⑶Gift
努力か才能かと、屢々問題に上がる。
特にスポーツの世界では、それは顕著だ。人々の大半は凡人で、天才を打ち倒すべき敵にする。努力が才能を凌駕する瞬間を見たいのだ。
けれど、どちらも同じ人間だ。
天才は、その才能を鼻に掛ける嫌な存在として描かれる。創作物の影響なのか、人間がより優れるものを妬む下等な種族である為なのかは解らない。双方に言い分はあるだろう。だが、善悪が多数決で決まるのなら、少数派である天才は、悪なのだろう。
必要悪という言葉がある。
正義を成す為に必要な悪役のことだ。悪を挫く為に正義があるのではなく、正義が成立する為に悪がある。
必要な犠牲なのだ。社会の均衡を保つ為に、彼等は凡人から妬まれ、嫉まれ、疎まれ、打ち倒されなければならない。
毒を以て毒を制すという諺があるけれど、強者はやがて更なる強者によって倒される。歴史は繰り返すのだろう。
「これは、疎まれるだろうさ」
嘆きと感心を込めて、霖雨が零した。その視線は正面へ固定され、和輝からは横顔しか拝めなかった。
公共機関の所有する体育館にいる。屋内スポーツの大会や各種セレモニーにも使用される大きな施設だ。擂鉢状の観客席が取り囲む中央では、思春期の少年達がバスケットボールの試合をしている。
蟻地獄みたいだな、と和輝は思った。
隣の霖雨に倣って視線を落とせば、覚えのある少年が赤いゼッケンを身に纏い、バスケットボールをプレイしているのが見えた。
アレックスだ。発育の良い同年代の少年と比べると小柄に見える。それでも、彼はコートの中心で天衣無縫に振舞っている。
圧倒的才能だ。
和輝は、才能という言葉が好きではない。それは、その人の重ねて来た努力を無に帰す残酷なレッテルだ。
それでも、コートの中を泳ぐように駆け回る選手を評価する言葉はそれ以外に無かった。
悪魔に魅入られたかのように、視線を動かさないまま霖雨は息を吐く。丁度、アレックスが相手チームのセンターを躱し、鮮やかなレイアップシュートを決めたところだった。
沸き立つ観客の中には、何処かのチームの監督らしき大人も混じっていた。スカウトの機会を伺っているのかも知れない。しかし、品定めするような眼差しを注がれながらも、アレックスは悠々とバスケットボールを楽しんでいる。
争いとは、同じレベルの者同士でしか勃発しない。そんな言葉を聞いたことがある。反論はあるだろうが、蟻が象へ戦いを挑むことは無い。象が敵として認識しないから、争いには至らないのだ。
逆に、窮鼠猫を噛むというのは、猫が鼠を敵とまではいかなくとも、相対する生き物と認識するからだろう。
昨日ーー、帰宅した時に事情を尋ねられ、アレックスという少年のことを話した。彼が見せた写真の詳細や通院のことは告げなかった。それでも、霖雨は彼の境遇を察したらしかった。
凡人に疎まれ虐げられる天才という位置付けをしたらしい。その認識は間違っていないが、あくまでそれはアレックスにとっての事実であり、主観だ。双方に言い分はあるだろう。
どちらが被害者で加害者なのか、現時点では判断出来ない。和輝は懐疑的に思うけれど、一般論としては異なるのかも知れない。
最近、自分は考え過ぎる。その自覚があるので、和輝は何も言わなかった。
アレックスの存在を知った霖雨は、和輝の行為を責めはしなかった。その代わりに、介入することを決めたらしい。
心配を掛けているのだろうと思う。こういったことに関して信用が無いのかも知れない。ただ、霖雨には申し訳無かったと思う。
「昔、葵が言っていた」
葵という名前に神経が過敏に反応する。
和輝は平静を装いながら、訊き返した。
「何て?」
「全てとは言わないけど、才能は必要だって」
「才能って、何だと思う?」
「スタート地点の差なんだって。凡人は才能ある人の遥か後方から走り始める」
それはつまり、ずるをしているということだ。才能に恵まれた者はずるいから、人から虐げられても当然なのだ。それが世間一般の常識なのかも知れない。
だが、どんな理由があったって、人を虐げて良い理由にはならないと思う。そして、これは葵に言わせれば、きれいごとなのだろう。
人は他者と比較すると、嫉妬する。けれど、競争心や向上心は必要なものだ。自分より優れた人を見て、自らを磨こうと思うか、相手を蹴落とそうと考えるか、それが分かれ道なのだろう。
そして、世間一般では、後者が圧倒的多数なのだ。
試合を終えたアレックスが、タオルで汗を拭っている。談笑し、互いの健闘を称え合う仲間の輪から外れ、その背中はやけに小さく見えた。だが、アレックスとて、輪に入りたそうにはしていない。
弱者は徒党を組んで、強者を弾こうとする。和輝は、社会の縮図を見ているような気がした。
観客席から見下ろされていることに気付いたらしいアレックスが、此方を見上げて手を振った。群れを成す有象無象は、それを面白く無さそうに睨んでいる。
和輝が応えると、アレックスは嬉しそうに微笑んだ。まるで、孤独に苛まれる者が、ただ一つの希望を見出したかのようだ。
自分は、彼等を知らない。目の前にいる筈の彼等を見て、和輝は自身の過去を重ね見た。あの輪の外にいるのは、自分だ。否、輪の中にいたのも、自分だったのかも知れない。些細なきっかけで、その立ち位置は入れ替わる。
観客の群れと共に、会場の外に出る。太陽は傾き、辺りは薄闇が広がっていた。街灯がぽつりと点灯し、その足元を仄かに照らしている。
霖雨と交わす言葉も無く、互いに無言で歩き出す。その時、後方から声が追い掛けて来た。
「和輝!」
ファーストネームで呼ぶことを決めたらしい。明瞭なボーイソプラノが背中に突き刺さり、和輝は振り向いた。
アレックスが立っていた。其処に立つ少年の姿が如何してか陽炎のように霞んで見えて、和輝は胸が軋むように痛んだ。
遠い過去に置いて来た筈の自分が、消えて無くなってしまった葵が、蜃気楼のように浮かんで見えた。
堪らなくなって、苦しくなって、このまま此処から逃げ出してしまいたくなって。
吐き出す言葉すら呼吸の中に呑み込んでしまった。
「来てくれたんだね、ありがとう」
言葉も返せない和輝の横で、霖雨が庇うように前へ出る。
アレックスは少し警戒を滲ませて眉を寄せた。霖雨は殊更優しく微笑んで、小さく会釈した。
友達だと、使い古した社交辞令みたいに、紋切り型の挨拶みたいに霖雨が言う。
和輝は霖雨の後ろから顔を覗かせて、それを肯定する。すると、アレックスの強張った頬が僅かに緩んだように見えた。
「試合、見てた?」
「見てたよ」
アレックスが、年相応の幼い笑みを浮かべて足元を踊らせる。尻尾を振る子犬のようだ。和輝は苦笑して、彼の健闘を称える言葉を吐いた。
「頑張ったね」
勝敗や活躍の有無では無く、彼の努力を想像する。アレックスはきっと、天才なんだろう。少しのプレーでも、それが解る。けれど、天才と呼ばれる人間が努力していない訳じゃない。
誰にも見られないところで、彼は努力したのだろう。思う通りに動かない手足に苛付き、評価しない仲間に嘆き、全てを捨てて逃げ出したいと願ったことだってあるかも知れない。
「頑張ったよ」
それを悟られまいと取り繕うように、アレックスは笑った。和輝は自分と同じ程の高さにある小さな頭をさらりと撫でてやった。
和輝の手が離れると、その感触を思い出そうとするかのようにアレックスは自身の頭に触れた。
「俺は素人なんだけど、今度一緒にバスケしないか?」
教えてくれ、と強請ると、アレックスは笑って頷いた。
教えて欲しい。君の努力を、祈りを、願いを聞かせて欲しい。
霖雨だけが、冷めた眼差しで此方をじっと見ていた。
夢喰いバク
⑶Gift
やけに肩を入れ込んでいるな、と思った。
アレックスという少年に別れを告げ、霖雨は和輝を連れて帰路を辿っている。
隣を歩く和輝の横顔が物憂げに何かを考え込んでいるようで、霖雨は神経がささくれ立つ。
和輝は大概、人が良過ぎる。
彼の許容範囲は広くて深い。どんな人間でもーーそれこそ、サイコパスと呼ばれる人間すら受け容れるのだろう。
死神が、薄汚い格好をして暗い路地裏に潜んでいるとは限らない。幼い少年の格好をして、笑顔を浮かべていないとも限らないのだ。霖雨は、それが怖い。
苦言を呈すつもりで、霖雨は言った。
「やけに肩を持っているみたいだけど、あくまで他人だろ」
「うん」
そうだね、と和輝は他人事みたいにあっさり肯定した。暖簾に腕押し、柳に風といった調子だ。
霖雨が肩を竦めると、和輝は遠くを見上げながら言った。
「俺、才能って言葉が嫌いだった」
「何で?」
「だって、まるでその人の努力を切り捨ててしまっているみたいじゃないか」
だが、才能とはそういうものだろう。
持っている人間には、持たない者の気持ち等解らない。少しくらい、羨んだって、疎んだって、仕方無いじゃないか。
霖雨は、言葉を呑み込んだ。
隣を歩く青年が、Giftと呼ばれるそれを持って生まれて来た人間だと知っているからだ。
才能はあっても、体格には恵まれなかった。彼の進む道は何時だって逆境だった。
天才の気持ちも、凡人の気持ちも理解出来るのだろう。それでも、彼はあくまで境界線の向こう側にいる天才だった。
彼の仲間は、どんな気持ちで彼と一緒にいたのだろう。天才だと妬んだのか、凡人だと招き入れたのだろうか。
そして、その両方を経験して来ただろう青年は、暗くなって行く夜空を見上げ、戻れない過去を振り返るみたいに言う。
「天才とか凡人とか、周りが勝手に評価するだけだ」
「評価は必要じゃないかな。基準が無いと、自分の立ち位置や現状を見失うじゃないか」
「結果の出ない努力は見捨てられる。それでも」
和輝は立ち止まった。その先に続く言葉を、呑み込んだようだった。
霖雨には、声にならなかった言葉が予測出来る。
結果の出なかった努力も認めて欲しいのだ。頑張ったね、と言って欲しい。けれど、それを呑み込んだのは、和輝自身が、アレックスのことを語れる程に知らないと省みたからだ。
思いのままに言葉にしたって構わないのに。
霖雨は黙って歩き続ける。和輝も、何事も無かったみたいに足を踏み出した。
今晩の夕食は何にしよう。
他愛の無い話題を切り出して会話の方向転換を図った和輝は、まるでピエロのようで滑稽だった。
紋切り型の否定や、きれいごとを並べて肯定することは容易い。だからこそ、霖雨はその背中を押すつもりで口を開いた。
「知らないと思うのなら、見てやれよ。評価に納得いかないなら、お前が評価してやれ」
誰かの選んだ道では走れない。
霖雨が言うと、和輝は少しだけ驚いたような顔をした。内心を見透かされたことに驚いているようだったが、彼の思考回路は単純で解り易い。
「うん。そうする」
ありがとう。
和輝が笑った。