⑷氷山の一角
経過良好。
雛鳥の手当をした和輝が、晴れ晴れとした笑顔で言った。
聞き飽きた診察結果を横に、霖雨は肩を落とす。すっかり調子を戻した和輝は、いつものように明るく笑っている。
適当な相槌を打って、霖雨は家を出た。
今日は本当の再診日だった。
壁に打ち付けた足の指は、多少痛むけれど、日常生活に支障が無くなっていた。バイクにも変わりなく乗れるので、久しぶりに愛車へ跨って病院へ向かうことにした。
病院は相変わらず賑わっている。
賑わっている、という表現は、施設の目的上適切ではないのかも知れないが、とにかく、外見上は何の異常も無い患者で一杯だった。
待合室の固い椅子に掛けて、退屈凌ぎに持って来た文庫本を取り出す。栞が無いので、読み掛けの頁を探さなければならなかった。
ぱらぱらと捲っていると、丁度、霖雨に背中を向ける形で誰かが座った。何となく顔を上げてみれば、先日会ったあの親子だった。
今日も受診していたらしい。会計へと立ち上がる女性の背中を眺めていると、連れ添っていた少女が振り向いた。
「また会ったね」
「ああ。調子は、如何?」
碌に名前も知らないけれど、霖雨が問い掛けると少女は微笑んだ。
「今日は調子が良いの。お医者様も、もう大丈夫だって言っていたもの」
「そうか。それは、良かった」
大した縁がある訳でもないので、別れを惜しむ理由も無い。素直に快復を喜んでいると、母親が戻って来た。
「また、会いましたね」
「そうですね」
霖雨が苦笑すると、女性は周囲をくるりと見回した。
「今日は一人なんです」
「そうでしたか。では、お手数ですが、あの子に宜しくお伝え下さい」
礼儀正しく頭を下げ、女性が言った。
「では、また」
少女の手を引いて、女性は立ち去って行った。
取り残された霖雨は、喉の奥に小骨が痞えているような違和感に首を傾げた。
丁度、番号を呼び付けられたので、霖雨は歩き出した。それから、違和感のことは思い出さなかった。
霖雨が帰宅すると、和輝が出迎えてくれた。
新妻のように行動を伺い立てる和輝を軽く叩いてリビングへ向かう。
ソファへ腰掛けると、コーヒーを片手に和輝がやって来た。
「如何だった?」
「経過良好だ。テーピングで固定して、骨が修復するまで待つだけだよ。靭帯の損傷は殆ど完治している」
「そうか。良かった」
ほっと溜息を逃す和輝は、一体自分の何なのだろうと思う。
安心した様子でコーヒーを啜る和輝の横顔を見て、唐突に思い出して霖雨は言った。
「あの女の人に会ったよ」
「へえ」
「お前に、宜しくお伝え下さいって」
「何を?」
別れ際の挨拶に、意味なんてあって無いようなものだ。霖雨は答えを考え、彼女の残した言葉を思い出した。
「またね、って言っていたよ」
「またね?」
和輝は眉を寄せた。
「それ、変じゃないか?」
「何で?」
「また病院に来る予定があるみたいじゃないか」
言われてみると、奇妙ではある。だが、違和感という程のものでも無い気もした。
他意の無い別れ際の挨拶だ。霖雨はそう思うけれど、人の嘘が解るヒーローには何かが見えているのかも知れない。
どちらにせよ、彼女の真意を探る術は無かった。
「考え過ぎだよ」
気休めのような言葉に、和輝は納得したようでは無かった。何かを考え込む横顔を見遣り、霖雨は苦笑した。
物言わぬ星
⑷氷山の一角
新しいアルバイト先に出勤した和輝が、浮かない顔をして帰宅した。あからさまに落ち込みはしなかったけれど、何かがあったことは明白だった。
ぐるぐると悩んでいると碌な考えが浮かばない。また前みたいに落ち込む姿は見たくないので、早々に口を割らせることにする。
首根っこを引っ掴んでソファへ投げると、和輝はあっさりと白状した。
「あの女の人が、接骨院に来たんだ」
そう言った和輝の表情は浮かない。知り合いとまではいかなくとも、知っている人が病院を受診すると言えば心配にもなるだろう。
霖雨が曖昧に頷くと、和輝は目を伏せて言った。
「今度は、娘さんが捻挫したんだって」
「そうか。酷いのか?」
「大したことは無いみたいだよ。足首が少しだけ、腫れてるらしい」
転んだのだと、和輝は言った。
立て続けに病院へ向かうことになっているのだから、運が悪かったのだろう。霖雨がぼんやり考えていると、和輝は此方を窺うように目を上げた。
「良いお母さんなんだよ。娘さんをとても大切にしている。母子家庭だけど、弱音の一つも吐かないで懸命に生きている」
「立派じゃないか」
「だけど、嘘を吐いている」
深く考えたことは無かったけれど、このヒーローはどのようにして嘘を見抜くのだろう。
人の思考回路を予測しているのか、動作や表情の機微から見抜くのか。もしもそれが後者ならば、彼には人がどの時点で嘘を吐いているのか解る筈だ。
人の心が読める訳じゃない。だが、何処に嘘があるのか解る。
霖雨が話の先を促すと、和輝が言った。
「娘さんは自分で怪我をした訳じゃない。事故じゃなかった」
「じゃあ、誰かに危害を加えられたって? イジメでも?」
霖雨が問い掛けると、和輝は表情を歪めた。
「多分、やったのは、お母さんだ」
零された言葉の意味を理解した時、冷たい風が吹き抜けた。窓が開いている。秋の風は冷たい。変わり易い気候は、雨を連れて来るのかも知れない。
立ち上がって窓を閉ざすと、部屋の中は重い沈黙に支配された。纏わり付くような息苦しさを振り払い、霖雨は訊いた。
「虐待を疑っているのか?」
「解らないよ。ーーでも、本当に良いお母さんなんだ」
だから、解らない。
和輝は頭を抱えるようにして、俯いた。
何度か顔を合わせただけの他人だ。干渉する権利すら無い。何の事情も知らない。ーーけれど、根幹にある闇の片鱗を知ってしまった。
黙って見過ごせる程に、器用ではない。そういうところが、霖雨が和輝を生き難い人間だと評価する所以だ。
黙って通過することは出来る。だが、結果として救えなかった時、彼は独りで自分を責めるのだろう。葵が消えた時のように。
「会いに行くか」
霖雨が言うと、和輝は顔を上げた。まるで、信じられないものを見るような目をしている。
「気になるんだろ。何も無いなら、それで良い。でも、何かあったら、お前は行動を起こすだろう」
そして、他人の為にその身を危険に晒しても助けに行くのだろう。
落ち込んだ姿はもう見たくないし、失いたくもない。
「俺も気になる」
事実だ。霖雨にも、気に掛かることがある。
あの少女が言っていた。ーー自分は、母親がいなければ駄目なのだと。
幼い子どもにとって、保護者は必要不可欠だ。だが、それを口にするだろうか。まるで、誰かが言い聞かせたみたいな口調だった。
児童虐待なのだろうか。だが、母親は娘を度々受診させ、その身を案じている。後ろめたいことがあるのなら、隠そうとするだろう。わざわざ受診なんてしない。
母親は、娘が怪我や病気になる度に言い聞かせているのだ。貴方は、私がいなければ駄目なのだと。
全ては霖雨の想像だ。何の証拠も無い。だから、不用意に口にする訳にはいかない。
黙って考え込んでいると、和輝が明るく言った。
「駅で待ち伏せしよう」
カルテに記入した和輝ならば、彼女達の住所も知っているだろう。悪用の意図は無くとも、職権乱用では無いのか。
霖雨が咎めるように目を細めると、和輝は答えた。
「電車であの人のハンカチを拾ったことがある。利用する駅なら、解るよ」
世間とは、案外狭いものだ。
霖雨は都合良く進むフィクション世界に迷い込んだ心地になった。
嘗て葵は、デウス・エクス・マキナだと言った。彼は、和輝を指して機械仕掛けの神と称した。その理由が、霖雨には解る。
手早く支度を整えた和輝は、散歩に心を躍らせて尻尾を振る子犬みたいに急かしている。霖雨は苦笑いしながら、歩き出した。
件の駅で、あの親子を待ち伏せする。和輝が空腹を訴えるので、駅前の喫茶店で軽食を取ることにした。
洒落たパスタを勢い良く掻き込んで行く様は、肯定的に見れば気持ちの良い食べっぷりだ。だが、喫茶店ということを考えると行儀が悪い。それでも、人を魅了するヒーローを見る人々は微笑ましそうに眺めていた。
何時やって来るのか解らない親子を待ち、霖雨は机に頬杖を突きながら改札を見ていた。利用者は多くないが、時間帯によるのかも知れない。
そんなことを考えていると、改札の向こうから見知った人間が現れた。少なくとも、霖雨にとっては望まない邂逅だった。
浅黒い肌。長身痩躯。緑柱玉の瞳。
和輝の嘗ての同僚ーー早川翡翠。最早、それが本名なのかすら解らない。
翡翠は、硝子越しの此方に気付いたらしく、小さく手を振った。パスタに夢中の和輝は気付いていない。
このまま遣り過ごせないものかと逡巡する間に、翡翠は喫茶店へやって来た。
嫌だな、と素直に思う。
悪い人間ではないのかも知れない。だが、パスタに心を奪われている目の前のヒーローとは、多分、絶望的に相性が悪い。
入り口のベルの音に顔を上げた和輝は、翡翠の姿を見付けると張り詰めたみたいな笑顔を浮かべた。
「やあ、久しぶり」
和輝の言葉に、彼等が顔を合わせるのは久々なのだと知る。
翡翠はにこりと微笑むと、勝手に席に着いた。
「お出掛けかい?」
「うん。翡翠は?」
「お出掛けだよ」
霖雨には、この翡翠という人間が解らない。
善人なのか、悪人なのか。そして、その基準は独り善がりで、見る者によって簡単に覆される曖昧なものだと知らされているような気がする。
翡翠は当たり前みたいに、和輝の注文したカフェオレを飲んだ。
人のものを奪うことに、躊躇しない。和輝も咎めない。彼等は仲が良いのかも知れないが、霖雨は翡翠という人間を垣間見たように感じる。
「神木君はいないの?」
人の傷跡を、平気で抉って来る。
霖雨はお前に関係無いだろうと言い返そうとした。だが、和輝はいつものような明るい笑顔で答えた。
「まあね」
何でも無いことみたいに、和輝が笑う。
内心を悟られることの無いように、予防線が張られているのが霖雨には解る。
パスタを食べながら、和輝は水滴の張り付いたグラスを呷った。透明なミネラルウォーターが、勢い良くその喉の奥へ落ちて行った。
「また、サーフィンに行こうぜ」
「良いよ。シーズンは終わったから、また今度」
「シーズンなんて、関係無いだろ。身体を動かしていれば、温かくなるさ」
「海月に刺される趣味は無いんだ」
「海月は嫌いでも、お前は被虐趣味じゃん」
断言した翡翠は、猫のように目を細めて笑っている。
和輝の浮かべた笑みが、瞬き程の一瞬、引き攣った。すぐに繕われたそれに、霖雨は間に入るべきか戸惑った。だが、和輝はすぐに切り返した。
「被虐趣味は無いよ」
「そう? ーー今だって、何の関係も無いのに、他人事に介入しようとしているじゃないか」
この男は、何かを知っている。霖雨は足元から正体不明の寒気が立昇るのを感じた。
自分達が此処に行くことを決めたのは、ついさっきのことだ。それまでは、話題にも出したことは無い。
何故だ。何処でそれを。
霖雨が黙っていると、和輝は不思議そうに小首を傾げた。
「何の話?」
その問い掛けに、翡翠の口角が吊り上がった。愉悦に歪む表情に、これは誘導尋問であったことを悟る。
翡翠が言った。
「お前の行動は解り易い。頭が固くて融通が利かない。思考回路に遊びが無い。回り道はしても、寄り道はしない」
翡翠は、観察結果を述べるようにつらつらと口を開く。和輝は、それを黙って聞いていた。
「お前の行動原理は他者からの肯定だ。人の評価が無ければ、自分の行動一つ選べない。自己肯定感が希薄で、独善的で、他者への共感能力が著しく低い。その結果が、度を過ぎた自己犠牲だ」
その通りだ。霖雨は、歯噛みする。
「お前は常人に比べて精神が強い。だが、自分が強烈にマイノリティであることは、自覚した方が良い」
お前は人と違う。そう指摘して、翡翠は笑った。
この男が、解らない。
和輝のように純真でありながら、葵のように捻くれていて、霖雨のような諦念を抱いている。誰かに似ているのに、誰にも似ていない。
和輝が言った。
「そういう一面もあるかもね。でも、ある一面だけで、その人間性まで判断出来ると思っているなら、それは傲慢だ」
表情を消し去った和輝は、真っ直ぐに翡翠を見据えた。
「目に見えるものは少ない。人の目に見えているのは、視界の中心にあるせいぜい700万画素程度だ。周辺は見えていても、知覚出来ない」
和輝が、叫ぶように口を開いた。
まるで、表面張力のグラスから、一粒の水が溢れるようだった。
「お前が、ーー俺を語るなよ」
静かな激昂だった。
透き通るような双眸に苛立ちが滲む。だが、その言葉が感情のままに吐き出されたものではないと霖雨には解る。
俺を、ではない。
葵を、だ。
理性が、感情をコントロールしたのだ。
制御し、感情を嘘で隠した。
翡翠は可笑しそうに口元を歪めている。彼は、和輝を実験動物と見做しているのだ。感情の機微すら、観察の対象としている。
「気に障ったなら、悪かった」
ごめんごめんと、欠片も悪いとは思っていないみたいに軽薄な謝罪を口にする。
「面白そうな匂いがしたから、良かったら混ぜて欲しかったんだよ。お前、何も言わないでバイト辞めちゃったし」
「関係無いだろ」
「寂しいじゃん」
いじけたみたいにそっぽを向く和輝は、傍目にも解る程に苛立っている。こういう仕草が子どもらしくて、微笑ましくて霖雨は好きだ。純真な彼の人間性は、こういうところにこそ透けていると思う。
だが、流石に分が悪い。
霖雨はなるべく平静を装って立ち上がった。
「そろそろ行こうか」
「……霖雨、」
「せっかくのお出掛けなのに、日が暮れたら勿体無いだろ?」
行こうと促すと、和輝は渋々立ち上がった。
和輝は負けず嫌いだ。負けると解っていても、逃げられない。だから、追い込まれて逃げ場を失ってしまう。
これは戦略的撤退だ。
霖雨が手を引いて歩く後ろから、翡翠も付いて来た。会計をしている間も何か小競り合いをしていたけれど、放って置いた。