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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
夢喰いバク
97/105

⑸絞首台

「あいつは天才だから、仕方無いんだ」

「いつも俺たちのことを見下してる」

「眼中に無いんだ。俺たちはただの頭数」

「大人に贔屓されていい気になっているんだ」

「俺たちだって一生懸命やってるのに、解ってくれない」




 醜い罵倒や嫉妬の悪口が、酷い臭気を纏って溢れ出したようた。

 此処は掃き溜めだ。霖雨は、そう思った。


 アレックスという少年の為に、和輝は何か行動を起こそうとしていた。危険が伴うと解っていても、和輝は手を引きはしないだろう。だからこそ、霖雨は行動を起こさなければならなかった。先手を取らなければ、如何なってしまうか解らない。


 アレックスという少年の所属するバスケットボールチームの練習場に来ている。近隣のジュニアスクールの体育館を利用し、チームは週四日練習をしているらしい。

 此処にあの才能溢れる少年はいない。足の怪我の治療の為、和輝の勤務する接骨院で受診しているのだ。本日は欠席らしい。

 アレックスの不在を知ったチームメイトたちは、あからさまにほっとした顔をしていた。天才と呼ばれる選手との練習は、凡人にとって苦痛だろう。並び立つことが出来ないだなんて、始めから解っているのだ。それでも、同じ場所で息をする限り、その比較は終わらない。


 霖雨が見学だと言って練習を覗くと、チームメイトの悪口が溢れていた。幼稚な嫉妬と、稚拙な物言いだった。一方的な彼等の言葉を聞いているだけの霖雨ですら、それが謂れの無い醜い嫉妬だと解る。

 アレックスに非は無い。だからと言って、チームメイトが悪いのか?


 天才は自分の思うようにプレーし、並び立てない凡人はそれを疎む。これは世界の摂理で、社会の縮図なのだ。


 練習は午後に行われていた。日が暮れた頃には終了し、選手たちは着替えの為にロッカールームへ引き返す。霖雨は首から見学許可証のタグを下げ、あたかも無関係の人間を装いながら彼等の後を追った。

 ロッカールームでも、アレックスの悪口は止まらなかった。シャワールームでも同様だ。彼等は、アレックスという天才を生贄に捧げ、共通の敵として認識することで一体感を持っているのだ。


 選手が消えた後、ロッカールームを覗いた。

 アレックスのタグの付いたロッカーの扉は、まるで蹴り付けられたかのようにひしゃげていた。其処には、本人へ直接向けられなかった悪意が克明に刻まれている。

 内部もまた、同様なのだろう。

 人間の本性を垣間見たような気がして、霖雨は胸が重く苦しくなる。手を伸ばすことも出来ず、項垂れていた。


 どのくらいの間、そうしていたのか解らない。その時、ポケットの中で携帯電話が震えた。緩慢な動作で取り出すと、ディスプレイには同居人の名前が記されていた。

 着信だ。霖雨はそれに応えた。




「もしもし?」




 如何した、と問いながら霖雨は漸く動き出す。携帯電話を耳へ当てながら、ロッカールームを後にする。

 廊下の空気は冷え込んでいた。練習が終わったから、空調も切られたのかも知れない。薄暗い廊下に、非常灯が怪しく光っていた。リノリウムの床に反射する緑色の光を横目に、霖雨は歩き始める。

 スピーカーの向こう、和輝の声は冷たく乾いていた。




『迎えに来て欲しいんだ』

「何かあったのか?」

『うん、少しだけ』




 控え目ながらも肯定した返答に、珍しいなと霖雨は困惑する。

 雑音の入り混じるスピーカーの向こうは、誰かが醜く言い争っているようだった。若い男の声だ。けれど、和輝は呑気に電話で迎えを頼む程度の余裕を持っている。どういう状況なのだろう。

 了承の返事をして、霖雨は通話を切った。そのまま和輝に取り付けられている発信機の電波を探る。

 場所は近い。この近くの公園だった。

 携帯電話をポケットに押し込んで霖雨は早足にその場所へ向かった。


 界隈は闇に包まれていた。点在する街灯がぽつりぽつりとアスファルトを照らし、周囲に人はいない。

 件の公園は目と鼻の先だ。何があったのだろう。


 公園に着くと、耳を劈くような罵声が突き刺さった。

 それが先程の少年たちの声だと気付き、霖雨は現場へ向かって走り出した。


 緑色のフェンスに囲まれたバスケットボールコートには、複数の人影が浮かんでいた。遠目にはその人物までは判断出来ない。

 ただ、穏やかならぬ気配に霖雨は身体を強張らせた。複数の人影が、誰かを取り囲んでいる。

 多勢に無勢だ。けれど、対抗する手段を持たない霖雨は多々良を踏んだ。そして、フェンスに凭れ掛かるように見覚えのある青年が立っているのを見付け、霖雨は駆け寄った。




「和輝」




 呼べば、振り向く。

 和輝は穏やかならぬ遣り取りを他人事みたいに眺めていた。


 その視線に促されて目を向ける。複数の少年たちに囲まれているのは、アレックスだった。

 今にも殴られそうな気配に、霖雨は自衛の手段すら持たないことを忘れて介入しようとした。だが、二の腕を強く捕まれて阻まれる。

 和輝は口の先に指を立てて、静観を促していた。




「助けなきゃ」

「如何やって?」




 向けられた双眸が、ぞっとする程の鋭さを持っていた。言葉を呑み込んだ霖雨に、和輝は秘密を打ち明けるような覚悟を滲ませていた。




「俺たちに出来るのは、彼等が道を踏み外さぬように、見守ることだけなんだよ」




 少年が手を上げ、アレックスの頬を強く打ち付けた。肉を打つ乾いた音が木霊した。それがスタートの合図だったみたいに、アレックスを取り囲んでいた少年たちは、わっと彼に飛び掛った。

 それはまるでリンチのようだった。

 一方的に殴られ傷付いていくアレックスを見て、霖雨は堪らず助太刀に入りたい衝動に駆られた。けれど、ふと隣を見た時に、和輝が固く拳を握っているのが見えて、行動は躊躇われた。

 和輝は、堪えているのだ。


 アスファルトに倒れたアレックスが、腹筋を使って勢いよく起き上がる。その勢いを殺さぬまま、正面に立つ少年を殴り付けた。

 弱者で被害者であったアレックスが、やり返したのだ。少年たちはやり返されることを予期していなかったのか、泣き出しそうに顔面を歪め、アレックスに飛び掛った。


 やはり、多勢に無勢だ。

 アレックスは見る見る内に血塗れとなっていた。倒れ込んだアレックスに少年が馬乗りになる。その拳が振り下ろされる刹那、少年の顔が歪んだ。




「如何して、お前ばかり」




 それが弱音で泣き言であることを、少年は誰よりも解っている。

 アレックスが天才であること、如何足掻いたって届かないこと、並び立てる訳でもないのに其処にいなければならないこと。きっと、解り合えない。


 少年の目から、涙が一粒溢れた。

 そのまま啜り泣くように俯いた少年に、アレックスは困惑しているようだった。


 解り合えない。でも、解って欲しい。

 天才が努力していないとは言わない。けれど、自分が血を吐くような努力を重ねていることを知って欲しい。これが足掻いた結果なのだと、解って欲しい。


 届かないと解っている努力を強いられた自分たちの苦しさを解って欲しい。アレックスが一日で習得出来る技術が、彼等にどのくらいの期間を必要とするのか、霖雨には解らない。

 アレックスが努力していないとは言わない。でも、自分たちだって、頑張ったんだよ。実を結ばない努力にだって意味があると言って欲しい。そうでなければ、今まで重ねて来た努力の行き場が無くなってしまう。


 そんな凡人の感情が、アレックスに解るだろうか。どんな理由があったって、八つ当たりしていい理由にはならない。それでも、八つ当たりでもしなければ自分を保っていられない。


 行くぞ。

 少年はアレックスの上から退くと、仲間を引き連れてコートを出て行った。敗走のような虚しさが背中に滲んでいた。


 頬を腫らしたアレックスが、口元の血を拭いながら起き上がる。和輝は漸く動き出し、ポケットから真っ白なハンカチを差し出した。

 アレックスは奪い取るようにハンカチを引っ掴み、高い鼻梁を押さえた。

 和輝は、己よりも高い位置にあるアレックスの頭を抱き寄せた。

 アレックスはされるがまま肩へ頭を預けた。霖雨の耳にくぐもった泣き声が微かに聞こえた。




「人は解り合えないよ」




 和輝は断言した。けれど、それは何かを後悔するような悲痛さが滲んでいた。

 アレックスの気持ちが、和輝には解るだろう。そして、少年たちの気持ちも痛い程に解るのだろう。




「解り合えないと知っていても、伝え続ける努力をしなければならない。どうせ解らないと投げ出すことは容易い。それでも、諦めてはならない」

「……和輝なら、如何する?」

「俺の答えがお前の答えとは限らないよ」




 でも、そうだねえ。

 和輝はオレンジ色の街灯を見上げながら、言った。




「諦めるには、まだ早いんじゃないかな」




 街灯に照らされた和輝は、少年のように笑った。

 それが千尋の谷へ突き落とすような残酷な言葉だとしても、一筋の光さえ射さぬ暗闇を歩かせる結果になったとしても、和輝は言うのだろう。

 希望がある、希望がある、希望がある、と。


 啜り泣くアレックスを抱いたまま、和輝は遠くを見ていた。それはまるで、もう戻らない過去を見ているようだった。


 人は解り合えない。それでも、解って欲しいとほんの少しでも願うのなら、抗い続けるしかないのだ。


 啜り泣くアレックスが、やがて寝息を立て始める。和輝はその間、一歩たりとも動かずに立っていた。










 夢喰いバク

 ⑸絞首台










 アレックスを送り届け、霖雨は和輝をバイクの後ろに乗せて帰路を辿っていた。

 先程の喧嘩は偶然勃発したものであったが、何時かは起こるものだったと和輝が言った。


 接骨院に受診したアレックスと帰り道で会い、偶々バスケットボールのコートを通り過ぎ、其処にチームメイトが通り掛かった。

 和輝はそう説明したが、霖雨は彼等は策略によって操られたのだと思っていた。


 神は乗り越えられる者にしか試練を与えない。和輝は彼等にその試練を与えた。そして、困難に膝を着く時には支えられるように周到な準備をしていたのだ。

 これは舞台裏で、スポットライトの当たる演者たちには解らない。糸で繋がれ操られているだなんて知らないだろう。


 そして、それは知る必要も無いのだ。


 自宅に到着し、バイクを庭先に停める。エンジンを切ると、ヘッドライトが消えて辺りは闇に包まれた。

 ヘルメットを脱いだ和輝が、バイクの後ろから飛び降りる。霖雨も同様にヘルメットを脱いだ。


 小さな背中が闇の中に溶けて消えてしまいそうに見えた。暗く沈み込んだ自宅の玄関先で、ポケットから鍵を取り出し解鍵している。その手には夜光塗料の塗布された不気味なストラップが揺れていた。

 頭頂部に金具が突き刺さり、悪趣味な緑色のちゃちなビーズが闇の中で虚のように沈んでいる。

 まるで、絞首刑だ。

 霖雨は思った。


 あの少年たちの身に起きた騒動は、有り触れた些細な諍いなのだろう。彼等が生きて行く中では、同じような事態は幾度と無く巡って来る。

 けれど、最悪の事態が訪れた可能性を、霖雨は承知している。思春期の繊細で未熟な彼等の精神が何処で崩壊し、その道を踏み外すのかなんて解らない。

 起こらなかった悲劇は、ただの杞憂として処理される。これで良かったのだ。誰も知らないけれど、最悪の結末だけは回避したのだ。


 扉は開け放たれた。センサーが反応し、玄関には明かりが溢れた。暖色の光は柔らかく辺りを照らした。


 誰も気付きはしないし、評価もしない。彼もそれで良いと思っているし、評価なんて求めてもいない。全ては自己満足で、予定調和なのだ。


 電灯の光が、まるで死に際の太陽のように見えた。和輝の姿はその中に溶けてしまいそうだ。


 彼が何をしてもしなくても、結果には何の影響も無かったのかも知れない。アレックスはチームメイトと和解するのかも知れないし、決別して絶望するのかも知れない。

 そんな時に、和輝はきっと手を差し伸べるのだろう。


 もしも。

 もしも、アレックスが絶望し、生きて行くことを望まなくて、殺してくれと心の其処から願ったのなら、彼は手を差し伸べるのだろうか。

 それで良いよと背中を押すのだろうか、それでも生きろと言えるだろうか。


 和輝は暗いトンネルを歩いたことがある。でも、出口があることを知っている。

 自分に出来たのだから、お前にも出来るだろう。当たり前みたいに、残酷なことを言う。

 結局、和輝もアレックスも境界線の向こう側にいる特別な人間なのだ。


 溜息を一つだけ零して、霖雨は後を追った。

 ルーティンワークのように手洗いと嗽を済ませた和輝がキッチンへ入る。

 今夜の夕食は何だろうと、霖雨は横目にその様を見ていた。


 水盤の前に立った和輝が、じっと目を閉じていた。ぞっとする程に整った秀麗な顔は、死人のように真っ白だった。

 霖雨は急き立てられるようにして口を開いた。




「和輝?」




 ぱちりと瞼が開かれる。その面には普段と同じあどけなさを残した笑みが浮かんでいた。

 如何した、と小首を傾げる和輝に、先程の陰りは無い。霖雨の心臓は、活動を思い出したように急速に拍動を始めた。


 和輝は眉を下げ、まるで懺悔する咎人のように言った。




「怖いんだ」




 何が。

 霖雨の問いは声にならなかった。見てはならない舞台裏を覗いたような背徳感に指先が震えた。




「夢を見たんだ」

「夢?」




 和輝は苦笑した。




「アレックスが、自殺する夢」

「何だ、それ」




 冗談ぽく聞き流そうと思いながらも、霖雨はそれが有り得る未来であることを承知している。

 笑い飛ばそうとして、失敗する。不恰好な声が溢れて、霖雨は自分が酷く情けなくなる。

 けれど、和輝はまるで此方の反応なんて気にしていないみたいに言う。




「時々、自分の選択が不安になる」

「……まあ、お前は悩んだ方がいいよ」




 茶化すつもりで言うと、和輝は泣き出しそうに笑った。


 俺はね。

 和輝が、言った。




「俺はね、何でもかんでも救える訳じゃない」

「そんなこと、今更気付いたのか?」

「それでも、手を掴んだものは、絶対に離さないと決めているだけだよ」




 そんなこと、知っている。それが彼の信念だった。

 和輝の言わんとしていることが解らず、霖雨の眉は自然と寄せられた。




「何が怖いの? その手を離すかも知れないこと?」




 それこそ、今更じゃないか。彼がどんなに人格者でヒーローであっても、ただの人間だ。出来ることもあれば、出来ないこともあるだろう。

 和輝は俯いた。前髪が彼の表情を隠し、よく通るボーイソプラノだけが霖雨の元へ届いた。




「選んだ過程で切り捨てたものが、本当は大切なものだったんじゃないかって、怖いんだ」




 相変わらず、何を言っているのか解らない。

 こんな時、葵ならばすぐさま切り返したのだろう。生憎、霖雨には彼の心まで読み取る技術は無い。


 何でもかんでも救えるとは思っていない。けれど、救えたかも知れない。自分が選んだものを救う為に切り捨てた選択肢、或いは可能性を後悔している。

 霖雨には、そう感じられた。そして、それは霖雨にとって覚えのある感情だった。

 平行世界の怨念に取り憑かれていた自分と同じだと、思ったのだ。




「未来なんて解らないんだろう? じゃあ、それでいいじゃん」




 何時かの和輝の言葉をなぞって、霖雨は笑ってみた。だが、顔を上げない和輝には届かなかったらしい。

 俯いたままの和輝が心配になって、霖雨はキッチンへ入った。顔を上げた和輝は何時もの顔で、夕食の用意を始めていた。




 翌週になって、霖雨は和輝の言葉の意味を理解した。地方の情報を提供する新聞に、アレックスの所属するチームが掲載されていた。

 快進撃を続ける天才率いるチームには新しい風が吹き込んだ。監督とコーチが交代したらしい。

 匿名の電話によって事実が明るみに出て、地方のマスメディアは上層部の腐敗を挙って取り上げた。そして、チーム内の問題に介入せず、怠惰な態度を続けていた彼等は追放されたのだ。


 霖雨は当然の仕打ちだと思った。だが、翌日、彼等が自殺したことを知った。

 彼等には彼等の問題があり、チーム内の問題に介入する余裕が無かったのだ。家庭内の不和、家族の病気。路頭に迷うことになった彼等は負け犬のレッテルを貼られ、ついに自らの命を絶つ選択をした。


 匿名の電話ーー。

 霖雨は、顔の無い何者かの正体を知っている。証拠は何一つ無い。彼を裁く者は無く、名誉はあっても罪状は無い。

 彼はこの可能性に気付いていた。それでも、自分が救うと決めた者を救う為に、別の何かを切り捨てたのだ。

 監督とコーチを死に追い遣ったのは、過激なマスメディアだ。けれど、その引き金を引いたのは。




 怖いんだ。

 弱音や泣き言の類だと、霖雨は信じて疑わなかった。けれど、あの言葉は、きっと、正しく、ーー懺悔だった。



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