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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
夢喰いバク
96/105

⑷君の為に出来ること

 胸が張り裂けるような、心臓が潰れるような、心が軋むような痛みを知っている。


 接骨院での勤務後だった。学校から帰る途中のアレックスを見付けた時、和輝は衝動的に、掻き抱くようにして小さな頭を抱き寄せた。自分よりも高い位置にある彼を抱く姿は様になっていないだろうけれど、構わなかった。

 アレックスは、まるで母親に置いて行かれた迷子のようだった。目的地も現在地も解らず途方に暮れたその様が、何時かの自分を思い起こさせた。


 泥だらけの洋服も、擦り剥いた膝小僧も、泣き出しそうに歪められた双眸も何もかもが苦しかった。

 何があったのかは、問わなかった。口に出す時、自分の体験を事実として認識することになる。こんなことは、知らなくて良い。


 才能を疎まれて、仲間から外されて、何処にも逃げ場が無いだなんて知らなくて良い。




「和輝」




 絞り出したような掠れた声で、アレックスが呼んだ。答える代わりに、和輝は腕に力を込める。凄まじい程の速さで進む現実に、流されてしまわぬようにと抱き締める。


 アレックスは、何処か遠くを一心に見詰めながら、零すように言った。




「誰かが、俺を貶めているんだ」




 誰か。

 アレックスの言葉の意味が、和輝には痛い程に解る。そして、それは同じ体験をしたことが無ければ解らない。




「如何したら良いんだろう。ーー前が、見えないよ」

「前なんて、」




 和輝の言葉は途切れた。

 前なんて、見なくて良い。どちらが前かも解らない闇の中で、それでも進まなければならないなんて辛過ぎる。




「大丈夫」




 大丈夫。大丈夫。

 譫言みたいに和輝は繰り返した。この言葉が届けと祈るように、彼がこれ以上傷付かなくて済むようにと願いながら。

 自分は出口の見えないトンネルを歩いたことがある。彼の痛みが、解る。


 なあ、ヒーロー。

 此処にいるよと声を上げてくれよ。




 和輝が帰宅すると、玄関では霖雨が待っていた。ーー否、待ち伏せでもしていたようだ。

 仁王立ちする霖雨に、ただいまと告げると、寝起きのような低い声で、おかえりと返される。掠れた声だった。

 夕食の準備は済ませてある。

 手洗いと嗽を済ませてキッチンへ入ると、霖雨は入り口に凭れ掛かって欠伸を噛み殺していた。


 心配を掛けていないだろうか。

 和輝は冷蔵庫にしまっていた煮物を取り出しながら、霖雨の様子を伺う。

 霖雨は、暫く観察した後にリビングへ戻って行った。彼らしく無い。何となく、葵に似ていると思った。


 二人で食卓を囲むと、互いに掛ける言葉も無いので無言になる。けれど、決して居心地は悪くない。

 世の中の流れを知らないと雑談も弾まないので、和輝はテレビの電源を入れた。薄型のディスプレイには、退屈なニュースが流れていた。

 黙々と咀嚼していた霖雨が、思い出したように口を開いた。




「あの子は、元気だった?」




 和輝は、にこりと笑顔を浮かべて答えた。




「アレックスなら、変わりないよ」




 霖雨は退屈そうに相槌を打ち、言った。




「捻挫しているんだろ。止めなくていいのかい?」

「俺も気になっていたんだ」




 和輝は一度箸を置いた。




「選手の怪我は、監督者が注視しなければならない。本人が大丈夫だと判断しても、変な癖が付いて怪我を繰り返す可能性があるからね。でも、昨日だって怪我は完治していないのに、試合に出ていた」

「コーチは見ていないのか?」

「解らない。知らないのも問題だけど、知っていて放置しているのなら、もっと問題だ」




 チーム内の不協和音にも、気が付いていないのだろうか。それとも。

 和輝は目を伏せた。瞼の裏に過去の記憶が蘇り掛けて、頭を振って追い遣る。中学時代に所属していたシニアチームも、そうだった。監督やコーチは問題に気が付いていながら、何もしてはくれなかった。大人は必要な時に手を差し伸べてはくれない。苦い体験が消えて行くのを待って、和輝は顔を上げた。




「必要なのは、犯人探しではなくて、建設的な話し合いだ。第三者機関の介入を求めるべきなのかもね」

「それって、あの子の風当たりがもっと厳しくなるんじゃないか?」

「今だって厳しいよ」

「だから、犯人探しをするんだろ」




 霖雨の言葉が、アレックスの声と重なって聞こえた。

 アレックスは、犯人探しを望んでいる。そんなことをしたって意味が無い。必要なのは、アレックスが問題に直面した時に自分の力で解決出来る力を養うことだ。それくらい、和輝にだって解っている。

 けれど、アレックスは犯人探しをしたいのだ。それは、誰かを糾弾しなければ、自分を保っていられないからだ。こんな弱さを、霖雨は認めてくれるだろうか。


 和輝が答えを躊躇する僅かな間に、霖雨は口を開いた。




「其処が底辺とは限らない」




 びしりと叩き付けるように言った霖雨は、自身の口調の強さに驚いたみたいだった。その空気を誤魔化すように食事を再開し、視線をテレビへ移した。


 和輝は白米と共に、霖雨の言葉を噛み砕く。

 其処が底辺とは限らない。その通りだ。けれど、現状を回復出来る可能性があるのなら、賭けてみても良い。このままアレックスの才能が潰されるのは余りに惜しいし、それならその程度ということだ。

 この先、アレックスは同じような状況に直面することもあるだろう。その時に、何もかも諦めて両手を投げ出すことになるよりも、助けを求める先のある今、その手を取ってやるべきではないだろうか。


 


「其処が底辺じゃないとも、限らない」




 何より、自分は彼の手を掴んでいるのだ。見なかった振りは出来ない。

 霖雨は横目に此方を伺って、そっと息を零した。何かを言おうとして、呑み込んだようにも見えた。




「暫く忙しくなるから、家の鍵は持ち歩けよ」




 唐突な話題の転換に、和輝は肩透かしを食らったような心地になった。けれど、首を振る理由も無いので、静かに頷いた。










 夢喰いバク

 ⑷君の為に出来ること








 朝の冷たい風、乾いたアスファルト、白んだ空に雲は無い。無人のコートにドリブルの音が木霊する。姿の見えないそれは、きっと幽霊の類なのだろう。


 アレックスとの待ち合わせ場所は、近隣の公園に設置されたバスケットボールのコートだった。住宅地から僅かに離れ、周囲は森に囲まれている。秋の気配に色付く木々が、囁き合うように微かに揺れていた。


 無人の筈のコートには、確かに一人の少年がいた。誰にも見られないように息を殺しながら、相手プレイヤーを想定して一つ一つのプレーを確認する。緩慢なステップは、まるで其処に自身の足跡が残っていないかと確認するようだった。


 和輝の到着を知ると、アレックスは固く強張った頬を緩めて微笑んだ。投げ渡されたボールを受け取ると、そのまま1on1が始まる。

 ドリブル。相手の呼吸から次の動きを予測して、フェイントを挟む。アレックスが身を引いた一瞬を逃さず、和輝は大きく飛び上がった。

 フェイダウェイ。ボールは蒼穹にぽつりと浮かび、ゴールへ吸い込まれた。その様がまるで、母国で見て来た白球に見えて、和輝は郷愁の念に駆られる。今すぐにグラウンドを駆け抜けて、高く上がったフライに飛び付きたいような気になる。


 ボールを拾ったアレックスが、もう一回と強請る。断る理由も無いので、和輝は促すように腰を落として彼のプレーに備えた。

 何度かプレーする内に、嫌でも彼の才能に気付かされる。体格に恵まれてはいないのかも知れないが、それを補って余りある身体能力とセンスで渡り合っている。和輝は殆ど素人の領域で、母国で培った身体能力だけでプレーしているようなものだ。それでも、刹那の駆け引きでは経験値が大きく作用するのか、一度としてゴールを奪われはしなかった。

 アレックスは、負ければ悔しそうに口元を真一文字に結んだ。けれど、次の瞬間には顔を上げてもう一回と叫ぶ。対戦相手、勝利を渇望している。一人だけの練習では培われない生身の経験が彼には欠けているのだ。


 彼は天才だ。

 天才が努力していないとは思わないけれど、才能の差は歴然と存在する。彼等は凡人にとって打ち倒すべき敵であり、乗り越えるべき壁なのだ。彼等はその為に存在する。


 太陽が昇り、辺りの気温が上がって来た頃。息の上がったアレックスはボールを持ってプレーを止めた。曰く、これから学校へ行くらしい。

 捻挫をしているという彼のことを思うと、引き留めることは出来なかった。むしろ、医療に携わる者としては安静を促すべきだった。


 コートを出て行くアレックスが、またね、と笑った。邪気の無い、純真で何処か幼い笑顔だった。


 行かなくて良いとは、言えなかった。

 逃げ出したい程の苦しみの中で、それでも立ち上がる選択をした彼の覚悟を思えば、引き留める訳には行かなかった。

 だから、和輝は言った。




「いってらっしゃい」




 母国語で告げた挨拶は、アレックスには解らなかったようだった。小首を傾げる彼に、和輝は小さく手を振った。

 See youやGood byeは別れを告げているようで、口に出来なかった。母国語の挨拶は、おかえりを言う為の口約束だ。

 返事の代わりに笑ったアレックスを見送り、和輝は歩き始める。彼の気配が無くなった後になって、漸く姿を現した影に表情は硬く強張った。


 振り返った先、朝靄の中にひょろりと背の高い青年が立っていた。ーー翡翠だ。

 何時から見ていたのだろう。何処から把握しているのだろう。和輝が黙っていると、翡翠は苦笑した。




「そんなに警戒しなくたって、俺は何もしないよ」

「今は、だろ」




 和輝には、人の嘘が解る。翡翠は嘘を吐いていない。けれど、その言葉が何処で翻されるのか解らないのだ。


 翡翠は顔面に軽薄な笑みを浮かべて答えた。




「介入しないのかい?」

「さあね」

「何でもかんでも第三者が介入していたら、当事者の問題解決能力は養われないと思わないか?」

「当事者だけでは解決出来ない程に事態が悪化していてもそう言えるのか?」

「自分が現状を正しく判断出来ていると思うか? 彼は社会の異物だ。マイノリティーは生き難い」

「だから、排除されても仕方無いって?」




 口調は自然と尖っていた。研ぎ澄まされた刃の如く振り翳され、目の前の青年を一刀両断する。

 だが、翡翠はのらりくらりと躱すばかりだ。




「そうやって、つんけんするなよ。俺は一般論を語っているだけだよ。理想は大切だが、地面に足が付いていなければ、何の意味も無い」

「意味が無いか如何かなんて、現時点で判断出来るのか? 言っただろう」




 和輝は、翡翠を真っ直ぐに見据えた。

 解り合えるとは思わない。だからといって、諦めたくは無い。




「お前が世界は絶望だと言うのなら、俺は何度だって希望を証明してみせる」

「如何やって? 今日此処で救われたとして、明日は如何する? どうせ、何時かは膝を着く。何処かで妥協しながら、折り合いを付けて生きていくんだよ」

「それでも、立ち上がる日が来る。絶望にはまだ早い」




 翡翠が笑った。和輝は神経がささくれ立つのが解る。

 如何して、解り合えないのだろう。

 明けない夜は無いと思う。暮れない日も無い。禍福は糾える縄の如しというのなら、現時点の状況が永遠に続くことは無い筈だ。

 和輝が再度訴え掛けようとするのを遮って、翡翠はくるりと背を向けた。そのまま歩き出す背中が、何時かの透明人間と重なって、手を伸ばしたい衝動に駆られた。けれど、その手が伸ばされることは、無い。


 布に水が染み込むように、じわりじわりと何かが這い上がって来る。焦燥感なのか、恐怖感なのかは解らない。


 小さくなって行く背中を見送りながら、和輝は拳を握った。

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