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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
バタフライエフェクト
92/105

⑶断崖絶壁を越える一歩

 目の前の翡翠が、陽炎の如く滲んで見えた。このまま消えてしまうような気がして、和輝は伸ばしそうになる手を必死で押し留めた。


 ふと、暗い過去の記憶が脳裏を過ぎった。其処には、赤いランプが灯っていた。


 両開きの扉は閉ざされ、運び込まれた患者の現状を知る術は無い。

 大学病院で勤務していた頃、医師免許を持たない和輝はその境界線の向こうへ行くことが出来なかった。瀕死の重症で運び込まれた患者の意識を回復させても、手術室の向こうで死亡することも少なくなかった。手を尽くしても救えなかった命に対して、徒労だったなんて言えはしないけれど、そのまま何もかも投げ出したいくらいの虚しさが残った。


 解っている。自分にはその資格が無いのだ。命と向き合う覚悟も無い。

 閉ざされた扉の前で、いつも自分は祈るだけだった。




「和輝?」




 呼び掛けられ、和輝の意識は掬い上げられるように現実へ帰って来た。霖雨の柔らかな丸い双眸に自分が映っていた。

 其処にいる自分の顔が憔悴して見えて、不甲斐なさに泣きたくなる。何を思い出しているのだろう。


 イベントの進行に滞りは無く、トーナメントも決勝戦を残すのみとなっている。盛り上がりは最高潮に達し、興奮の中で幕を下ろすだろう。

 懸念があるとするならただ一つ、突き抜けるような蒼穹が何時の間にか鉛色の雲に覆われていることだ。秋の空は変わり易いというけれど、晴れ男の自覚があるくらい、大一番で雨に降られたことは無かった。

 決勝戦まで、保つだろうか。曇天を見上げていると、犇めき合う人混みの奥で声が上がった。


 目の前の人の群れが、ぱくりと割れた。動揺の声に思わず腰を上げる。無人の帯がすらりと伸びて、その先には胎を大きくした女性が二人掛かりで支えられて遣って来ていた。


 見覚えのある女性だ。

 和輝は救護係へ声を掛け、彼等をテントの下へ促した。


 女性は額に珠のような汗を浮かばせて、今にも崩れ落ちそうに表情を歪めている。救護係が慌てて掛けて来て、女性を担架へ導いた。側へ駆け寄り、和輝は平静を装って問い掛けた。




「What's the matter?」

「She’s having the baby.」




 女性を支えていた男が早口に言った。

 堪えるように歯を食い縛る女性の手を、パートナーらしき男が握っている。




「Call 911.」




 女性の側に跪き、救護係へ訴える。その瞬間、ぽつりと大きな雨粒が落ちた。

 それはあっと言う間に降り出し、アスファルトを黒く染め始めた。担架をテントの下へ移動させると、観客達は不安そうに様子を伺い、雨から逃れるように近くの屋根の下へ逃れ出した。

 空は急速に雲に覆われ、周囲は夜のように暗くなった。

 ぴしゃりと、叩き付けるような音と共に世界がフラッシュした。次いだ雷が空気をびりびりと震わせ、悲鳴が上がった。

 耳触りなノイズが聴覚を埋め尽くし、穏やかなイベントは一転して不穏な嵐の空気に包まれた。


 豪雨から逃れた人々が不安を口にする。女性の苦しげな呻き声が拍車を掛け、本部テントの下は、まるで天変地異に見舞われた被災地の様相を呈している。


 女性の衣服が、雨ではないものに濡れている。破水しているのだ。和輝は女性の手を握り、パートナーの男性へ笑い掛けた。




「Don't worry.」




 お前がしっかりしなくて、如何する。祝うべきことなのに、不安そうな顔をするな。

 叱り付けるように言うと、男は苦く笑った。


 とは言え、和輝は出産の知識に乏しかった。安心して任せろとは、流石に言えない。

 今は救急隊員の到着を待つより他に無かった。


 その時、救急隊員と連絡を取り合っていた係員が真っ青な顔で言った。

 高速道路で事故があり、突然の豪雨の影響もあって到着が遅れている。

 何処か遠くで緊急車両のサイレンが鳴っているのに、此処まで来れない。

 係員が、この世の終わりみたいな顔をする。

 心配するなと、和輝は笑ってみた。


 この場に、医療知識のある者は多くない。救護係だって素人だ。驕りや慢心ではなく、自分が最も医療に精通していると解る。


 救急隊員は来られない。出産は目の前だ。

 放って置いて勝手に産まれるのなら、誰も不安には思わない。


 何が出来る。この手を握り、励ますだけか。

 自分に何が出来る。苦しむ人を前に、手を拱いているだけか。


 何が。




「俺が取り上げる」









 バタフライエフェクト

 ⑶断崖絶壁を越える一歩









 自分が覚悟を決めるより早く、言葉が溢れた。狼狽えていた霖雨が何かを言おうとするのを遮って、和輝は笑ってみせた。


 笑え。不安を悟られてはならない。

 迷うな。躊躇った分だけ時間は失われる。

 判断を間違うな。覚悟を決めろ。




「I will, I will save you.」




 こんな時こそ、笑うのだ。

 逃げ込んで助かるのなら、誰も苦しみはしない。


 ずっと、逃げて来た。

 命と向き合うことから逃げて、境界線の内側で膝を抱えていた。自分には出来ないと予防線を引いて、身を守っていた。


 逃げたって、誰も助けてはくれない。

 神様は見ているだけで、窮地には正義の味方も、不死身の勇者も、無敵の五人組も駆け付けてはくれない。

 だから、自分がヒーローになると決めた。


 人垣の後ろに、翡翠が立っていた。断罪する裁判官のような無表情で、真っ直ぐに此方を見下ろしている。

 救ってみろよ、とその目が言う。


 目の前に断崖絶壁が見える。遥か下方では激流が絶叫を上げるように暴れ狂っている。身を投じれば、遺体すら上がらないだろう。

 吊り橋なんて無い。此処が境界線だ。生きるか死ぬか、そんな選択肢は存在しない。踏み込まなければ傷付くこともない。けれど、尻尾を巻いて逃げるのなら、二度と此処には立てないだろう。

 もう、逃げない。例え濁流に呑み込まれても、暗く冷たい地底を彷徨うとしても、この場所を譲らない。


 救ってみせる。和輝は女性へ目を向けた。


 胎児は産道を通過して外界へと産まれ落ちる。人垣に目隠しを施し、和輝はその時を前に身構えた。

 この場所は衛生的に手術には適していないし、和輝にその技術は無い。出来るのは、患者を励まし、力添えをすることだけだ。


 女性は苦悶に表情を歪め、痛みに呻き、絶叫する。握られた掌がぎしぎしと軋み、千切られそうだった。爪先が食い込み、皮膚を破く。汗だけではなく、赤い血液が滲んだ。


 和輝はその手を握り返した。


 来い。お前を待っているんだ。

 望まれているのだ。世界は冷たく厳しい。それでも、お前は祝福される。




「You can do it!」




 応援は頼もしい。母国で野球をしていた頃も、大勢の人が応援してくれた。

 けれど、その期待に応えられなかった時、自分は如何なってしまうのだろうか。

 頑張れと言われるのも辛いけど、もういいよと言われるのはもっと辛い。


 世界は冷たい。だけど、それだけか?

 この手を伸ばす先がある。それでいいと認めてくれる人がいる。たった一つでも希望があれば、それだけで生きていける。


 頑張れ。

 この言葉の意味を知っている自分だから。例えそれが負担になってしまっても、声が枯れても訴えたい。

 頑張れ。

 頑張れ。

 頑張れ。

 負けるな。足掻け。信じろ。


 自分なら出来ると、何の根拠が無くても声を上げろ。此処にいるということを証明してみせろ!


 祈るように、願うように、縋るようにその手を握る。どうか、この思いが届けと強く訴え掛ける。


 永遠のような苦しい静寂が流れた。誰もが手に汗を握りながら祈っている。

 激しい豪雨の中で、蒸せ返るような人いきれの中で、ただ一人の誕生を願う。


 その時だった。


 産道を抜けた小さな頭部が視界に映った。


 アルコール消毒を施した手で、姿を現した胎児に手を添える。ずるり、と頭部が抜けた。続いて肩、上半身が現れる。


 その勢いを殺さぬように、一気に引き上げた。水面で足掻く遭難者を掬うようだった。


 臍の緒で繋がれた胎児が、真っ赤な体を外気へ晒す。力を込めたら、容易く壊れてしまいそうに繊細で、華奢な体躯だ。


 産声を上げない様に、パートナーの男の顔が曇る。和輝は赤子を取り上げ、その身体を揺すった。


 開かれない目は、まるでその機能が不要とばかりに閉ざされている。くしゃくしゃの顔を軽く叩く。その時、掠れるような微かな声がした。


 夜明けを告げる鐘の音のようだった。

 産声は、生命の誕生とは思えぬ程に小さい。初めての呼吸の苦しさに、真っ赤な体を震わせ、赤子は大きく口を開けた。


 福音だ。

 小さな声は雨の中で確かに響いた。




「産まれたーー」




 抱き上げた赤子を見下ろしながら、和輝の頬には雫が落ちた。汗だったのか、雨だったのか、涙だったのかはもう、誰にも解らない。

 パートナーの男は張り詰めていた表情を歪め、腰を浮かせた。女性ーー母親は、長い苦痛から解き放たれ、汗に塗れた顔に一筋の涙を零した。




「Congratulations!」




 割れんばかりの拍手が包み込み、歓声がわっと溢れ出した。


 サイレンが聞こえる。出産に間に合わなかった救急車が到着し、安堵に満ちた空気の中で救急隊員が駆け付けた。


 其処で和輝は役目を代わった。臍の緒は繋がれたまま、母子は担架へ乗せられる。

 人垣が切り裂かれるようにして割れ、母親の手を握ったままパートナーの男が声を上げた。




「Thank you so, so much!」




 涙に濡れた、酷い顔だった。

 和輝は顔面を歪め、それに応えた。


 運ばれ行く一家を見送り、体液に濡れたまま、和輝はその場にしゃがみ込んだ。腰が抜けたのか、立ち上がれない。


 両手が震えていた。目の前がちかちかして、視界が揺れる。薄闇に包まれた界隈の中、サイレンは一家を乗せて遠く走り出した。




「和輝」




 霖雨が、呼んだ。

 差し出された手を掴んでも、和輝は立ち上がれなかった。霖雨の腕に縋りながら、和輝は目を伏せて喘ぐように言った。




「産まれたよ……」




 自分が何かをした訳じゃない。産んだのは母親で、それを支えて来たのは父親だ。

 和輝は、母親の命と引き替えに産まれた子どもだった。自分が産まれた数時間後に、母親は死んでいた。


 だけど、それでも。




「産まれたんだ……!」




 両目が溶けてしまいそうに熱かった。

 この手は、人を救ったよ。


 和輝が言うと、霖雨は膝を着いてしゃがみ込んだ。




「頑張ったね」




 蕩けそうに笑った霖雨の声は震えていた。

 そのたった一つの肯定が、全てを許しているように感じた。

 真夜中に虹が架かるような、真冬に桜が咲くような奇跡だ。人の命は安く、代替出来る代物だ。それでも、今、この場所で世界で一つだけの命が産まれたのだ。




「頑張ったよ」




 誰に認められなくても、誰に否定されても、誰に何を言われても、頑張ったのだ。

 努力は他者評価を必要としない。結果の無い努力は認められない。それでも、独りきりでは走り続けられない。


 乾いた拍手を響かせながら、歩み寄る気配があった。顔を上げると、薄明かりの中に緑柱玉の瞳が煌めいて見えた。


 本物のエメラルドと、偽物を見分ける方法がある。本物のエメラルドは、内部に無数の罅があるのだと言う。偽物には再現出来ない不完全さこそが、本物たる所以なのだそうだ。


 翡翠は、立ち上がれない和輝を見下ろしている。臨戦態勢など取れる筈も無く、和輝は黙って見詰め返した。

 世界が遠退くような沈黙が訪れた。和輝は掛ける言葉を持たない。その時、翡翠がぽつりと言った。




「俺とお前、何が違うんだろう」




 不思議そうに首を捻り、翡翠はその場にしゃがみ込んだ。距離を取ることも出来ず、和輝は黙って不完全なエメラルドの双眸を見詰め返した。

 人との違い等、言葉で説明出来るものではない。それを列挙したところで、何も変わらない。

 和輝が答えられずに黙っていると、隣で霖雨が言った。




「覚悟だよ」




 容易くそれを口にした霖雨は、不敵な笑みを浮かべていた。迷いなく告げられた言葉に、翡翠が僅かに目を細める。

 灯火のようだと、和輝は思った。闇を照らす道標であり、風が吹けば消えてしまいそうに儚い。


 他の誰が否定しても、それでいいと思った。

 誰か、たった一人でも認めてくれるのなら、何処まででも行ける。




「翡翠」




 断崖絶壁が見える。しかし、それは目の前では無く、遥か後方にある。

 全ての人と解り合えるとは思わない。それでも、解りたい。




「誰をも救えるとは思わない。取捨選択もするだろう。切り捨てた未来が復讐する日も来るかも知れない。ーーそれでも」




 和輝は顔を上げた。重く垂れ込めた曇天の隙間から、目が眩むような一筋の光が差し込んでいる。

 傾いた太陽光は橙色に染まり、放射状に広がっている。鉛色の雲が風に運ばれ、鮮やかな夕陽が地表を照らした。薄明光線、或いは、天使の梯子。

 翡翠の相貌が橙色に染まる。




「それでも、目の前の一つくらいなら、救えると信じたい。この手が届くのなら、俺は何に変えても救ってみせる」




 世界は冷たい。それでも、希望がある。

 何度でもそれを証明して見せる。彼が世界は絶望だと言うのなら、自分が希望を証明する。

 小さな一歩かも知れない。ただの足踏みに過ぎないのかも知れない。けれど、磨り減った靴底が、歩き出したことを教えてくれる。


 希望がある、希望がある、希望がある。

 祈るように、縋るように、願うように繰り返す。


 翡翠は、少しだけ笑ったようだった。夕陽に滲む彼の顔が、そのまま溶けてしまうような気がした。




「コンティニューするかい?」

「何度でも!」




 噛み付くように叫べば、翡翠の口角が吊り上がった。

 くるりと踵を返した翡翠の背中が遠ざかって、追い掛けたい衝動に駆られた。しかし、足は枷でも付いているみたいに鈍く、踏み出すことが出来なかった。

 ぐらりと視界が歪み、橙色の世界は白い砂嵐に覆われた。ハウリングみたいな耳鳴りがして、和輝の意識は其処で途絶えた。


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