⑴ボーナスステージ
The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.
(逆境の中で咲く花は、どの花よりも貴重で美しい)
Walt Disney
店内は閑散としている。週末だというのに、如何したことだろう。
首を捻りながら入店した霖雨を、店主は相変わらずの無表情で受け入れた。
「あのチビは、元気かい」
気安い物言いは、心を許されていると解る。
霖雨は口元に笑みを浮かべて答えた。
「元気になって来たところです」
「それは、良かった」
口調は淡々としているのに、声には安堵が滲んでいる。微かに歪められた双眸の奥に、優しい光が宿っていた。
喫茶店に縁のある生活では無いけれど、何時の間かこの店の馴染みになり、居心地の良さすら感じていた。気付いた時には懐に入り込んで、切り捨てることが出来なくなってしまう。そんなところが、和輝に似ていると思った。
促されるままカウンター席に腰を下ろすと、頼んでもいない内に一杯のコーヒーが提供された。
霖雨は、砂糖やミルクの類は基本的に使わない。ゴールデンブラウンの泡が消える前に口へ含むと、雑味の無いエスプレッソの旨味が広がった。
カフェオレやドリップコーヒーも好きだが、この味を知ってしまうと、何かを加えるのが惜しいと感じてしまう。
液体を飲み下し、ほっと一息吐く。店主は背中を向け、ドリップコーヒーを落としている。霖雨はその背中へ問い掛ける。
「景気は如何ですか?」
「ぼちぼちかな。チビが辞めて、デザート類はメニューから下げたんだ。デザート目当ての客も多かったから、あの頃の賑わいは遠ざかっているよ」
この閑散とした状態の理由を悟り、霖雨は苦笑した。売上は落ちているのだろうが、殆ど趣味で経営しているような小さな喫茶店だ。大した痛手ではないだろう。
振り返った店主が、並べられたグラスを手に取る。乾いた布巾で丹念に磨き始める横で、霖雨は手土産があることを思い出した。
白い紙の箱を取り出してカウンターに置くと、店主は手を止めた。
「和輝からです」
箱を受け取った店主が、丁寧に解体していく。中から現れたのは、生クリームのたっぷりと乗ったデコレーションケーキだった。砂糖菓子の動物が、ちょこんと行儀良く並んでいる。
白猫と、灰色の犬。それを取り囲むように苺が配置され、強固な砦の様相を呈している。
ファンシーな砂糖菓子とは対照的に、ムラ無く塗り込まれた真っ白な生クリームが、不可触を訴え掛けているようで、何処かアンバランスだった。けれど、それを意図して作り上げたのならば、和輝は此処にどんなメッセージを込めたのだろう。
店主はケーキを調理台へ運び、容易くナイフを突き立てた。放射状に切り込まれたケーキは、まるでジグソーパズルのようだ。
その内の一切れを皿に載せ、霖雨の元へ出した。
「相変わらず、手先が器用だね」
小さく礼をして、霖雨は一切れのケーキを受け取った。
切られたケーキの内部は綺麗な層になっている。柔らかなスポンジ、生クリーム、カットされた苺。作り物めいたそれは完成された一つの箱庭のようだった。霖雨は思い切ってデザートフォークで突き刺した。
甘いものを好まない性質なので、内心気が進まなかった。だが、口にするとそれ程甘くなく、さっぱりとした味わいだった。
店主への手土産である筈なのに、霖雨好みの味付けがされている。自意識過剰でなければ、和輝はこれを自分が口にすることを予期していたのだろう。
食えない男だ。
霖雨が黙って食べ進めていると、スツールに腰掛けた店主が言った。
「あのチビに、渡してくれないか?」
そう言って店主がカウンターに小さな球体を置いた。表面には歪な凹凸がある、茶褐色の木の実だ。
霖雨はそれを拾い上げ、首を傾げた。
「これは……胡桃ですか?」
「そう。如何しても割れなくて、困っていたところなんだ」
「はあ……」
脈絡の無い頼まれ事に、霖雨は眉を寄せる。
困っているのなら、何とかして遣りたいと思う。けれど、たかが木の実一つだ。アルバイトを辞めた元従業員にわざわざ依頼する程のものではない。
此処にも別の思惑が潜んでいるような気がして、霖雨は疎外感を抱いた。
デコレーションケーキに、割れない胡桃。何かの暗号だろうかと勘繰ってみても、答えは提示されない。
溜息を零しつつ、霖雨は胡桃をポケットへ押し込んだ。どうせ、何時かは解る。
そういえば、と霖雨は視線を巡らせた。店内は僅かな客が、静かな昼下がりの一時を楽しんでいる他に誰もいない。
此処にいない緑柱玉の瞳を持つ青年を探していると、察したらしい店主が言った。
「翡翠なら、今日は休みだよ」
「そうでしたか」
「この近くで、バスケットボールのイベントがあるらしい。其処に参加すると息巻いていたよ」
そのイベントなら、霖雨も知っている。
嘘から出た真というか、和輝が吐いた嘘を成立させる為に、白紙から企画したイベントだった。家庭に問題があると思われる母子を救う為に、外界との交流の場を設けて風通しを良くしようとしているのだ。
表向きはストリートバスケのトーナメント試合だが、優れた選手に脚光を浴びせ、幼児を対象に技術指導をしているらしい。
近年は、母子カプセル化と称される程に子育てに苦しみながら、助けを求める先を持たない母親が多い。追い詰められた結果、最悪の事態が起こることは解っている。
学生の身で子育て支援を行う青年も珍しいだろう。
此処のところ意気消沈していた和輝が、今朝早くから起き出して張り切っていた。やはり、彼は泳いでいなければ呼吸すらままならない鮪のように、人の為に動き回っている時が一番活き活きしている。
再度、マグカップに手を伸ばしてコーヒーを啜る。豊かな風味が口内に広がって、肩に圧し掛かっていた何かが解け落ちて行くような気がした。
「君は見に行かないのかい?」
磨き終えたグラスを棚へ戻し、店主が問い掛ける。その手には次のグラスがあった。
霖雨は答えた。
「行きますよ。一つだけ、確認したいことがありまして」
マグカップを置き、霖雨は言った。
「神木葵の行方を、知りませんか」
店主の目が訝しげに細められる。理解出来ないものを見るような、或いは、品定めしているような疑惑に満ちた眼差しだった
この喫茶店は、地域に根差した小さな店だ。先述した通り、趣味で個人経営しているようで、利益は殆ど重視していない。
駅前の好立地ながら、人気が無いこの店は、果たして誰を対象に経営されているのだろう。世界的大企業の社長すら利用する謎の多い店だ。この店のコーヒーは美味いけれど、その為だけに足を運ぶだろうか。
地域に根差すとは聞こえが良い言葉だ。
様々な人間が利用する交差点では、比例して多くの情報が行き交う筈だ。
霖雨がじっと見詰めていると、店主は口の端に笑みを浮かべた。
「居場所は知らない」
その言葉に、霖雨は何かが引っ掛かった。
頭の中で反芻し、違和感の正体を吟味する。
「葵の消息に関わる何かを知っているのですね」
否定の言葉など吐かせまいと、強く詰問する。感情の読めない店主が、急に胡散臭いものに見えて、霖雨は身構えた。
店主は答えた。
「近頃、この近辺で犯罪組織の動きが活発になっている」
知っている。
D.C.と呼ばれる犯罪組織がある。何時か、葵はその組織を田舎のヤクザだと称していた。違法薬物の売買を収入源とした組織だ。
近頃は同様の組織との間で抗争が起きて、界隈のティーンエイジャーが巻き込まれ、社会復帰の可能性の無い世界へ身を落としている。嘗て、和輝は彼等を救おうとして、犯罪組織に目を付けられ、命の危険に晒された。
母国の英雄の活躍で、一時は組織を退けた。現在は影を潜めているようだが、本当に脅威が無くなったのか、霖雨には解らない。解るのは、今も和輝は変わらず生きているということだ。
店主はグラスをカウンターへ置き、周囲へ目配せした。
「誰かを探しているらしい」
「……誰を」
問い掛けながら、霖雨の脳裏には、二人の青年が浮かんでいた。
蜂谷和輝と、神木葵ーー。
和輝は、実際に組織から命を狙われている。それが今も変わらないのなら、可能性が高い。
だが、店主は、探していると言った。
和輝の居場所は知られている。自宅に組織が押し入ったこともあった。ならば、その対象は和輝ではない。
姿を消した透明人間ーー。
「何か、思い当たることがあるようだね」
店主は、感情の読めない無表情で言った。確信を秘めた口調に、霖雨は否定の言葉を繋げなかった。
神木葵は、犯罪組織から命を狙われていた。
だから、居場所を知られる前に姿を消した。そう考えると、辻褄が合う。
全ては、偶然か?
故郷を離れた自分達が、異国の地で出会い、一つ屋根の下で暮らし始めたこと。
和輝が命を狙われたこと。
母国の英雄がそれを一時的に退け、和輝が守られたこと。
全ては予定調和だったのではないか?
自分は、透明人間の書いた筋書きをなぞっていただけではないのか。
神木葵が何処に行ったのか知らない。その消息を知る術は無く、葵は全ての痕跡を消し去っている。
地震にでも見舞われたように、足元がぐらぐらと揺れた。揺れているのは世界ではなく、自分だ。
マグカップの中でコーヒーが波立っている。霖雨はそれをカウンターへ戻し、深呼吸をした。
疑うことは、容易い。何の証拠も無い。
葵の思惑なんて霖雨には解らないが、確かなことが一つある。
組織は、今もターゲットを追っている。つまり、組織の手に落ちていないということだ。
気持ちを落ち着けながら、霖雨は訊いた。
「その話、和輝には?」
「此方からは伝えていない。だが、広い情報網を持っているから、知らないとは思えないな」
確かに。
霖雨は相槌を打って、考え込むように顎に指を添えた。
和輝が知らない筈が無い。ならば、相手がどれだけ強大であっても、危険も顧みず首を突っ込むだろう。そうしていないのは、何故だ。今も意気消沈して、手を拱いている理由は何だ。
「また、隠し事か……」
和輝も葵も、隠し事が多い。秘密主義者なのだろうか。それとも、自分に信頼が無いのだろうか。
やれやれと溜息を零して、霖雨は立ち上がった。
「御馳走様でした」
料金をカウンターへ置き、身支度を整える。
何かを言いたげな店主に短く礼を言って、霖雨は店を後にした。
バタフライエフェクト
⑴ボーナスステージ
高く、ホイッスルが鳴り響いた。
観客からは惜しみない拍手が送られ、コートの中央では二人の青年が固く握手を交わした。試合の終了を見届けた係員は、興奮冷めやらぬまま頬を紅潮させ、トーナメント表に赤い印を記した。
霖雨は、勝ち進んだ選手を見詰め、息を呑んだ。
屈強な男達の犇めくトーナメントで、決勝戦まで勝ち進んだのは、知った人間だった。
翡翠は、柔和な表情で観客の拍手に応えている。
母国でバスケットボールに打ち込み、その腕前だけで留学したというのは、本当だったのだろうか。
正体不明の知人にどんな感想を抱けば良いのか解らない。此処は素直に賞賛するべきなのかも知れないが、抵抗がある。
コートを見渡せる本部テントに小さな青年を見付け、霖雨は駆け寄った。
今回は参加者ではなく、運営側なのだ。忙しそうなら、手伝ってやろうかと思っていたが、予想に反して和輝はのんびりとパイプ椅子に座っていた。
側にいる係員と試合の内容について談義している。和輝は霖雨に気が付くと、嬉しそうに表情を綻ばせた。
「やあ、遅かったね」
霖雨が来ることを予想していたらしく、和輝は側の席を勧めて笑った。
促されるまま着席すると、係員がアイスティーの入った紙コップを提供してくれた。有難く受け取り、一口飲み下す。頭が痛くなる程によく冷えたアールグレイだった。
和輝は子どものように、天真爛漫な笑顔でこれまでの試合展開を話し始めた。
頬が少しだけ赤かったので、日焼けしているのかも知れない。霖雨は楽しそうな和輝に邪気が抜かれるように感じていた。
一頻り話し終えた和輝が、一息吐くようにサーモマグからドリンクを飲み下した。
霖雨は苦笑して言った。
「イベントは成功みたいだね」
「失敗なんてあるもんか」
それは自信があるというよりも、イベントの失敗というものは有り得ないと言っているようだ。どんな事態もポジティブに受け止める彼の人間性が透けている。
イベントは、公共の広場を利用して開催されている。コートの外には露店が立ち並び、ちょっとしたお祭りみたいな雰囲気だった。
トーナメントに使用されないコートでは、子ども向けのバスケットボール教室が行われている。指導しているのは、出場選手だろう大柄な青年達だった。普段はアンダーグラウンドな雰囲気の漂う男達も、日の下では気の良い好青年に見える。然るべき場所に収まっていれば、彼等は優秀な人材なのかも知れない。
必要なのは受け皿だ。この場所は、社会から溢れた不適合者が、社会復帰する為のチャンスなのだろう。
大勢の子ども達の中に、先日の少女を見付ける。コートの外からはあの母親が嬉しそうに声を上げて声援を送っていた。
此処は光に満ちている。
希望がある。救いがある。受け入れる掌がある。
その中心で、和輝は係員に声を掛ける。
「ベスト4は出揃った。盛り上がりは最高潮達する。警備の強化をしてくれ」
了承の返事をして、係員が駆けて行く。
イベントの運営は順調で、抜かりは無い。
指示を出す和輝は、恐らく企画側の上層部に位置しているのだろう。責任は大きいが、その分だけ、やり甲斐もある筈だ。彼はクリエイティブな仕事が向いていると霖雨は思う。
トーナメント表を眺めていると、勝ち進んだ選手の中に知った名前が二つあることに気付いた。
一つは、あの翡翠だ。そして、もう一つ。
「和輝?」
「ーー何?」
呼ばれたと思ったらしい和輝が振り向いた。
トーナメント表には、企画側である筈の和輝の名前が記されていた。
「お前、参加してるの?」
「うん」
さも当たり前みたいに返す和輝が理解出来ない。企画側の人間が参加するのは、まずいだろう。八百長を疑われる恐れがある。試合はあくまで公平であるべきだ。
けれど、和輝はにこりと微笑んだ。
「見ているだけなんて、つまらないよ」
「お前は企画側の人間だろ」
「試合は公平だ。審判はわざわざ第三者機関に依頼している」
「買収を疑われるぞ」
「何の為に?」
問い返されて、霖雨は納得した。
プロリーグでもあるまいし、こんなボランティアで八百長をする理由も無い。勝ったところで具体的な報酬がある訳でもないのだ。
それでも、やはり、公私混合ではないだろうか。
試合の得点を見ると、和輝は常にギリギリのクロスゲームを展開している。ブザービーターを決めた時もあるらしいから、確かに盛り上がり、応援したくなる選手ではある。
それでも、ベスト4は中々の強敵ばかりだ。身長差は最低でも20cmはある。大人と子どものようだ。快進撃も此処までかと、霖雨は肩を落とした。
霖雨が黙っていると、和輝は立ち上がった。
「勝利の約束された試合なんて無い。そして、試合が最も盛り上がるのは、弱者が強者を打ち倒すーー番狂わせ(Giant-killing)が起こった時なんだぜ」
嘗て、和輝は僅か十名の少数チームで甲子園を勝ち進み、全国制覇を果たした。過去の栄光が、彼の言葉に現実感を連れている。
アナウンスが響き渡る。次の試合の出場選手が呼び掛けられた。
蜂谷和輝ーー。
ヒーローの名前が呼ばれると、観客からは津波のような歓声が溢れ出した。歓びに満ちた声は、彼が八百長をするだなんて微塵も疑っていない。
和輝を応援している。彼を見る為に来たのだと、人々の笑顔が訴え掛ける。
異国の地だ。此処は完全なる敵地の筈なのに、彼は愛されている。
何時か、和輝はヒーローになりたいと言った。身を切るような悲痛な願いだった。
それは、叶ったのだ。
彼が自覚していなくとも、周りの人間は知っている。
弱い自分を認められない。自分の失敗を許せない。そんな不器用な彼だからこそ、人々は受け容れるのだ。
歓声に応えるように拳を突き上げ、和輝はテントを出て行く。小さな背中は、太陽の光を背負って大きく見えた。
霖雨は、溺れる者が必死に息継ぎをするように慌てて言った。
「和輝、頑張れよ!」
振り向いた和輝が、笑った。
人々を魅了する、美しい笑みだった。淡かった世界が鮮やかに色付いて、スポットライトが当てられたように眩しかった。
「行って来ます」
長い睫毛が影を落とす。そっと伏せた目を上げると、其処には燃え盛る紅蓮の炎が宿っていた。