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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
夢喰いバク
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⑵アレックス

 金属製の扉を開ける直前、指先からすうっと血の気が引いて冷たくなる。

 背後に誰かが立っているような気がした。けれど、振り向くことは出来なかった。向けられる悪意と対峙することが恐ろしかった。自分の感情がただの被害妄想であると思い込んでいたかったのだ。


 意を決して扉を開ける。小さなロッカーの中は、何も無かった。未使用の頃のまま、塵一つ落ちていない。


 息が詰まって、吐き出すことすら出来ない。何事も無かったふりをして、鞄の中から真新しいグラブを取り出す。一晩掛けて慣らしたオレンジ色が、臆病な自分を慰めているようだった。


 大丈夫、大丈夫。何度も自分に言い聞かす。

 何が、とは考えないことにした。俯いたり、後ろを見たりしていたら、自分の影ばかりを見ることになる。

 苦しい時こそ、前を向くのだ。大丈夫、自分は独りじゃない。


 大丈夫。




「Are you okay?」




 突然掛けられた声に、和輝の思考は現実へ戻った。過去へ回帰し、そのまま沈み込んでしまいそうだった。


 勤務先の接骨院で、受付業務を熟していた。カルテの整理の途中、不自然に手が止まってしまったらしい。


 カルテに記されているのは、一人の少年の名前だった。通り過ぎる見知らぬ他人でしか無いのに、彼の記録が脳へ読み込まれ、自分の記憶の奥底にしまい込んでいた筈の過去を引っ張り出してしまった。


 同僚の女性看護師が、労わるような目を向けていた。

 和輝は顔面に笑顔を貼り付け、何でもないと手を振った。女性看護師は不審そうにしていたが、追及はしなかった。尋ねられたところで、答える術も無い。


 十三歳、あの頃の自分と同い年だ。

 スポーツに打ち込んでいて、その練習中に足首を捻挫して受診に至った。記録や診察内容に不備は無い。けれど、初診でないということが、気に掛かった。


 怪我はスポーツに付き物だ。同じ箇所を怪我するのなら、妙な癖になっているのだろう。そういうことは、監督者が気付かなければならない。

 指導を受けていないのだろうか。だが、彼は地元のチームに在籍している。それでも怪我を繰り返してしまうのだろうか。紙面上の情報だけでは解らない。


 公私混合は許されない。自分はあくまで機械的に情報を処理しなければならない。ましてや、不確定の情報から偏見に満ちた結論を導き出して、他人の事情に介入するなど、以ての外だ。

 自分は何も見なかった。知らなかった。解らなかった。気付かなかったーー。


 勤務を終えた和輝が、接骨院を出る頃には既に日は沈んでいた。辺りは薄闇に包まれ、遠くの街灯が刃物のように鋭く光って見えた。

 道行く人々は振り返らず、立ち止まりもしない。己の行き先を決め、迷う余地も無い。


 乾いたアスファルトの上、小さな足が行儀良く並んでいた。此方を見据えるように、対峙するようにそれは立ち止まっている。

 目的地を失ったのではない。可愛らしい相貌に浮かぶ微かな笑みが、此処が目的地であると言っている。




「I've been waiting all this while.」




 少年が言った。彼の言うそれが、どの程度の時間を指すのかは解らない。和輝は答えなかった。

 薄ら笑いをする少年は、書類上の情報に比べて大人びて見えた。少なくとも、誰かの悪意に苦しみ堪えるだけの臆病で優しい被害者には見えない。




「It’s sooooooo nice to meet you!」




 出遅れた挨拶は、いっそ此方を馬鹿にしているように感じられた。和輝が眉を寄せていると、少年は小さな頭を僅かに下げた。


 初対面の筈だが、やけに親しげだった。同年代と見られているのだろうか。

 和輝は黙っていた。すると、顔を上げた少年が、拍子抜けとばかりに肩を落とした。其処で漸く、和輝は問い掛けた。




「Do you want me?」








 夢喰いバク

 ⑵アレックス







 未成年を連れて出歩く訳にもいかないので、和輝は一先ず行き着けの喫茶店へ入った。少年の意図が読めない以上、自宅に連れ帰る訳にはいかない。

 辞めたばかりの喫茶店で、店主はさして驚いた風も無く受け入れてくれた。店内に客は少なく、店員もいなかった。


 奥のボックス席へ座ると、注文をする前にコーヒーが運ばれて来た。少年の前には氷の無いオレンジジュースが置かれた。玩具みたいな緑色のストローが添えられている。


 和輝は正面に座る少年の顔をまじまじと見詰めた。店内の仄かな照明に照らされ、栗色の髪は透けて見える。ヘーゼルの瞳は猫のように釣り上がり、丁度反抗期に差し掛かった悪戯小僧といった様子だ。

 カルテの記録を思い起こそうとして、和輝は思考を停止する。何気無い風を装ってコーヒーへ手を伸ばした。公私混合は避けるべきだ。




「あの病院で見掛けた時から、話をしてみたいと思っていたんですよ」




 少年の言葉に、和輝は適当な相槌を打って問い掛けた。




「如何して?」

「だって、貴方は有名人だから」

「そうかな。初対面の人に話し掛けられる程、有名になった覚えは無いけど」




 会話の糸を切り離すように、和輝は否定した。少年は気にする様子も無く、明るく笑っていた。

 頭の中で、黄色いランプが点灯する。油断するな。これは、気を許してはいけない人種だ。裏の顔がある。何かを企んでいる人間の顔だ。


 けれど、色眼鏡で人を判断出来る程、自分に自信がある訳では無い。それは驕りだ。

 和輝は話の先を促すように、目を向けた。

 少年はへらへらと薄ら笑いをするばかりで、一向に切り出そうとしなかった。話題は無く、ただの興味本位で声を掛けただけなのだろうか。平静を装いながら、和輝はコーヒーを啜る。少年もグラスに手を伸ばし、オレンジジュースを口に含んだ。

 ストローの中を通過する液体を眺めていると、口を離した少年が言った。




「貴方に聞きたいことが、あるのです」




 その口調は戯けていたけれど、語尾が微かに掠れていた。切り出されるものが嘘か真か解らないが、和輝には聞く以外の選択肢が無い。

 黙っていると、少年はポケットの中から数枚の写真を取り出した。

 始めに見えたのは、鬱血した醜い大腿部分だった。背景は自宅だろう暖色のカーペットで、まるで、自身の身体を映したようなアングルだった。

 少年が言った。




「僕の身体です」




 そうして捲られた次の写真は、鏡に映した薄い背中だった。蹴られたような痣が複数残っている。

 鏡に安っぽいカメラのフラッシュが反射している。これも、自分で映したものなのだろう。

 更に、腹部、胸部、二の腕等、通常ならば人目に付かない身体の部位に残る傷痕が写真には鮮明に映されていた。ーー和輝は、この傷痕を知っていた。それを理解すると共に、フラッシュバックの如く過去の記憶が蘇った。


 振り上げられた爪先、翳された拳、愉悦に染まる卑しい目、理不尽な悪意と暴力が瞼の裏に蘇る。これは、自分の相似形だ。

 ぶるりと寒気に身を震わせ、和輝は表情を消し去った。少年の視線は写真へ落とされている。彼が此方を見る時には、和輝は既に平静を取り繕っていた。




「僕は地元のバスケチームに所属しています。一月程前までは、仲間と切磋琢磨し、バスケを楽しんでいました。それが、ある時をきっかけに変わってしまったのです」

「ある時?」

「それは、僕にもよく解りません。ですが、それからは、チームにとって、僕はお荷物になってしまった。いや、お荷物なんて可愛いものじゃない。ーー僕は、イジメの標的になってしまったのです」




 最後の写真には、荒らされた個人ロッカーの内部が映し出されていた。切り裂かれたユニホームやタオル、撒き散らされた生ゴミ、書き込まれた悪意の数々が、彼の言葉を裏付けする。

 此処には、悪意がある。お前が憎いと、恨めしいと、消えてしまえと刻み付けるようだった。


 捨てられた子犬のような縋る眼差しで、少年は言った。




「僕を助けて下さい」




 伸ばされた手を、拒否出来ないーー。

 和輝は机の下で、ぐっと拳を握った。




「如何して、俺に? 何の関わりも無いじゃないか」

「でも、貴方は、人の嘘が解る」




 駅で見掛けたことがあると、少年は言った。


 痴漢で冤罪を掛けられた男を救ったことがある。相手の嘘を看破し、八方塞がりの状況を切り抜けたのだ。その現場を、この少年に見られていた。


 だからと言って、どうしようもない。

 少年が受けているのは直接的な暴力で、犯人は目の前にいるのだ。看破するべき嘘も無い。自分に出来るとしたら、環境の悪いチームの内情を監督、或いは第三者に打ち明けて風通しを良くするか、少年に新たな居場所を見付けるように斡旋するか。


 和輝が黙っていると、少年は続けた。




「僕の環境は、ある時を境に一変した。それが何か解らない。僕が知らない間に何か悪いことをしてしまったのかも知れないけど……」




 言葉の先は消えてしまったが、言わんとしていることは解った。

 どんな理由があったって、人を傷付けていい訳ではない。




「誰かが、僕を陥れた。それを、探して欲しい」




 和輝は、黙った。


 余りに幼稚で、身勝手で、浅はかな依頼だ。

 人の心は変わる。此方が何をしてもしなくても、悪意は其処此処に芽生え、対象を見付けると容赦無くその拳を振るう。

 解決策があるのだろうか。彼がこの執拗なイジメから逃れたとして、次は誰かが標的になる。負の連鎖を断ち切る為には、誰かが堪えなければならない。この少年にその覚悟は無い。ただ、自分が逃れたいだけだ。

 それは当然の感情なのだろうけれど、和輝は、すぐに頷けなかった。


 嘗て、霖雨が言っていた。

 自分は、和輝が助かるのなら、他の人間が何人死んでも構わないーーと。それが、選ぶということだ。

 如何して、他人の心配をするのか解らないと言っていた。答えは簡単だ。この世は因果応報、何時か、自分が切り捨てられる時が来る。その日に怯えながら生きるのは嫌だと思った。それなら、初めから期待なんてしなければいい。




「もしーー、犯人がいたとして、君は如何するの?」

「解らない。でも、話し合いで解決するなら、それが一番だ」




 話し合いで全て解決するのなら、戦争なんて起こらない。和輝は反論を思い浮かべながら、黙っていた。

 誰かが堪えなければならない。だから、お前が堪えるんだ。そんな残酷なことは、言えない。




「良いよ」




 和輝が答えると、少年はそれを予期していなかったかのように目を丸めた。

 コーヒーを飲み下し、和輝は考え続ける。

 この世は因果応報だ。けれど、最悪の事態だけは防がなければならならない。現時点で最も避けるべきことは、知っているのに何の手段も講じず、見過ごしてしまうことだ。


 この手が届くのなら、掴んでみせる。




「犯人探しは趣味じゃない。君の望む結果は、きっと得られないよ」

「大丈夫」




 正体さえ掴めば、十分だ。少年はそう言って笑った。和輝は、覚悟を決める。

 この少年は、犯人を見付けたら、納得の行く方法を探す。けれど、人はやられたらやり返したくなるものだ。彼の手が報復によって汚れないよう、ミイラ取りがミイラにならないように歯止めを掛けなければならない。


 空になったマグカップを置き、和輝は立ち上がった。時刻は午後八時を回る。何れにせよ、今すぐに行動は移すのは難しい。

 二人分の代金をカウンターへ置き、和輝は少年を連れて店を出た。店主は此方を伺っているようだったが、何も口にはしなかった。


 少年の家が近いと聞いたので、年長者としては自宅まで送らなけらればならない。無言で歩くのも構わないが、和輝は世間話を切り出した。




「何時から、バスケをしているの?」

「お母さんが好きで、物心付いた時にはバスケットボールで遊んでいました」




 親の影響か。

 和輝は適当な相槌を打った。自分も家族の影響から野球を始めたので、特に取り立てて言うことは無かった。




「貴方もバスケをしていましたね」

「最近始めたんだ」

「とてもそうは見えません。長く関わって来られたのかと思っていました」

「ありがとう」




 笑顔で答えると、少年は微かに笑った。

 皮肉だったのだろうか。和輝は少し考えたが、口にはしなかった。

 素性の知れない少年と対峙すると、身構えてしまう。何か別の思惑があるのではないかと警戒してしまう。ただの社交辞令と受け止められないのは、自分に後ろめたさがあるからかも知れない。




「身体の具合は如何なの?」

「カルテを見たのではないのですか?」

「個人情報の取り扱いは難しい。俺は今日、初めて君に会ったんだ。当然、名前も知らない」




 和輝が言うと、少年は驚いたような顔をした。そして、姿勢を正した。




「Alexander」




 AlexanderーーAlexか。

 和輝は口の中でその名を転がす。




「良い名前だね。俺は蜂谷和輝」

「Kazuki」

「そう」




 好きなように呼んでくれ。

 そう言うと、少年ーーアレックスは、此方を伺いながらそっと呼んだ。

 その響きが、まるで重要機密を守る秘密の暗号みたいだったので、和輝は可笑しかった。


 人通りの少ない住宅地の広い道の途中、アレックスは立ち止まった。オレンジ色の街灯が白い肌に反射し、緊急車両の回転灯のような色を帯びる。踊るように身を翻し、アレックスは足を揃えて向き直った。




「此処で大丈夫です。送って下さって、ありがとうございました」

「どういたしまして」

「あの病院へ行けば、また会えますか?」

「多分ね。いなければ、伝言を残してくれ」

「解りました」




 それじゃあ。


 アレックスは背中を向け、薄暗い住宅地へ歩き出す。和輝はその背中が見えなくなるまで見送ってから、帰路を辿るべく歩き出した。


 時刻を確認する為に携帯電話を取り出す。ディスプレイには、無数の着信履歴が残っていた。連絡一つ入れずに帰宅の遅れている自分を心配したのだろう。発信者は霖雨だった。


 自分は詰めが甘い。連絡を入れるべきだった。

 通話機器の向こうから届くであろう叱責を覚悟しながら、和輝は霖雨へ向けて電波を発信した。

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