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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
バタフライエフェクト
91/105

⑵願いの欠片

「Keep it up.」




 祈りを込めた掌が差し出された。ハンドクリームなんて使用する間も無く荒れた白い手だった。触れたら折れてしまいそうな指に嵌ったシルバーリングが、太陽光を反射してきらきらと輝いて見えた。


 頑張れと言われると苦しいけれど、頑張らなくていいよと言われるのも辛い。

 応えるつもりでその手を取ると、血の通った温かさが伝わって来た。

 観客の一人であろうその女性は、大きな腹を抱えていた。自分とは異なる命を宿した女性は、もうじき母親になるのだろう。生命の神秘なんて尊大な言葉を使う気は無いが、母親とは偉大だなと思う。


 パートナーらしき男性は、眼鏡の奥に柔和な光を宿している。

 幸せそうな夫婦だ。どんな困難も、二人でならば乗り越えられるのだろう。彼等の期待に応えたいと思う。




「頑張ります」




 反射的に口から出たのは、母国の言葉だった。理解出来なかったのであろう二人が揃って首を傾げたので、和輝は慌てて頭を振った。




「I'll win.」




 頑張ります、ではなく、勝ちますと答えた。

 努力賞なんてものは存在しない。表彰台に上がれるのは入賞者だけで、以下は有象無象に過ぎない。

 結果よりも過程が大切だなんて、負け犬の遠吠えだ。勝たなければ意味が無い。それでも、勝利こそが全てと強い言葉は使えない。


 固く握手を交わし、和輝は歩き出した。

 足元の白線は境界線だ。その向こうは地雷原で、脱出する時は全てが終わった時だ。


 対戦相手は褐色の肌をした大きな青年だった。坊主頭に翼を象った刺青が入っている。アンダーグラウンドな空気を纏う相手は、対峙すると見上げる程に大きい。大人と子どもの勝負だと揶揄する声が何処かから聞こえて、和輝は鼻で笑ってやった。


 相手ボールからのTip Offーー。

 出方を伺うように、青年は緩慢にドリブルをする。和輝は身を低く構え、その一挙一動を観察していた。


 ドリブルに合わせた相手の呼吸が聞こえるようだった。大きな脚が踏み込んだ瞬間、和輝の手はボールへ触れた。指先を掠めたボールはそのまま力強くアスファルトへ打ち付けられ、紅蓮の炎が燃え上がるように一気に走り出した。


 白線のぎりぎりを駆け抜ける青年へ追い縋る。ボールがリングへ叩き込まれる刹那、和輝の指先がそれを弾いた。

 ブロックを想定していなかった青年の栗色の瞳に、自分の顔が映った。驚愕に動作が一瞬遅れる。宙に浮かぶボールを抱え込み、和輝はアスファルトを蹴った。


 速攻。

 全力の追走を躱し、僅かな慢心も無く、丁寧にボールを送る。

 厳しい身長差だ。ボールが浮けば、それは阻まれる。そっとリングへ置くようにボールを残せば、後は重力に従って落下する。


 先取点ーー。観客のどよめきの中で、高揚感が胸を突き上げる。

 弾む呼吸を整えながら振り向くと、青年が鋭い視線を向けていた。

 何だ、その顔は。


 油断していたか? 慢心は無かったか?

 己の心に問い掛けて、僅かな言い訳の余地すら無い程にベストを尽くしたか?




「Is that all you've got?」




 青年の顳顬に青筋が浮かぶ。此処が路上ならば、拳が飛んで来たかも知れない。

 コートの中は戦場だが、無法地帯ではない。第三者機関の厳正な審判により、公平にゲームは行われる。


 短い笛の音に促され、青年が走り出す。真正面から体当たりするような勢いだった。直撃を避けるように身を翻す。怒りに染まった面に嘲笑が浮かぶ。躱す刹那、和輝の指先はボールを弾いた。


 舵を失ったボールが後方へ跳んで行く。前のめりの姿勢から立ち直す青年よりも早く、和輝はボールに着手した。

 足元には白線が弧を描いている。3Pラインだ。

 どんなに体格差があったとしても、どんなに腕力があったとしても、この距離ならば届かない。

 和輝の手から放たれたボールは、導かれるようにしてリングを潜った。


 3Pシュートを決め、溢れんばかりの声援の中で和輝は拳を握った。

 青年は届かなかった掌を呆然と見詰めている。そんな馬鹿な、まさか、あり得ない。目の前の現実を否定する目が、ふつりと縋るように持ち上がる。


 二回連続の得点を許した己の慢心に気付いたようだった。和輝は転がり落ちたボールを拾い、青年へと投げ渡す。鮮やかなボールは宙を舞い、一度コートにバウンドしてから青年の元へ戻った。


 覚悟を滲ませ、青年の目は鋭くなった。

 この得点は単なるビギナーズラックではないと、理解したようだ。

 和輝は、口の端を吊り上げた。




「Bring it on!」




 チャンピオンはお前じゃない。表彰台に上る前から勝ったような顔をしていたけれど、あくまで自分達は挑戦者なのだ。


 相手からのボールでゲームが再開する。既視感を覚えさせる光景だ。和輝は、身構えた。










 バタフライエフェクト

 ⑵願いの欠片











 ぶつりと、鈍い音がした。


 ボールを奪取し、鋭いドリブルで切り込んだ和輝が、相手プレイヤーの脇を擦り抜ける瞬間だった。真上から降ろされた肘が、稲妻のようにその肩を直撃した。

 肉を打つ鈍い音がして、小さな身体はアスファルトへ崩れ落ちた。


 悲鳴にも似た動揺の声が上がり、試合中断の笛が鳴り響く。口を押さえて感嘆の息を漏らす観客の横、霖雨は、腰を浮かせた。


 派手に倒れ込んだ和輝は、よろりと立ち上がった。肩口を押さえて表情を歪ませている。ファウルだ。

 ルールに則って、ファウル地点より試合は再開される。


 怪我をしたのだろうか。具合は。

 はらはらと様子を伺う霖雨を他所に、ボールを持った和輝が構える。


 あの野郎、わざとやりやがったな。

 内心で口汚く罵るだけで精一杯の霖雨は、如何にか立ち上がった和輝の背中を祈るように見詰めていた。


 ふと隣を見ると、大きな腹を抱えた女性が祈るように手を組んでいた。見知らぬ人に親近感を覚えながら、霖雨はコートへ目を戻す。

 女性の隣、パートナーらしき男性が宥めるように言った。




「バスケットボールは激しいスポーツなんだ。あの程度の接触はよくあることさ。ファウルを貰う為に、大袈裟に振る舞うことだってあるんだ」




 この男性は、経験者なのかも知れない。けれど、霖雨は言い返してやりたかった。

 和輝はそんなせこい真似はしない。真正面から壁に衝突する人間だ。

 そう思うけれど、偶然隣に居合わせただけの自分が口を挟むところでは無かったので、黙って聞いていた。


 女性は手を組んだまま、嘆くように言う。




「でも、とても痛そうだったわ。怪我をしていないかしら」

「大袈裟だよ。ーーほら、見てごらん」




 コートの中で、和輝は無重力空間みたいに自在にボールを操っている。成る程、杞憂だったのかも知れない。

 女性の顔色は優れず、尚も縋るようにコートを見詰めている。




「負けちゃうかもーー」




 その瞬間、先程のプレーをなぞるようにして相手プレイヤーを躱した和輝が、鮮やかにレイアップシュートを決めた。教本の手本にでもなりそうな、美しい動作だった。


 マッチポイントだ。

 膝に手を着いて、和輝は呼吸を整えている。白いクルーネックのTシャツが、太陽の光を反射して輝いて見えた。頬を伝って落下した汗の雫すら、宝石のようだった。




「Don't worry.」




 意図せず、霖雨の口からは言葉が溢れた。顔を上げた女性が、子犬みたいな丸い目を向ける。

 霖雨は笑い掛けた。


 全ての未来を予測していたように、和輝のプレーは精錬され、相手プレイヤーの先を行く。その体躯に見合わぬ驚異的な身体能力で、和輝は鳥類が飛翔する如く跳躍し、ボールをリングへ叩き込んだ。


 試合終了だ。笛が鳴り響き、唖然とする相手プレイヤーを置き去りに審判が勝敗を告げる。歓声に満ちた世界で、和輝は拳を突き上げた。それが合図みたいに、割れんばかりの拍手が包み込む。霖雨もそれに倣い、手を打ち鳴らした。


 興奮冷めやらぬコートの中心で、和輝は相手プレイヤーへ握手を求めている。

 忌々しげに顔を歪めた相手プレイヤーは、どのように報復しようかと瞳に憎悪を載せ、ーーそして、力無く笑った。晴れ晴れとした、何処か幼い微笑みだった。


 固く握手を交わす二人に、賞賛の拍手が送られる。乾いた音が、福音のように彼方此方から降り注いでいた。


 霖雨の隣、安堵の表情を浮かべる女性には血色が戻ったようだ。和輝は顔が広いので、知り合いなのかも知れない。

 何と無く二人の会話に耳を傾ける。女性は強張った掌を解しながら、言った。




「良かった。負けちゃったら、如何しようかと思ったわ」




 男性が、労わるようにその細い肩を抱く。眼鏡の奥に優しい光が宿っていた。

 霖雨は問い掛けた。




「彼の知り合いですか?」




 男性は訝しげな目を向けながら、そっと首を振った。




「面識は無いけど、一回戦から彼の試合を見て来たんだ。あんなに小さいのに、大きな選手に勇敢に立ち向かって行くんだ。僕も妻も、すっかり彼のファンさ」




 自分が褒められた訳でも無いのに、何故だか照れてしまう。その勇敢な青年は、自分の友達なんですよ。すごいでしょう。

 訳の解らない自慢が口を出る前に、霖雨は頭を振った。

 男性は空を見上げ、記憶を探るように言う。




「何て名前だったかな。外国の選手みたいだったけど」




 答えを提示しようとした霖雨を遮って、女性が言った。




「Hachiya」




 メジャーリーガーと同じ名前ね。彼の国では、多い苗字なのかしら。

 女性がそんなことを言うので、彼等は正真正銘、血の繋がった兄弟なのだと伝えるべきか迷った。けれど、彼のプライバシーを考えて黙って置いた。




「誰かが、彼はヒーローだと言っていたわ」




 夢見る少女みたいに、女性がうっとりと言う。男性は面白く無さそうにしていた。アイドルに現を抜かす妻を咎める旦那のようだと、霖雨は可笑しくなった。

 女性は、愛おしむように自身の腹を撫でて言う。




「彼にね、願掛けしているの。彼が勝ったら、この子は元気に産まれて来るってーー」




 見知らぬ他人の出産の責任を背負わされるなんて可哀想だな、とは思わなかった。まるで、それが当たり前みたいに、霖雨はすとんと納得した。


 丁度その時、件のヒーローがタオルで汗を拭いながらやって来た。驚く夫婦を置き去りに、和輝は能天気な程に明るく笑った。




「勝ったよ」

「見ていたよ」




 飼い犬が尻尾を振る様が重なって見える。霖雨はヒーローを隣へ招き入れた。

 周囲の観客が、矢継ぎ早に話し掛け、賞賛して行った。和輝は模範解答を口にし、一人一人に誠実に対応している。何時かテレビで見た彼の兄も、同じようにファンへ対応していた。流石、兄弟だな、と遠いところで感心していた。


 和輝は霖雨の隣の夫婦に気付くと、嬉しそうに微笑んだ。思わず赤面してしまいそうに美しい笑みだった。




「勝ちましたよ」




 降参とばかりに手を振った男性へ、何故か互いの健闘を称えるみたいに拳を合わせる。和輝はそのまま女性へ目を向けた。

 並び立つと、和輝が圧倒的に小さい。よくもこの体格で勝ち進んだものだと感心を通り越して呆れてしまう。

 断りを入れてから、和輝は大きな腹を撫でた。生命の誕生を慈しむ様は、聖人のように神懸かっている。けれど、まさか自分の試合がその出産の責任の一端を担っているとは夢にも思わないだろう。

 口元を綻ばせた夫婦へ別れを告げ、霖雨は和輝と共に歩き出した。


 汗が引いたらしい和輝は上着を羽織った。菫色の見た事のないパーカーだった。

 本部テントの下に戻った和輝は、プレイヤーから一転して運営者の顔をする。トーナメント表を眺め、係員からの報告を受けながらイベントの進行状況を確認していた。


 隣で聞いている限り、イベントは順調に進んでいた。トーナメントも残すところは決勝戦のみで、盛り上がりも最高潮に達している。

 懸念があるとするなら、一つ。

 決勝戦の相手が、霖雨も知る胡散臭い青年であるということだけだ。


 決勝戦は、翡翠との対戦になるらしい。彼は物見遊山で顔を出したのかと思っていたが、参加者だったらしい。トーナメントは事前の申し込みが必要とのことだったので、計画性がある。其処がまた、胡散臭い。


 霖雨が見ていたことに気付いたのか、和輝がふと顔を向けた。




「如何した?」




 霖雨は曖昧に濁し、頭を切り替えた。




「バスケって激しいスポーツなんだね。観ていてはらはらしたよ」

「そうだね。勝ちたいと思えば、手段を選ばないこともあるだろうさ」

「そうか……」

「でも、あくまでこれはスポーツだからね。その為にルールがあって、審判がいる」




 抜け目の無い和輝のことだから、安全は第一に考えている筈だ。

 和輝の回答は、殆ど模範解答に等しい。けれど、やはり友人には怪我をして欲しくない。先程打った肩は無事なのだろうか。

 霖雨の視線に気付きながらも、触れて欲しくないのか和輝は話題を変えた。




「そういえば、ケーキ、届けてくれた?」

「ああ、届けたよ。少しだけ分けて貰ったけど、美味かった」

「それは良かった」




 ほっと胸を撫で下ろす和輝だが、彼が調理をしくじったことは一度も無い。

 自分の届けたケーキを思い出し、霖雨は問い掛けた。




「如何して、犬と猫だったんだ?」

「あれは犬じゃない。狼だ」




 霖雨としては大して変わりないけれど、和輝には譲れないところであるらしい。砂糖菓子でその差異まで表現するのは難しいだろう。

 どちらにせよ、何故その動物を作ったのか気に掛かる。不満そうな和輝を宥めながら、霖雨は店長からの伝言を思い出した。




「お前に渡すものがあったんだった」

「何?」




 トーナメントの決勝戦を控えたこの場面で渡す必要があるのかは解らないが、口に出した以上は引っ込められない。

 ポケットへ無造作に突っ込んでいた木の実を取り出し、そっと手渡す。落胆されるかと身構えたが、和輝は興味深そうにそれを太陽へ翳した。




「胡桃?」

「うん。如何しても割れなくて、困っているんだって」




 何の変哲も無い筈の木の実なのに、和輝が持っているというだけで、途端に重要なメッセージを秘めているように見えるから不思議だ。

 和輝はそれを軽く机に打ち付けた。これが卵だったなら、容易く罅くらいは入っただろう。だが、その歪な外殻には傷一つ付かなかった。


 割れない木の実を見詰め、何かを感じ取ったらしい和輝は言った。




「割れないのかな、割らないのかな」




 それがこの木の実に込められたメッセージなのだろうか。霖雨には解らない。

 和輝は胡桃をじっと見詰めている。




「胡桃の花言葉は、知性、知力、野心、策略」




 座学が壊滅的という割には博識だ。霖雨は胡桃に花言葉があることすら知らなかった。

 不穏な言葉を口にした和輝は目を伏せた。




「胡桃は、地面に落ちれば自然に割れる。ーーそれで、良かったのかも知れないね」




 何かを納得するように、諦めるように言う和輝は何処か弱って見えた。先程までスーパープレーで会場を沸かせていた者と同一人物には見えなかった。


 ふと顔を上げた和輝は遠くの空を見ていた。突き抜けるような蒼穹には、何時の間にか大きな入道雲が浮かんでいた。


 夕立になるかも知れないな、と霖雨はぼんやり思った。


 その時、青空を遮るようにして人影が現れた。視界を塞ぐ影は、蟻の巣を覗く子どものような顔をしていた。


 翡翠。

 和輝はその名を声にせず呟いた。


 翡翠はにっこりと微笑むと、当然のように本部テントの下へ入り込んだ。そのまま和輝の隣のパイプ椅子へ陣取り、面白いものを見付けたみたいに口角を吊り上げる。


 じきに始まる決勝で対戦する選手が、穏やかな世間話をするとは思えない。一触即発かと様子を伺う関係者をそのままに、翡翠は和輝の手の中の木の実を見て言った。




「何持ってるの?」

「胡桃だよ」

「うん、それは見て解る」




 そういうことじゃないとは、霖雨も思った。心底解らないみたいに首を傾げる和輝は察しが悪いのか、解っていてそういう顔を繕っているのか紙一重だ。

 何にせよ、自分に彼の嘘は見破れない。黙って二人を傍観することに決める。




「何で胡桃なんて持っているの?」

「渡されたから」

「何で?」

「関係無いだろ」




 霖雨から見て、この二人の仲は良好とは言い難い。犬猿の仲とまでは言わないが、相性は良くないように思う。少なくとも、和輝にとってはかなり分が悪い。


 翡翠はつっけんどんな和輝の物言いに、戯けるみたいに軽く肩を竦めた。




「そう邪険にするなよ。ただの世間話じゃん」

「下世話だな。他人に興味なんて無い癖に」

「それ、そっくりそのまま送り返してやるよ」




 皮肉っぽく翡翠は嗤った。鼻に付く、嫌な嗤い方だった。

 和輝はふいと視線を逸らし、自然な動作で木の実をパーカーのポケットへ押し込んだ。其処に何かしらのメッセージが込められていることを知っている霖雨は、和輝が隠したように見えた。


 まるで、小動物だ。

 隠した木の実は如何するのだろう。隠したことすら忘れてしまう頭の弱い小動物を思い出し、霖雨はそっと笑った。


 和輝は、ゆっくりと顔を向けた。秀麗な面には、先程までの殺伐とした空気は残っていない。一瞬で切り替えたのか、全ては予定調和の演技だったのか、霖雨には解らない。

 ただ、上滑りするような感情の乖離した言葉のやり取りを、知っている。


 腹の底の読ませない緑柱玉の瞳を持つ青年が、消えた透明人間と重なる。此処に無い面影を探し、霖雨は虚しく思った。

 それを察したのか、翡翠が悪戯を思い付いたように言った。




「探し物は、見付かったかい」




 吊り上がった口角が、此処にいない透明人間と重なる。和輝は曖昧に笑った。




「無くしたのようで、本当は、手の中にあるのに気付いていないだけなのかも知れない。忘れた頃にひょっこり出て来るさ」

「失ったことに、気付いていないのかもよ?」

「質量保存の法則だ。姿形が変わっても、そのものが失われることはあり得ない」

「本当に、そう思う?」




 和輝の表情が、ほんのひと瞬きの最中、翳った。これが彼の出せる精一杯の弱音なのだ。

 霖雨は、庇うように口を開いた。けれど、それは形になる前に遮られた。




「失っても失っても、希望はある」

「如何かな」

「解らないよ。それでも、今のこの瞬間が未来へ繋がっていくと信じたいから、前を向いて行くしかないんだ」




 ほんの僅かなきっかけで、何かが変わるかも知れない。出来ると信じて、今は前に進むしかないのだ。




「翡翠」




 和輝が、酷く澄んだ瞳を向ける。それは透明な光を宿し、見る者を惹き付ける。深淵を覗き込んだような気がして、霖雨は焦点をずらすように見遣った。

 翡翠が微かに首を傾ける。和輝は、鏡のような眼差しをしていた。




「俺は全てを救えるとは思っていないし、そのつもりも無い。でも、目の前の一つくらいなら守れると信じたい」




 小動物のような円な瞳が、何故だか獲物を前にした肉食獣のそれに見えた。其処で唐突に、霖雨は今朝見たデコレーションケーキを思い出す。

 白い飼い猫と灰色の犬ーー否、あれは狼なのだ。


 和輝は、真っ直ぐに翡翠を見据えている。




「試合が始まる前、観客の一人が俺に頑張れと言った。それが勝手な期待だとは思わなかった。ーー託されたと、思った」




 当たり前のように期待を寄せられ、応えられなければ責められる。それでも、和輝は構わないのだ。

 他人行儀で無責任な応援を、信頼だと受け止めている。


 翡翠が、嬉しそうに言った。




「和輝は、丈夫だねえ」




 新しい玩具を前にした、子どものようだ。

 期待と興奮の裏に、無知故の残酷さを秘めている。

 迷い込んだことは無いけれど、出口の無い洞窟とは、こんな感じなのだろう。暗く、冷たく、じっとりと染み入るような恐怖だ。

 目の前の青年は質量を持って存在している筈なのに、信じられない。




「決勝戦、楽しみだねえ」




 そう言って、翡翠は空を仰いだ。

 鉛色の雲が急速に発達し、空を覆い尽くしている。ぽつりと、大粒の雫が落ちたような気がした。

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