。土の中でたった一匹の女王に従って、意志も無く作業を熟して一生を終える蟻の気持ちなんて、解る筈も無い」




 ふと目を落とした先、庭の隅に土の掘り返された跡があった。雛鳥の餌を捕らえる為に、和輝が掘り返したのだ。




「人は誰かを下に見ながら、自分はまだましなんだと安心して生きて行きたいんだよ」

「それなら、文明の発達は起こり得なかっただろう」

「自分より優れた者を妬み、徒党を組み、虐げ、それを打ち倒して来たんだ」




 自分達は、きっと解り合えない。和輝はそう思う。それでも、何処かで理解出来るのでは無いかと信じたい。希望を捨てられない。

 背中を向けられて、いないものみたいに扱われて、置いて行かれても、ーー何時か、迎えに来てくれるのではないか、と。


 翡翠は目の前にしゃがみ込み、幼児に言い聞かせるように言った。




「お前の選んだ道は正しいよ。お前は孤独であるべきなんだ。他人と馴れ合うべきじゃない」

「それでも、俺は人と生きて行きたい」

「出来ないよ。お前は他人とは違う」

「違う!」




 感情的になっては負けだ。頭の冷静な部分が警鐘を鳴らすが、和輝は言わなければならなかった。

 自分が優れた人間だなんて思ったことは無い。自分は未熟で弱い人間だ。だからこそ、人と繋がりたいのだ。誰かに助けて欲しい。


 翡翠が手を伸ばす。弱い日差しを受けた双眸が、宝石みたいに輝いて見えた。




「弱者は徒党を組んで、強者を悪者にする。善悪は多数決で決まるんだ。なら、お前も誰かと肩を組むしかない」

「対立が全てじゃない」

「全てではなくても、一度対立すれば決裂だ。冷戦が永遠に続くと思うのかい?」

「人は敵対しているのではなく、肩を組んで輪の内側を見ている。そう信じたい」

「お前は輪の外にいるのに?」




 議論に勝機は無い。相手の土俵に上ることが間違いだ。だからこそ、和輝はこれまで幾度と無くその土俵の外で挑んで来たのだ。


 此処は翡翠の土俵だ。

 一度上ったからには、勝敗が着くまで下りることは出来ない。和輝は喘ぐように口を開く。




「人の信念は多数決に従わない」

「結果、お前は少数派として殺される」

「如何かな」




 和輝は立ち上がった。

 緑柱玉の瞳を見下ろし、其処に吸い込まれないようにと両足に力を込める。


 行ってきますと言ったら、おかえりと返してくれる。逃げ出したいと願えば、背中を押してくれる掌がある。

 その存在が、今まで幾度と無く和輝を支えて来た。


 こんなところで、負けるつもりは毛頭無い。




「小難しいことは性に合わない。これが水掛論であることくらい、解っているだろう」

「水掛論を終わらせるには、異なる視点からの言葉が有効的だ。俺はお前に、別の観点を善意で知らせているつもりだよ」

「余計な御世話だ」




 和輝は言い捨てて歩き出した。

 今日はこれから出勤しなければならない。無駄な時間を食ってしまった。


 傍に投げ捨てていた鞄を拾い、庭を出る。平日の昼間、界隈は静かだった。

 徒歩では間に合わない為、公共機関を利用する。

 霖雨に、匠と話したことを伝えたかった。自分を監視する何者かが存在する。脅威が迫っている。それを伝えたかったが、その機会が無かった。


 早足に進む和輝の後ろ、翡翠が影のように後を追っていた。余程、暇なのだろう。喫茶店のアルバイトや大学は如何なったのだろうか。


 駅前には疎らに人が存在していた。

 和輝は人の隙間を擦り抜け、改札を抜けた。翡翠は相変わらず食えない笑みを浮かべて後を追って来ている。


 プラットホームに立つ。周囲の人は、まるで別世界で生きているみたいに目を背け、己の作業に没頭している。乗車する電車の中は間も無くやって来る筈だ。

 携帯電話を取り出して時刻を確かめる。あと、五分。


 新着メールが一件届いていた。送信者は霖雨だった。

 飾り気の無い文章で、今日は遅くなること、夕食は先に食べていて良いこと、そして、ーーいってらっしゃいと記されていた。


 ただそれだけで、胸の中に淀む正体不明の棘が解けていく。和輝は返信しようとして、止めた。隣には翡翠が立っていた。


 和輝が顔を上げると、目が合った。それが合図だったみたいに、翡翠が不思議そうに首を傾げて言った。




「お前は証明して見せると言ったが、その結果は何時出るんだい? 目に見えない漠然としたものばかりを並べ立てたところで、確かなものは一つも無い。自分が酷く曖昧なことを言っていると理解するべきだ」




 これは忠告なのだろうか。

 冷静さを取り戻した頭で考えながら、和輝は言い返した。




「大切なものは目に見えない」

「目に見えないものを如何やって証明する? 誰がそれを理解してくれる? 結果が全ての現実で、自分には出来たのだから、お前にも出来るだなんて言うのかい? 人は既に自分に出来る領分を弁えている」

「それでも、上を目指したいと思うから衝突する。衝突は悪いことじゃない。必要な過程だ」

「そして、お前は打ち倒されるんだよ」




 如何して、こんな話をしなければならないのだろう。


 今更になって、和輝は疑問に思った。

 解り合えないのなら、干渉しなければいい。それなのに、執拗に訴え掛ける意図は何だろう。彼は柳に風といった調子で、己の信念を広めたい様子では無い。忠告の態を取っているけれど、此方を気遣っているようでは無い。堂々巡りで一貫性も結論も無い。ただ、自分を悪戯に否定している。


 目的は何だろう。

 何にせよ、この場で解り合えるとは思えない。和輝は早々に切り上げるつもりで目を背けた。


 丁度、電車が到着するようだった。構内アナウンスの報らせを遠くに聞きながら、和輝は携帯電話をポケットへ押し込んだ。


 目を背けた先で翡翠が笑っているような気がした。これは敵前逃亡なのか、戦略的撤退なのか解らない。だが、電車に乗り込んでまでこんな議論は続けないだろう。


 その時だった。

 電車の到着を目の前にして、和輝の視界はぐるりと回転した。


 翡翠の放った数々の言葉が、遅効性の毒を持っていたように感じられた。

 何処か遠くで悲鳴が聞こえている。

 倒れるものかと踏み締めようとした足は、空を蹴った。目の前には、線路の褪せた赤茶が一杯に映っていた。




「コンティニューするかい?」




 頭の上からそんな声が降って来た。言い返す言葉を失ったまま、和輝の意識は途切れてしまった。







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