⑴隠し事
I am not concerned that you have fallen. I am concerned that you arise.
(貴方が転んでしまったことに関心は無い。其処から立ち上がることに関心があるのだ)
Abraham Lincoln
和輝に、言わなかったことがある。
年齢以上に幼い寝顔を見下ろし、霖雨はその小さな身体を背負った。肩を貸せば、細い両足は宙に浮かぶだろう。子ども扱いするなと訴える顔が目に浮かび、霖雨はそっと笑った。
イベントは中止だ。
決勝を残して終わったトーナメントだが、不満の声が出る筈も無い。天変地異のような豪雨に見舞われ、生命の誕生に直面し、主役である選手は不在。
主催者は過労の為か深く眠り込み、幼くも可愛らしい寝顔を晒している。彼を労う声はあっても、不平を零す輩はいない。勝敗の行方を惜しむ姿は見られたが、この寝顔を前に全ての叱責は消え失せる。
余韻を残して消えて行く人々の中で、出店の数々は撤収に動き出している。僅かばかりの寂寞を感じながら、霖雨は歩き出した。
今はただ、和輝をゆっくりと寝かせてやりたかった。暖かい寝床で、消耗した身体を休めて欲しい。常に逆境に身を置く彼が、長い旅路の途中で羽を休める場所でありたいと願った。
眠り込む彼に黙っていたことがある。
故郷に残して来た彼の親友が、その身を案じて取り付けた発信機のことだった。和輝はそれを知らないし、彼の親友も告げることは無いのだろう。
和輝がそれを知れば、憤り、嘆くだろう。そんなに信用が無いのかと責めるかも知れない。だが、これは心配性の彼の親友の苦肉の策で、事実、その措置で彼は何度も窮地を脱出して来た。それでも、和輝は悲しむのだろう。だから、伝えない。霖雨が知らせることでは無い。これは、彼等の問題だ。
発信機を取り付けるのなら、それを受信する装置が必要になる。逆探知をしたなら、それは母国に繋がる筈だ。
深淵を覗く時、深淵もまた、己を覗いている。偉人の言葉を思い出し、皮肉なものだと霖雨は思った。
発信機は、持ち物の少ない和輝が必ず持ち歩くものに仕込まれている。家の鍵に吊るされた不気味な人型のキーホルダーだ。夜光塗料の施されたそれは、光を充填し、闇の中で仄かに発光する。一見すれば、それは単なる家族の土産の品で、会話のきっかけになることはあっても手に取るものはいないだろう。
此処に発信機が取り付けられているだなんて、和輝は夢にも思わない。
この発信機の電波を受信する先を、霖雨は知っている。一つは母国で、もう一つは霖雨の携帯電話だ。どのようなシステムなのか知らないが、『馬鹿の世話』というあからさまに相手を侮辱する名前のアプリが受信している。
そのアプリを作ったのは、葵だった。
トラブルメーカーの彼が巻き起こす事件に介入する為に、葵が作った。
葵は、和輝が己に残された最後の希望だと解っていた。だから、それを失わないように監視していたのだ。
あの気難しい透明人間がどのような事情を抱えていたのかなんて、霖雨の知るところでは無い。だが、彼が最後の希望を放置するとは考え難い。何処か自分達の知らないところで、この電波を受信している筈だ。
手掛かりがあれば、このヒーローは自身の危険も顧みずに突っ込むのだろう。それは、葵の本意ではない。巻き込まない為に、遠ざけた。霖雨はそんな風に思う。
和輝が昏々と眠っているので、愛車は駐輪場に置いて公共機関を利用する。利用客の少ない車内には夕陽が差し込み、まるで異世界に迷い込んだような不安を感じさせた。
簡単に目を覚ますとは思えないが、霖雨は慎重に小さな身体を自宅へ運んだ。着いた時にはすっかり日も沈み、辺りは闇に包まれていた。
無人のリビングを抜け、小綺麗な和輝の自室へ足を運ぶ。その小さな体躯を寝かせ、霖雨はリビングへ戻った。電灯を点けると、無機質な白い光が部屋の中を照らす。それを反射する立体的な紙切れが、天井から吊り下げられていた。
紙飛行機だ。
よくよく見れば、就職活動中の霖雨が書き損じた履歴書だった。光に透ける己の名前の他に、機体の名前が記されている。
改めて見ると、馬鹿みたいな名前だった。『葵頑張れ号』は、細い刺繍糸で天井より吊り下げられ、微動だにしない。墜落もしないけれど、何処にも行けない。そんな中途半端な存在が、透明人間が此処にいたという証になる。
不思議なものだ。
霖雨の不毛な就職活動がこの紙飛行機を作り、葵の決意を揺るがせた。非生産的な就職活動が霖雨を上の空にして、馬鹿みたいな怪我に繋げ、孤独な母子を救うヒーローを呼び込んだ。
友人を救えなかった和輝の後悔が母子を救い、生命の誕生を促し、境界線を越える一歩になった。
この世は因果応報で、全ての事柄は繋がっている。
繋がりを絶つことが、出来なかったのだろう。此処にいない透明人間の心中を思い、霖雨は目を伏せた。
墜落もしないが、何処にも行けない紙飛行機。和輝は、それなら自分が連れ出してやると言った。その言葉が、葵を繋ぎ留めた。
霖雨には、確信がある。葵は、何処かで発信機の電波を受信している。だが、重大な問題がある。霖雨には、逆探知する技術が無いということだ。
如何する。霖雨は爪を噛む。
出口の見えている迷路で、足元が断崖絶壁で阻まれている気分だ。
和輝には言えない。彼の親友の願いを踏み躙る真似は出来ない。
コンピュータに詳しい知人はいないし、あの透明人間の施すセキュリティを容易く突破出来るとは思えない。
悩んでいても埒が明かないので、霖雨は携帯電話を取り出した。通話履歴から、一人の青年へ電話を掛ける。
長い呼び出しの後、電話は繋がった。
『もしもし』
低く掠れた声は、もうすっかり耳に馴染んでいた。霖雨は、その名を呼んだ。
「匠君かい」
『そうです』
ヒーローの親友、白崎匠は静かに肯定した。
霖雨は携帯電話を握り締め、切り出した。
「訊きたいことがある」
『和輝に何かありました?』
「和輝は元気だよ。今日も、大いに活躍して人を救っていた」
『バスケのイベントがあるって言っていましたね。元気なら、良かった』
感情を読ませない、抑揚の無い声だった。
霖雨は言った。
「和輝に発信機を付けているだろう」
『俺が? 何か証拠でも?』
匠は簡単に肯定しなかった。当然だ。彼は、和輝自身にそれを知らせていない。知らせるつもりも無いだろうし、和輝だって良い気はしない。
この遣り取りは無意味だ。霖雨はそのまま続けた。
「コンピュータに詳しいのかい?」
『人並みです。俺は、発信機を作る技術なんてありません』
俺は、と匠は言った。ならば、彼に関わる協力者がいるのだ。その何者かが、野生動物みたいに勘の良い和輝が気付かないような精巧な発信機を作った。
「コンピュータに詳しい人を探しているんだ」
『如何して、和輝を通さないのですか? 和輝に知られて困ることでも?』
匠の声は固く、警戒が滲んでいる。隠す必要も無いので、霖雨は答えた。
「和輝に取り付けられた発信機の電波を傍受している人間がいる。その居場所を知りたい」
沈黙が訪れた。匠は、何かを考え込んでいるようだった。
発信機の電波を傍受されているというのは、和輝が脅威に晒されるということだ。けれど、此処でそれを答えれば、自分が発信機を取り付けていると認めることになる。
匠には、この問いを否定し、密かにその正体を探るという選択肢がある。霖雨なら、そうする。そうなればお手上げだ。これは勝算の低い賭けだった。
明瞭なスピーカーの向こう、匠が言った。
『発信機なんて知りません。ーーですが、情報通の友人がいるので、訊いてみます。必要があれば、その答えを伝えます』
それで良いですか。
匠が、淡々と言った。彼も大概お人好しだ。霖雨は答えた。
「頼みます」
通話は、音を立てて途切れた。
十分な収穫だ。通話を終えた携帯電話を見下ろし、霖雨は小さく拳を握った。
夢喰いバク
⑴隠し事
傷付いた組織を修復するように、消耗した体力を回復するように、たっぷりの睡眠をとってヒーローは起床した。
丸一日寝ていたことになる。生命の誕生に立ち会ったことが遠い昔のようだ。寝惚け眼を擦りながら起き出した和輝は、土砂降りのイベントが中止になったことを嘆いていた。
「順位に興味は無いけど、翡翠と決着を着けたかった」
そう言って、和輝はキッチンへ入って行った。
丸一日寝ていたのに、当たり前のように家事を熟す様が板に付いている。立派な主夫になれると、霖雨はぼんやりと思った。
翡翠との決着は、優勝を賭けたものだった。勝敗ではないのなら、他に何があるのだろう。体育会系ではない霖雨には解らないが、譲れない矜持の問題なのかも知れない。
「勝算はあった?」
何となく霖雨が問い掛けると、水盤に向かっていた和輝が不思議そうに首を傾げた。
「勝ちたいとは考えるけど、勝てるか如何かを考えたことは無いよ」
そういうものなのだろうか。
彼の他に比べるものを知らない霖雨は解らない。
鍋を水洗いした和輝が、たっぷりのミネラルウォーターを入れる。コンロへ運ぶ手は淀みない。
コンロに火が点る音がした。
和輝が、棚から麺を取り出す。如何やら今日の昼食は、スパゲティらしい。
麺を茹でながら、並行してサラダを作り始める。余りに容易くそれを熟すので、まるで手を抜いているように見える。
レタスを千切り、トマトを切り分け、和輝は言った。
「勝つことが全てじゃないよ」
「負けるよりは勝つ方が良いだろうさ」
「まあね」
簡単にサラダを作り終えた和輝は、そのまま次の工程へ動き出す。手鍋へミネラルウォーターを入れ、粒状のコンソメを取り出していた。
手抜きだな、と霖雨は思った。口に出して批難するつもりは無い。手を抜いていても、和輝の料理は美味い。
「俺は今まで沢山負けて来た」
「甲子園優勝したんだろ?」
「最後の最後に、一度だけね」
そうか、と霖雨は納得した。
最後に勝ったことで、世間は掌を返して和輝を認めたのだ。それまでの暗く冷たい道程を、その時になって肯定した。だが、苦汁を味わった和輝にとって、それは到底誇れる評価では無かったのだろう。
最後の優勝が無ければ、和輝は負け犬だったのだ。世間から否定され、今此処にはいられなかっただろう。
鍋を掻き混ぜながら、和輝は言う。
「勝てば何でも肯定される訳じゃない。その人の本当の強さが試されるのは、負けた時なんじゃないかな」
コンロの火を止め、鍋を持ち上げる。水盤へ流し込んだ大量の湯から立ち昇る湯気が、その小さな身体を覆い隠した。
白黒染まる世界で、やけに澄んだ双眸が光っていた。
「一つの勝敗を永遠の決着と捉えたら、其処で歩みは止まってしまう。此処はまだ通過点だ。自分なら出来る。そうやって自分に言い聞かせながら、立ち上がるんだ」
その言葉こそが、まるで和輝自身に言い聞かせているようだった。
「結果を蔑ろにするのではなく、受け止めて次を目指すんだ。辛い時にこそ、前を向かなければならない」
「正論だけど、きれいごとだね。誰もがそうして生きられるのなら、誰も苦しみはしない」
「その為に、仲間がいる」
彼が母国で打ち込んで来た野球は、チームプレーの代表格だ。中々に説得力のある言葉をだった。
自分一人では出来ないから、仲間の助けが必要だ。だから、自分も仲間を助ける。理想論かも知れないが、最善の選択だ。事実、彼はそうして、信頼関係を築いたのだ。
霖雨は相槌を打ち、それには答えず曖昧に濁した。個人の価値観が如何であれ、他人は其処に口を挟むことは出来ない。
ただ、一つだけ、訊いてみたかった。
彼の思考回路は単純で、解り易い。妬みや嫉みの無い明瞭な心理状態を保持している。けれど、そういうところが、勘に障るという者もいるだろう。
正直者が馬鹿を見る。世の中の基本構造だ。
性善説も性悪説も興味は無いが、全ての人間が善人ではない。
彼は、孤独を感じたことは無いのだろうか。
もしも、頼るべきものが無く、目の前すら見えない絶望に直面した時、彼はそれでも同じ言葉を吐けるだろうか?
さて。
霖雨は逡巡する。匠からの返事が来る前に、このヒーローに悟られてはならない。葵の手掛かりが掴めたなんて言ったら、和輝は矢も盾も堪らず飛び出してしまうだろう。
人間嘘発見器と呼ばれる彼を前に、何処まで躱せるかが問題だ。泣き落としという最終手段が出たら、上手く躱せる自信も無い。
一番確実なのは、考えないことだ。知らぬ存ぜぬの態度で接するよりは、話題にすら出さなければ、見破られる嘘を吐く暇も無い。
そうと決めたら、霖雨は早々に思考の放棄に努めることにする。
調理の過程に区切りが付いたのか、和輝が手を止めた。
「胡桃が」
「何?」
「胡桃が、教えてくれた」
唐突な切り出しに、霖雨は戸惑った。けれど、脈絡の無い彼の話が、実は綿密な計算の上に成り立つことを知っている。
無関係と思われる事柄が、実は一本の糸で繋がっていることを、霖雨はもう、知っている。
電池切れだった玩具が、その交換によって動き出すように和輝は再び調理を始めた。フライパンを取り出し、カウンターからは見えない其処で何かを炒め始めた。独特の香ばしい匂いが漂って来たので、姿は見えないものの、それが大蒜であることを悟る。食欲を唆る良い香りだった。
油の跳ねる小気味良い音がした。其処に茹でたスパゲティを投入し、和輝は手首のスナップを利かせて混ぜ合わせる。
完成したらしい。
火を止めた和輝は、フライパンの中身を皿へと移し替えてリビングへ運んで来た。
レタスとトマトのデリカ風サラダと、具沢山のクラムチャウダー、湯気の昇るペペロンチーノ。僅かな時間で賑やかになった食卓には、最早感嘆の息も出ない。これが普通であると、感覚が麻痺してしまっているのだ。
スープの具材は、予め冷凍していたものを使ったと、申し訳無さそうに和輝が言った。そうは見えないし、文句の一つだって無かった。
食卓を囲み、手を合わせる。窓の外から溢れる中天の日差しが眩しく、世界の平和を彷彿とさせた。
風味豊かなクラムチャウダーを口へ運び、霖雨はグルメリポーターのような気の利いた台詞の一つも出ない自分を恨んだ。店に出せる味わいだ。彼が飲食店を経営すれば、客足は伸び続けるだろう。
何か感想の一つでも言おうとする霖雨を前に、和輝が微笑んだ。
「美味い?」
「性別が違っていたら、プロポーズしたいくらい」
「光栄です」
ギリシャ彫刻のように美しく微笑んだ和輝が、きらきらと輝いて見えた。
「俺が家庭を守るから、霖雨は安心して働きに出ていいよ」
「飲食店を一緒に切り盛りしよう。俺がウェイターをするから」
「防犯設備を整えなきゃね」
皮肉だったのだろうか。霖雨はそんなことを思ったが、口にはしなかった。
それにしても、美味い。
夢中で食事を続ける霖雨はそのままに、和輝は遠く、秋の空を見ていた。