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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
誰が駒鳥殺したの
98/105

⑴目隠し鬼

Life doesn't forgive weakness.

(命は弱さを許さない)


 Adolf Hitler






 手の中には乳白色の陶器の棒。テーブルでは同色の鉢に、親指程の幼虫が数匹転がっている。


 ぶよぶよした表皮には身を守る為の鱗や毒も無い。蛍光灯の明かりに怯えながらも、その場から逃れる為の四肢も無い。食物連鎖の底辺に生きる捕食し易い生き物だ。

 神の寵愛を受けなかったのだろう。哀れな幼虫は音も無く蠢くばかりだった。


 さあ、幕を引く時だ。

 和輝は手にした棒を振り下ろした。


 表皮が弾け、内臓物が潰れる。ぐちゃり、と耳障りな音が聞こえた。器の中では粘性を伴った体液が迸る。


 おや、と思う。腹部を潰された幼虫が狂ったように身を捩り、声無き声でその苦痛を訴え掛ける。


 しぶといな。

 和輝は手に力を込めた。


 名を呼ばれたのは、その後だった。




「和輝?」




 後方から声を掛けられ、和輝は振り返った。外出していたらしい霖雨は、時間の経過と共に重力の影響を受けて萎れた頭髪を蛍光灯の光に透かせている。

 和輝は背後に目をやりながらも、手を止めなかった。ぐちゃぐちゃと棒を掻き混ぜて、幼虫だったものを磨り潰す。

 手元を覗き込んだ霖雨が、少女みたいな悲鳴を上げた。




「お前、何して、」




 引き攣った顔で霖雨が声を震わせる。驚かすつもりなんて、無かった。

 和輝はそれを丹念に磨り潰しながら、平静と変わらぬ声で答えた。




「ミルワームを潰してる」

「何の為に、」

「夕食なんだよ」




 言うと、霖雨は恐怖に一層顔を強張らせた。

 言葉が足りなかったことを、和輝は反省した。けれど、今更訂正するのも面倒になって、黙って立ち上がった。


 窓の外は闇に包まれている。冷えた夜風がレースのカーテンを揺らし、その度にレールと金具が微かな音を立てた。秋の夜長を鳴き通す虫の声に似ている。

 季節の移り変わりと共に日照時間は短くなり、やがて、多くの生命を眠らせる冬がやって来る。

 壁には衣替えの為に取り出したグレーのピーコートがハンガーに掛けられていた。上着を羽織らなければ出歩けない季節が、すぐ其処までやって来ている。


 恐怖と驚愕に言葉を失っている霖雨はそのままにして、和輝は自室に戻った。物の少ない殺風景な室内はしんと静まり返り、冷たい空気が占拠している。

 小さな机の上に、ボロ雑巾みたいな塊が置かれている。其処から顔を覗かせる灰色が、和輝の存在を知ると必死になって声を上げた。

 此処にいるよ、と訴え掛けている。

 灰色の頭部に埋もれる黒色の眼球には、餌を持った自分の姿が映り込んでいた。和輝は椅子に腰掛け、手にしていた幼虫の残骸を少量ずつ与える。

 砂漠の遭難者が水を求めるように、黄色の鋭い嘴が忙しなく幼虫の残骸を啄ばんでいた。


 美味いか。

 返答を求めない言葉は、恐らく独り言に含まれるのだろう。

 体格からは想像も出来ない程の量を食べ終えた雛鳥は、微睡むように瞬きをした。満足だと口を閉ざし、ボロ布の中に顔を埋める。


 和輝は嘆息を零し、同居人の誤解を解く為に部屋を出た。リビングでは、先程と同じ場所で霖雨が目を真ん丸にして此方を見ていた。

 ずっと固まっていたのだろうか。和輝は言った。




「雛鳥の夕食」

「紛らわしい言い方をするな!」




 霖雨が悲鳴みたいに叫んだので、可笑しくなって和輝は口元を緩めた。


 以前、霖雨が拾って来た雛鳥は如何にか生存している。

 広げるべき翼は無く、保護してくれる筈の親も無い。自然界の掟に従うならば、雛鳥はそのまま生き絶えるべきだったのだろう。だが、それを霖雨が拾った。

 その霖雨とて鳥類の知識がある訳でも無かったらしく、雛鳥は見る見る内に衰弱していた。見兼ねた和輝が専門家に指導を仰ぎ、代わりに世話をすることとなったのだ。

 人間の赤子と同様に、雛鳥の生活リズムは整っていない。夜行性の雛鳥の為に寝不足の日々が続いたが、現在は大分安定し、羽根も生え揃って来た。

 霖雨が拾って来たけれど、雛鳥は和輝を親として刷り込んで覚えたらしい。

 和輝も鳥類に詳しくはないので、名前は知らない。雀や鳩ではないことは確かであるが、鋭い双眸をしているので、猛禽類なのかも知れない。


 衝撃から立ち直った霖雨が、溜息を零しながら洗面所へ入って行った。代わりに和輝はキッチンへ向かい、夕食の準備を始める。

 下拵えは済ませてある。フライパンの中には乳白色の液体が柔らかな湯気を昇らせている。

 隣の鍋には煮えた湯が満たされていた。和輝は瓶の中からパスタを流し込む。


 手洗いと嗽を済ませた霖雨が、濡れた口を袖で拭いながら戻って来た。和輝は鍋の中を掻き混ぜ、湯に踊るパスタを眺める。

 匂いに釣られたみたいに霖雨がカウンターの向こうから顔を覗かせて訊いた。




「今日の夕飯、何?」

「クリームチーズのニョッキ」




 ニョッキって何だっけ、と小首を傾げる霖雨の為に、和輝は鍋の中を舞うパスタを見せてやった。

 霖雨は、再度顔を引き攣らせ、悲鳴を上げた。

 何に悲鳴を上げたのだろう。和輝は鍋の中を覗き、理解した。指先みたいな紡錘形のパスタを見て、雛鳥の餌を連想したのだろう。

 隣で完成しつつあるクリームチーズのソースを見下ろし、和輝は仔兎みたいに怯える霖雨の為に、冷蔵庫から南瓜のブロックを取り出した。







 誰が駒鳥殺したの

 ⑴目隠し鬼







 目を閉じると見えるものがある。


 薄い瞼を下ろした時に浮かぶのは血管や皮膚ではない。視力を失った透明人間が言っていた。


 それは、暗闇だ。




「ご馳走様」




 行儀良く手を合わせ、霖雨が言った。

 白い丸皿に収まっていた南瓜クリームのニョッキは完食している。パスタの麺がミルワームに見えると霖雨が言うので、急遽メニューを変えたのだが、如何やら悪足掻きに過ぎなかったらしい。


 取り分けられた食材は完食しているが、お代わりはしなかった。鍋の中にはまだニョッキが眠っている。

 流石に翌日まで持ち越す訳にはいかなかったので、和輝がすべて平らげた。霖雨が胡乱な眼差しを向けていたけれど、黙っていた。


 和輝が食べ終わるまで待っていてくれたらしい霖雨は、徐にテレビの電源を入れた。退屈なワイドショーが映し出され、リビングは喧騒感に包まれた。

 食器を片付ける為に席を立つ。和輝がキッチンの水盤に運ぶと、テレビを見ている筈の霖雨が言った。




「何か困っていることは無いかい」




 唐突な問い掛けだ。

 和輝は食器を水に漬け、へらりと笑って答えた。




「困っているように見える?」




 テレビへ向いていた霖雨の首がゆっくりと回転して、此方に固定される。茫洋とした大きな瞳の奥に、正体不明の金色の光が宿っているように見えた。


 錯覚だ。

 和輝は目を伏せ、食器洗い用のスポンジを手に取る。

 植物由来の洗剤を数滴染み込ませ、泡立てる。真っ白な泡が膨らんでいた。



「本当に困っていたら、お前は黙っているだろう。そして、俺にはお前の嘘が見抜けない。今はそれでもいいかも知れない。でも、本当にまずい時に解らないんじゃ、俺が馬鹿みたいじゃないか」




 捲し立てるみたいに言った霖雨が、やけに切羽詰まっているように見えた。追い詰められている人間の反応だ。

 和輝は食器を洗いながら、その様を具に観察する。




「少しでも迷った時には口にしてくれ。些細なことでも、構わないから」

「ありがとう」




 口調はなるべく柔らかく、和輝は答えた。

 この言葉は予防線だ。何かがあった時ーー否、霖雨は何かが起こると予感しているのだ。それはつまり、彼こそが自分に何か隠し事をしているということだ。


 霖雨が隠し事をするなら、それは一つしかない。

 此処から消えた透明人間のことだ。それを黙っているのなら、自分に知られて困る理由があるのだろう。自分に危険が及ぶか、第三者が口止めしているか。


 其処まで推察して、和輝は皿洗いを終えた。


 自分には人の嘘が解る。それは諸刃の剣であることを痛い程に知っている。知られたくないから、黙っているのだ。腹の底を探られて喜ぶ人間はいない。結局、猜疑心は此方に返って来る。


 和輝は顔を上げた。霖雨が真っ直ぐに此方を見ていた。




「色々と心配を掛けていたみたいで、悪かったね。もう大丈夫だから」




 霖雨は、何も言わなかった。

 和輝もそれ以上は口にしない。会話は其処で終わった。霖雨は何か言いたげにしていたけれど、続く言葉は笑顔で切り捨てた。


 一通りの家事を終え、和輝は自室へ籠った。

 電灯の消えた室内は暗く、まるで世界に独りだけ取り残されてしまっているようだった。


 和輝は置きっ放しにしていた携帯電話を拾い上げる。友人からの近況報告が幾つか来ていたが、後回しだ。

 記憶している11桁の電話番号をタップして、電話を掛ける。回線はすぐに繋がった。




『ーー如何した』




 寝起きのような低い声が、端的に言った。和輝は其処で漸く電灯を点ける。室内は一瞬で明るくなり、闇は家具の影へ追い遣られた。

 不機嫌そうな声に何故だか酷く安堵する。和輝は彼の名を呼んだ。




「匠」




 母国にいる親友だった。

 彼に隠し事はしない。隠しても、ばれてしまう。そういう間柄で、今までこの関係性に救われて来た。

 けれど、今は違う。

 何をと訊かなくても、声だけで解る。ーー彼は自分に隠し事をしている。




「余計なことをするな」




 スピーカーの向こう、匠が舌打ちをした。

 嘘は見抜かれると互いに了承している。




『お前の為にしている訳じゃない。俺の為だ』

「その結果が俺の為になるのなら、同じことだ。俺が何の為に海を渡ってまで此処にいるのか、知ってるだろ」

『全部自分でやりたいからだろ。自分で考えて、自分で責任を取って、自分で決断する為だ。他の誰も巻き込まない為だろう』




 口調は此方を責めている。短気な彼らしさが懐かしく、同時に目の前にいないことが歯痒かった。




「解っているなら、関係無いことまで首を突っ込むな」

『お前のことで、俺に関係の無いことがあるのか?』




 あるだろう。別の人間なのだから。

 和輝はその言葉を呑み込んだ。これは諸刃の剣だ。匠を突き放せば、自分が辛くなる。そのくらい共に過ごして来た。この関係性を捨てることだけは、出来ない。

 けれど。


 けれど、何時までも一緒にはいられないのだ。甘え続ける訳にはいかない。


 此方の迷いが透けているのか、匠が固い声で言った。




『人は独りじゃ生きられない。俺も、お前も』

「それでも、何時までも一緒にはいられない」

『無人島にでも行けば? 孤独の辛さが解るだろうさ』




 突き放すみたいに匠が言った。

 例え無人島に行っても、彼は追い掛けてくれるのだろう。海を渡っても、空を越えても此処まで来てくれる。

 この関係性が歪なのか異常なのか、自分達にはもう判断が付かない。


 和輝は大きく深呼吸をした。スピーカーの向こうの匠も同じくゆっくりと呼吸をしている。ヒートアップしていることは互いに解っているのだ。


 気を落ち着け、和輝は言った。




「ごめん、八つ当たりだった」

『いいよ、このくらい』




 真面目な彼の言葉が嬉しく、和輝の口許には笑みが浮かんだ。

 どんな理由があったって、人に八つ当たりしていい理由にはならない。そう思うけれど、それが許される相手がいる。

 受け止めてくれると解っていて当たるのは、ずるいのだろう。これは幼児の駄々と同じだ。




「ちょっと、疲れてたんだ」

『飯、食った?』

「うん」

『じゃあ、寝ろ』




 そのまま回線を切断してしまいそうな勢いだったので、和輝は慌てて言った。




「匠」

『ーー俺は』




 突き付けるような強さを滲ませて、匠が言葉を遮った。それだけで和輝は自分の言おうとした言葉が霧散してしまった。




『俺は、お前におかえりって言う為に待ってるんだ』

「うん」

『約束だぞ』




 うんーー。

 和輝はそっと瞼を下ろした。


 目を閉じると見えるものがある。それは暗闇だ。透明人間はそう言った。けれど、和輝には暗闇が見えなかった。

 電灯に透ける血潮の色が見える。生きている証拠だ。


 このまま眠ってしまいたい程の充足感が身体に満ちていくのが解る。けれど、和輝は訊かなければならないことがあった。

 焦燥感に掻き立てられるように、和輝は問い掛けた。




「俺に迫っている脅威の正体を教えてくれないか」




 言葉は疑問系を作りながらも、声は否定を許さない。

 和輝が言うと、匠はスピーカーの向こうで溜息を吐いたようだった。

 匠は観念したみたいに言った。




『お前、誰かに見張られてるよ』

「誰に」

『知らないよ。俺が其処にいたら、乗り込んでやるんだけど』

「残念だったねえ」




 和輝が言うと、匠は少しだけ笑った。


 見張られているーー。

 監視カメラか、盗聴器か、発信機か。そして、その目的は何だろう。

 こんな何の変哲も無い成人男性を見張るなんて正気の沙汰じゃない。




「身の周りには注意しておくよ」

『そうしてくれ。間違っても、乗り込もうなんて馬鹿なことはするなよ。藪を突いて蛇を出す必要なんて無いんだから』




 親友の忠告は有り難く受け取って置く。

 和輝は笑った。




「ありがとう、匠」

『さっさと寝ろ』

「そうするよ」




 またね。

 互いに声を重ねて、通話は終わった。


 静かになった室内で、雛鳥の声だけが微かに聞こえている。餌を求めているのか、それとも温もりを欲しているのか。


 和輝は雛鳥の巣ごと掌に乗せた。




「鳥籠を用意するよ」




 そして、室内ではなく大空の下に出してやろう。飼育が目的ではないのだから。

 鳥籠には内側から開くように細工をしよう。飛び立とうと思う時に出られるように。

 襲い来る外敵から守られるように頑丈な檻にしよう。自由の意味を履き違えてはならないから。


 大空を見て、翼を広げたいと思う日が来る。飛び方を教えることは出来ないけれど、自由を与えることは出来る。




「大丈夫」




 雛鳥を励ましているのか、自分に言い聞かせているのか、和輝にはもう解らない。

 零した言葉は呪文のように、無人の室内に響いて、溶けた。

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