⑸星の光
「代理ミュウヒハウゼン症候群(Münchausen syndrome by proxy)だね」
聞いたことの無い病名を口にして、翡翠が笑った。和輝は隠す事も無く、舌打ちを零した。
あの母子の情報を何処で知ったのか、当然のように翡翠は言う。それすら忌々しく感じる今の自分は、気が立っているのだろう。
改札から出た二人の後を追い、足音を殺す。
擦れ違う大勢の他人は、此方を一瞥するとすぐに立ち去った。太陽の光は傾き、冷えた風が夜を連れて来る。
黄昏時、逢う魔が時、ーー辻を逢魔が駆け抜ける。
翡翠の横顔がオレンジ色に染まっている。世界の終焉を憂う神のようだ。その思考回路が読めない和輝は、黙って先を促した。
「ミュウヒハウゼン症候群は、虚偽性精神障害に分類される精神疾患の一つだ。その一形態である代理ミュウヒハウゼン症候群は、傷害の対象が自己ではなく、何か代理のものに向かう。多くの場合は我が子が傷害の対象となる為に、児童虐待と同列に挙げられる」
虐待。その単語に、霖雨が苦い顔をする。
和輝は隣を歩く霖雨を見遣りながら、そっと言った。
「あの人は、子どもを虐待するような母親じゃない。心から、娘を愛しているんだ」
「だが、お前は虐待を疑っているんだろ?」
和輝は、否定の言葉を繋げなかった。
あの母親は、嘘を吐いている。娘を案じる様に嘘は無かった。虚偽があったのは、恐らく、その経緯だ。
何故、その理由に嘘を吐いたのだろう。
言いたくないことだったのだろうか。それとも、自らの罪を隠しているのか。和輝には、解らない。嘘を吐いていれば解る。だが、その背景が読み取れる訳じゃない。
人を信じたいと思う。母親が愛する我が子を傷付けているだなんて、思いたくない。
けれど、娘の怪我が事故によるものなのか、他者によって齎されたものなのかくらい、見れば解る。
娘は、他人に怯える様子は無い。他者からの悪意に慣れていないのだ。他人が害意を持って傷付けることがあるだなんて、露程も思っていない。
「人が人を傷付けることに、悪意なんて必要無い。タイミングさえあれば、容易く命は奪われる」
「俺はーー、」
和輝が反論しようとした時、隣で霖雨が口を挟んだ。
「論点がずれているぞ。診断したいなら、専門家に委ねれば良い。俺達はレッテルを貼りたい訳じゃない」
その言葉に、和輝は、はっとした。
反対隣の翡翠が、愉悦に口角を吊り上げている。
「必要なのは結論ではなくて、方法だろう」
柔和な霖雨が、びしりと断言するような強さを滲ませて言った。
その通りだ。和輝は、深呼吸をする。
相手の土俵に上がってはならない。翡翠の口車に乗せられて、危うく本質を見失うところだった。
ありがとう。
ぽつりと零すと、霖雨が肩を竦めた。
件の母子は、仲良く手を繋いで帰宅した。話し掛けるタイミングが見付からず、結局、家の前で立ち往生する。
洒落たアパートだった。他の住民が顔を覗かせることも無く、和輝は側の壁に凭れて静かに呼吸を繰り返す。
そっと瞼を下せば、闇の中で声がした。誰も何も言っていないのに聞こえる声は、恐らく自分の叱咤だった。
あの日、言えなかった言葉がある。
胸の中に残る苦い感情は、後悔だ。
「和輝」
霖雨の声に、和輝は顔を上げた。
薄暗い闇の中で、霖雨が労わるような優しい顔をしていた。
もう、帰ろうか。
霖雨の優しい提案に、和輝は首を振る。
霖雨は優しい。逃げ道を提示してくれている。それでいいよと言ってくれる。けれど、此処で逃げて上辺だけの平穏を手にしても、意味が無い。結局、苦い後悔は積み重なり、自分が苦しむのだ。
アパートを見詰めていた翡翠が、無表情に言った。
「出て来たぞ」
あの母親が、一人で玄関から出で来た。
軽装だったので、出掛けるようではない。和輝は、断崖絶壁を飛び越えるつもりで足を踏み出した。
「こんばんは」
柔らかな笑みを浮かべて告げると、女性は目を丸くした。
「こんばんは。お久しぶりですね」
「はい。偶然ですね」
偶然出会したように装い、和輝は軽快に答える。女性は警戒に固くした表情を崩し、笑顔を見せた。
「如何して此方に?」
「ちょっと出掛ける用があったので。此方にお住まいなんですか?」
「そうなんです。偶然ですね」
他愛の無い話へ転がり、和輝は唇を舐めた。
如何やって切り出す?
事実を挙げて叱責したい訳でも、その証拠を掴みたい訳でもない。
和輝は、笑顔を繕いながら言った。
「そうだ。近々、子ども向けのスポーツイベントがあるんです。其処でスタッフをしていて、参加者を集めています。良かったら、如何ですか」
自身の行為に後ろめたさがあるならば、此処は断る筈だ。しかし、女性は美しい微笑みで答えた。
「楽しそうですね。ぜひ、参加させて下さい。娘も喜びます」
流石に、一筋縄ではいかないか。
如何する。和輝が考えを巡らせている後ろから、鋭い声が突き刺さった。
「あんた、娘を虐待しているね」
感情の無い冷たい声だった。
弾かれたように振り返った先に、翡翠が立っていた。
「あんたの娘の血中に有害な薬物の反応があった。怪我も、事故によるものではない」
「何を、」
和輝がその口を塞ぐ間も無く、女性が叫んだ。
「何ですって! 私が、娘を、虐待しているですって? 酷い言い掛かりだわ!」
これは、悪手だ。最悪手に等しい。
女性は顔を紅潮させ、それまでの穏やかさを消し去っていた。
図星を突かれた人間の反応だ。
証拠がある。事実がある。ーーそれでも、此処でそれを叱責することは悪手なのだ。
「何の話か解らないわ」
「証拠がある。専門機関へ通報すれば、貴女には然るべき処罰が下されるだろう」
翡翠が、嗤った。
「罪には、罰だ」
果たして、その罪とは?
二の句の継げない和輝に、女性が酷い形相で睨む。これが、この女性の本性なのだろうか。否、人は誰にでも裏がある。ある一面だけで、その人間性まで否定することは出来ない。
鬼の形相で、女性は和輝を睨み付けた。
裏切り者。女性の目が、そう言っている。
和輝は、翡翠に掴み掛かった。
「何を言っているんだ!」
「事実だろう。ーーお前だって、そう思っていたじゃないか」
へらりと、翡翠が軽薄に嗤う。
和輝は息を呑んだ。
それを此処で責め立てて何になる。
この女性は、娘が憎くて虐待している訳じゃない。この女性が本当に望んでいるものは。
「貴女がいないと、駄目なんですよ」
凛と、何処かで鈴が鳴ったような気がした。
混乱する状況を鎮めるように、霖雨が穏やかに言った。
「申し遅れました。僕は常盤霖雨と言います」
謝罪するように丁寧に頭を下げ、霖雨は顔を上げた。その双眸には、柔らかな光が宿っている。街灯を反射し、それは金色を帯びて見えた。
「貴女の娘さんと、お話したことがあります。その時に、娘さんが言っていました。自分は、お母さんがいないと駄目なんだって」
和輝は、唇を噛んだ。
娘がどのように思っていたかは解らない。だが、その意味が、和輝には推察出来る。
娘が、母親を必要とするのは当然のことだ。しかし、それを子どもが他人へ訴えるだろうか。可能性は無い訳ではないけれど、恐らくきっと、母親が、そう思い込ませた。
母親がいなければ駄目なのだと、娘に言い聞かせて来たのだ。
「どうか、その意味を履き違えないで欲しい。世界中の誰が否定したって、あの子は貴女の娘なんだ。貴女が大切なんだ」
愛憎は表裏一体だと言う。愛が多ければ憎しみに至る。抱き締める愛があれば、傷付ける愛もあるだろう。方法が間違っていたからと言って、その感情までも否定することは出来ない。
「あの子には、貴女が必要だ」
どうか、この声が届けと祈るように。
流星に願いを込めるように、霖雨が言う。女性は苦く頷き、そのまま踵を返した。
憤っていたようにも見える。突き放したようにも見える。だが、和輝には、その声が届いたように見えた。
暗い街路に取り残され、和輝は閉ざされた扉を見詰めている。だらりと両手を下げながら、拳を固く握り締めた。
翡翠ばかりが退屈そうに嘆いている。
「収束されちゃったか」
詰まらないな、と嘯く翡翠に、和輝の胸の中に沸々と怒りが込み上げた。
「お前、ふざけるなよ」
発した声は、地を這うように低かった。翡翠が、にやにやと笑っている。
「何が?」
「何で、あんなこと言った!」
霖雨がいなければ、最悪の事態が訪れていたかも知れない。回避出来た悲劇を、翡翠が嘲笑って引き込もうとした。そして、自分には、その力が無かった。
「お前だって、そう思っていたじゃないか」
「だからと言って、それを口にして何になる!」
「じゃあ、救ってみせろよ」
あの日ーー、病院で人を救えなかった時と同じ言葉を吐いて、翡翠が嗤う。
救ってみせろ。ーー俺だって、救ってやりたいさ。自分の無力さを嘆くことはもう、辞めたのだ。言い訳なんてしない。
自分には、あの人を救えない。翡翠が何を言っても言わなくても、自分には彼女を救えなかった。
だから、この事態を招いたのは、自分なのだ。
言葉を失った和輝は、視線を足元へ落とした。アスファルトが濡れたように街灯を反射している。
火取虫が、熱を求めて群がっている。蜘蛛は罠を張り巡らせ、その翼を絡め取る。其処に前後不覚な自分を重ね見て、酷く虚しくなる。
その時、霖雨が言った。
「救ってみせるさ」
当たり前みたいに、霖雨が笑う。
「人が人を殺す為に必要なのは、きっかけなんだろう? なら、その逆だって同じだろうさ。人が人を救う為に必要なきっかけは、今日、この場で訪れた」
霖雨の双眸が輝いている。
希望の光だ。和輝は、思った。
「何でもパンチ一発で解決出来る訳じゃない。でも、その一発で目が醒めることだってあるだろうさ」
大丈夫。
和輝の頭をさらりと撫でて、霖雨が言った。
「お前の思いは、必ず届くよ」
流星になんて祈らなくても、君の願いは届く。
霖雨が優しく微笑むので、和輝は、まるで自分が許されたような心地になる。
行こう。
手を引いて、霖雨が歩き出す。俯いた和輝は何も答えられないまま、足を踏み出した。
物言わぬ星
⑸星の光
「和輝は、さ」
ぽつぽつと街灯の照らす道を進み、霖雨が言った。
周囲に人はいなかった。ひっそりと静まり返る界隈は、まるで自分が異次元の世界に迷い込んだような錯覚さえ齎す。その中を迷いなく歩き出す霖雨は、まるで羅針盤を背負っているようだ。
和輝は黙って足元へ視線を落とし、引き摺られるようにして歩いていく。霖雨は、そっと後方を見遣った。
「何でも出来る自分でなければ、認められないんだろう」
否定を許さないような強さを滲ませて、霖雨が言う。和輝は答えられなかった。
「あの人を救えなかったことにも、ーー葵が消えたことにも、責任を感じている。違うかい?」
問い掛けながらも、その口調は答えを求めていなかった。
「お前には何の責任も無い。同じように、咎める権利も無い」
霖雨は、一つ溜息を零した。それは幼児の失敗を受容する母親に似ていた。
「あの母子は兎も角、葵が如何して消えたのかなんて、俺にだって解らないよ。何か事情があったのかも知れない。一言くらい、相談してくれたなら良かったと思うけど」
振り向いた霖雨が、泣き出しそうに眉を寄せた。和輝には答える術が無く、ただ黙って立ち尽くしている。
「人を救いたいと言っていたね。その人の過去も未来も、傷も弱さも受け容れてやりたいと願うのなら、自分の思いは殺さなければならない」
「霖雨には、出来る?」
霖雨は緩く首を振った。
「そんなこと、誰にも出来ないよ」
当たり前みたいに、霖雨が言う。
そうか、当たり前なのか。
友達が苦しんでいて、助けてくれと手を伸ばして、その手を掴んでいるのに救えなくても、当たり前なのか。
自分は神ではない。何でもかんでも救える訳じゃない。
それでも、納得出来ないから、目の前の一つくらいなら掴めると信じたい。そうでなければ、虚しいじゃないか。
黙っている和輝に、言い聞かせるようにして霖雨が言う。
「受け容れてやれよ。葵の身勝手さも、自分の弱さも受け容れてやれ。今はただ、前を向いて行くしかないんだ」
そんなことは、解っている。ーー解っていても、納得出来ないから、苦しいんじゃないか!
こんなことを言っても意味が無い。理解出来ない。醜い罵声が飛び出すまいと口元を押さえると、何の不具合なのか、眼窩から熱が込み上げる。
「葵が、言ったんだ」
みっともない。惨めだ。滑稽だ。
自分への叱責は幾らでも浮かぶのに、零れ落ちそうな熱を止める上手い言い訳は、何一つ出て来なかった。
仕方無いだろうと諦める口実すら見付からない。
「何処にもいなくなるなよ、って」
零すまいと両目に力を込め、此方を見詰める柔らかな双眸と対峙する。
其処には拒絶も叱責も無い。それが一番悔しいのだと、誰よりも知っている。
頑張れと言われると苦しいけれど、頑張らなくていいよと言われるのも辛い。
「いなくならないよって、一度も言えなかった」
彼が本当に欲しかったものを、分けてやれなかった。
孤独に震える闇の中で、彼の手を掴んでやれなかった。それが、今は悔しい。
たったの一言だった。それで何が変わったかなんて解らない。それでも、言えば良かった。
霖雨は不思議そうに小首を傾げていた。
「じゃあ、今、言え」
当たり前のことを告げるみたいに、霖雨が言う。
如何して、彼は、簡単にそんなことが言えるのだろう。如何して、息をするように惜しげも無く、当たり前みたいな顔をして言えるのだ。
目の前の霖雨が、真っ直ぐに見詰めていた。この場で嘘は吐けないぞ、と念を押すみたいに此方を見ている。
姿を消した透明人間の面影が重なって、和輝の目からは一粒の涙が零れた。
一人きりで異国の地に来て、右も左も解らないまま日々を忙殺されて、自分の居場所も存在価値も見失って、周りが敵しかいないような錯覚すら覚えてーー。
霖雨がこの家に導いてくれて、葵が受け容れてくれて、本当に嬉しかったのだ。此処にいて良いのだと、それで良いのだと言ってくれているような気がした。
此処にいたいよ。
「何処にもいなくならないよ」
絞り出すように、喘ぐように言った。声は掠れ、震えていた。
何時かの彼に届くように、祈るように、縋るように思いを込める。どうか、この声が届けと願う。それは夜空の流星に願いを込める様に似ていた。
あの部屋に置いて行かれた紙飛行機は、何処にも行けないままだ。
何処にも行かないんじゃない。ーー何処にも行けないのだ。
「約束だ」
俯きそうになる自分を繋ぎ止めるみたいに、霖雨が手を伸ばす。子どもの約束のように、指切りをした。
指切り拳万、嘘吐いたら針千本呑ます、指切った。
霖雨が、優しく歌う。和輝は、乱暴に頬を伝う雫を拭った。
帰宅すると、時刻は午後九時を過ぎていた。遅い夕飯はなるべく消化に良いものにする。
饂飩を茹でていると、リビングに置きっ放しにしていた携帯が耳障りな音を立てて机の上で震えていた。
火を止め、音の元へ向かう。
拾い上げてみると、アルバイト先からの電話だった。
何かあったのだろうか。
夜遅くに掛けて来ることなんて、今まで無かった。若干の不安を覚えつつ、応答する。
スピーカーの向こうから、穏やかな院長の声がした。
あの女性から、電話があったらしい。
苦情だろうかと身構えていると、院長は何処か嬉しそうな弾む声で言った。
『貴方の話していたイベントに、親子で参加したいって』
一瞬、何のことだっただろうかと考えてしまった。そうだ、自分は、スポーツイベントのスタッフをしていると適当な嘘を吐いたのだ。そんな予定は何処にも無い。
何と答えるべきかと逡巡していると、院長はまるで全てお見通しと言うように笑っていた。
『救ってみせなさい、Mr.Hero』
和輝は、笑った。
貴方なら出来ると、何の疑いも無く信頼している。
「Of course.」
通話を終え、和輝は電話帳を開く。
イベント関係者の友人がいる。こんな時こそ、持つべきものは友達だなと痛感する。
伸ばされた手は、離さない。例え振り払われたって、その手を伸ばすのなら、自分は何度でも掴んでみせる。
突然の企画を快く受け入れてくれた友人に感謝しながら、和輝は通話を終えた。同時に、風呂上がりの霖雨がリビングに現れた。
「何だか、嬉しそうな顔をしているね。良いことでもあったかい?」
「まあね」
失っても、失っても、希望はある。
だから、諦めてはいけない。
リビングには、行き場を無くした紙飛行機が宙吊りになっている。和輝は夜風に吹かれ旋回する様を見遣り、微笑んだ。
何処にも行けなくても良いさ。何処にもいなくならない。
星が旅人を導くように、自分も闇に迷う誰かの道標になろう。
調理途中の饂飩を茹でる為、和輝はキッチンへ戻った。霖雨が此方を見て首を捻っている。
和輝は何も言わず、コンロに火を灯した。