⑶願いの結晶
紙のような酷い顔色の和輝を引っ張って、予定にも無いのに受診している。予約をしていなかったとは言え、病院の待合室で長いこと待たされることになった。
平日の昼間だというのに、病院は中々に繁盛しているらしい。医療は日々進歩している筈なのに、患者の数は一向に減少しない。
皆、暇なのだろうか。霖雨は退屈を持て余している。
座り心地の悪い長椅子に座り、ぼんやりと壁を見ていた。隣には、和輝がちょこんと可愛らしく腰掛けて本を読んでいる。
昨夜の和輝は、明らかに沈み込んでいた。傍目に見ても解るけれど、結局、彼はそれを口にはしなかった。
自己評価が極端に低い人間だ。弱音の一つを零すことすら躊躇する弱い人間なのだろうと思う。
語り継がれる勇者は、魔王を前にしても勇敢に戦った。弱音も泣き言も零さない。だけど、本当は、それを口に出来なかったのではないかと思う。民衆の期待という強迫観念から、自分の姿すら見えなくなって、逃げ場も無くて、相打ちすら望まれる。
英雄になんて、ならなくていい。霖雨は、そう思う。
中々呼ばれないものだから、霖雨は隣の和輝へ目を向ける。今日も相変わらず、カモメのジョナサンを読んでいた。ヒーローの愛読書だ。
章を読み終えたらしい和輝は、手作りの栞を挟んで顔を上げた。四つ葉のクローバーが押し花にされている。意外と少女趣味だな、と思いながら凝視していたらしく、視線に気付いた和輝が苦笑いを浮かべた。
「幼馴染が作ってくれたんだ」
「前に来た白崎君?」
「もう一人、女の幼馴染がいるんだ」
猫目の青年を思い浮かべていた霖雨は、その言葉に納得した。白崎匠が、押し花を作る姿は想像出来ない。
和輝の人間関係は濃い。肉親が双子の兄だけで、友人とも疎遠になって来ている霖雨にとっては、彼がハーレム世界の主人公のように思えた。
栞を取り出した和輝が、それを見せながら笑った。
「俺のせいで匠が怪我をしたことがあったんだ。それで、早く良くなって欲しくて、毎日四つ葉のクローバーを探したんだ」
「怪我、良くなったの?」
「うん。バイクに轢かれて骨折したんだけど、ちゃんと元通り治った」
「そっか。良かったね」
和輝は、擽ったそうに笑った。
自分のせいで、幼馴染が怪我をした。彼等の関係性を考えると、白崎匠が庇った結果、怪我をしたのかも知れない。
「最初は、三人で四つ葉のクローバーを探していたんだ」
何処か遠くを見ながら、和輝が言った。
「俺は昔からチビだったから、中々レギュラーになれなかった。それで、幼馴染の女が、四つ葉のクローバーを探そうって言ったんだ」
「他力本願だな」
「うん。ーーでも、俺は嬉しかったんだ。俺のことなのに、自分のことみたいに怒って、悔しがって、藁にも縋るみたいに願ってくれたことが、嬉しかった」
そっと目を伏せた和輝が、ゆっくりと瞬きをする。大切な宝物を取り出すみたいに、慈しむように過去を語る。
「匠は、あんまり乗り気じゃなかった。そんなことに時間を使うくらいなら、自主練しようって言った」
「まあ、ご尤もだな」
「俺、匠が言い出す前から、自主練してたんだ。それでも、レギュラーになれなかったんだよ」
霖雨は、独り言みたいに言う和輝の横顔を見た。苦い後悔が、滲んでいる。
レギュラーになれなかった和輝は、自主練をしていた。だが、それを誰にも言わなかった。何も知らない幼馴染は、四つ葉のクローバーに縋るくらいなら、自主練をしようと言った。
残酷だな、と霖雨は思った。
その時の白崎匠の言葉は正論だ。だが、結果として、既に努力を重ねている和輝に、もっと努力をしろと言ったのだ。
その時の和輝の気持ちを、考える。
レギュラーになりたいのになれなくて、必死に努力を重ねていたのに、唯一にして最大の理解者から、努力が足りないと悪意無く言われたのだ。
白崎匠に非は無い。黙っていた和輝が悪い。だから、きっと和輝は、それを責めたり、怒ったりはしなかっただろう。
「四つ葉のクローバーを探そうって言った女の幼馴染と、自主練しようって言った匠の間で、選べなかったんだ。だって、どっちも俺の為だった」
和輝は意外と優柔不断だ。
その光景が目に浮かぶようで、霖雨は苦笑した。
「匠が俺の手を引いた。俺は応えられなかった。そうしたら、匠が怒って、走り出して、ーー事故に遭った」
「そうか」
お前のせいじゃないと庇おうとしたけれど、和輝のせいだった。優柔不断な和輝が招いた不幸だ。
「それから、俺は毎日、四つ葉のクローバーを探したんだ」
匠の怪我が、治りますように。
幼い彼等の姿が瞼の裏に浮かんで、霖雨は微笑ましく思った。
「匠がいじけちゃって、俺と距離を置くようになって、話し掛けても無視するようになった」
「まあ、その気持ちも解るけどな」
白崎匠は、和輝の優柔不断のせいで怪我をしたのだ。当時の彼等が何歳頃だったのかは知らないが、まだ、子どもだった筈だ。
「俺は、匠に付き纏った」
「そっとして置いてやれよ」
「うん。友達にも、そう言われた。でも、離れたくなかったんだ」
目を伏せた和輝が、嘆くように言った。
「俺には、匠しかいなかったから」
その言葉に、霖雨は胸が軋むように痛んだ。
当時の和輝には、白崎匠しかいなかった。今でも唯一にして最大の理解者である幼馴染だ。依存も執着もあるだろう。離れていく親友を繋ぎ止めたくて、幼い和輝は必死だった。
距離を置かれて、話し掛けても無視されて、それでも縋り付いた。毎日、四つ葉のクローバーを探した。
幸福になれると言う四つ葉のクローバーに、親友の怪我が治るようにと願いを込めた。
白崎匠の怪我が完治したということが、不幸中の幸いだ。
霖雨は、白崎匠の立場が解る。
和輝の為を思って自主練を提案しているのに、彼は応えてくれなかった。そして、事故に遭った。
自分は怪我をしたのに、和輝はぴんぴんしているのだ。距離を置く気持ちも、無視したくなる気持ちも解る。ーーだって、知らなかったのだ。
和輝が自分に隠れて努力していたことも、四つ葉のクローバーに縋っていたのでは無く幼馴染の気持ちを汲んでいたことも、知らなかったのだ。彼は巧みに嘘を吐く。見破ることなんて、出来なかっただろう。
霖雨の胸中を察したのか、既に過去と折り合いを付けていたのか、和輝は苦い笑みを浮かべて言った。
「やっと四つ葉のクローバーを見付けて、遠足の日に、匠のリュックにこっそり入れたんだ」
匠の怪我が、治りますように。
それを知った時の白崎匠は、やり切れなかっただろう。
「四つ葉のクローバーを見付けた匠が俺のところに怒って来て、結局二人で大泣きして、仲直りした」
「良かったね」
「うん。ーー諦めなくて、良かった」
そのまま距離を置いていたら、今の二人は無かったのだろう。和輝が諦めていたら、白崎匠が四つ葉のクローバーを捨ててしまっていたら、今の二人はあり得なかった。
けれど、そういう二人ではなかったから、今の彼等がいるのだろう。
本当に、良い関係なのだろう。
彼等は、同い年だからとか、家が近いからとか、そんな理由で今も繋がっている訳では無いのだ。蜂谷和輝と白崎匠だったから、親友なのだ。
自分には無い強固な絆は、二人が積み上げて来た時間なのだろう。その関係性を羨ましいと、苦しく思う。
彼等が恵まれていただけなのだろうか。自分にも、そんな関係性を築き上げる余地があったのだろうか。
大事にしろよ、なんて偉そうなことを言おうとして、止めた。彼等はこれ以外無いくらい、大切にしている。
「俺が留学することを決めた時に、匠が預けてくれた。だから、このクローバーは、俺にとっては大切な宝物」
クローバーは、所謂、雑草だ。四つ葉のクローバーの希少性から人は験担ぎみたいに大切にしている。
和輝にとっては、これは願いの結晶なのだ。雑草でも塵でも構わない。親友と交わした約束の証、大切な宝物。
掌に収まる程の小さな栞が、彼の根底にある。それでいいのだと等身大の人を受け容れる懐深さを物語っている。
白崎匠は、どんな気持ちでこの栞を親友へ預けたのだろう。
祈ったのだろうか。嘗て、和輝が願ったように、独りきりで異国の地へ旅立つ親友を支えてくれるように、と。
ならば、その願いは届いている。
和輝は座学が壊滅的だと言う。それでも、暇さえあれば懸命に読書している。尊敬する先輩から贈られた本を読み、親友から託された栞を使っている。その意味を知って、霖雨は今すぐにでも白崎匠に教えてやりたいと思った。あなた達の願いが、このヒーローを支えている。希望を繋いでいる。
ああ、だから。
だから、人を救いたいのか。
霖雨は、唐突に理解した。
孤独や嘆きを知っている。そして、救われた経験がある。だから、それを人に返したいと願うのだ。
だから、葵を救いたいのか。
「人を救えよ」
霖雨の口からは、意図せず声が溢れた。
弾かれたように顔を上げた和輝が、ぽかんと口を開けた間抜けな顔をしていた。隙だらけの顔は何処か幼い。霖雨は、くすりと笑った。
「お前なら、出来るよ」
これは、勝手な期待だろうか。
それでも、挫けそうな彼を支える為に、霖雨は何度でも口にする。
「それでいいよ」
俺は、それが良い。
泣きたくて、投げ出したくて、前すら見えない暗闇の中で足掻くヒーローだからこそ、人を救えるのだ。人の痛みを知っている彼にこそ、人は救われる。
葵が如何して消えたのかなんて知らない。何か事情があったのだろう。だが、彼が何時か見付かった暁には、このヒーローに代わってその横顔を殴ってやろうと誓った。
間抜けな顔をしていた和輝が、にこりと微笑んだ。周囲の喧騒すら打ち消す美しい微笑みだった。
「救ってみせる」
丁度その時、番号が呼ばれた。霖雨は腰を浮かせ、小さな寝癖頭を掻き混ぜてやった。
子ども扱いするなと撥ね付ける和輝に苦笑いし、霖雨は診察室へ向かった。
物言わぬ星
⑶願いの結晶
担当医は顔を突き合わせると、また来たのかとうんざりした顔をした。
当然ながら経過に変わりは無いので、霖雨も受け答えに困窮してしまった。
気まずい沈黙を終えた霖雨が診察室を出ると、この元凶である筈の和輝が待合室で談笑していた。
その相手が綺麗な女性だったので、霖雨は小さな後頭部を叩いてやりたい衝動に駆られた。足音を立てて歩み寄ると、気にした風もなく和輝が笑顔で振り向いた。
「おかえり」
毒気を抜かれるような呑気な笑顔だった。
霖雨が肩を落とす横で、和輝は話し相手に軽く手を振った。女性は、にこやかに立ち去ってしまった。
「如何だった?」
如何だったも何も、経過は良好なのだ。話題に困窮する程だった。
和輝は立ち上がった。
「今日は、オムライスにしよう。卵を買って帰ろう?」
溜息を一つ逃して頷く。
無駄になった再診料を払い、霖雨は病院を後にした。
鼻歌を歌いながら歩く和輝は、昨夜とは打って変わって機嫌が良い。自己評価は極端に低いけれど、立ち直りが早い。
しおらしい和輝も嫌いではないが、やはり、彼には笑っていて欲しい。
踊り出しそうな背中を見ながら、霖雨は問い掛けた。
「知り合いだったの?」
「さっき、知り合った」
相変わらずのコミュニケーション能力だ。
霖雨が閉口すると、和輝は言った。
「娘さんの受診だったんだって。昔から病気がちなんだそうだ」
彼女の娘の話題で盛り上がっていたらしい。
和輝は眉を寄せて、少しだけ悲しそうな顔をした。
「しょっちゅう病院に行ってるらしいよ」
「心配だね」
「うん」
頷いて、和輝は背中を向けた。
沈黙が流れた。和輝が何かを言おうとしていると解る沈黙だ。
ぽつりと、和輝が言った。
「嘘を吐いていた」
確信を持って、和輝が言った。
「嘘?」
「うん。俺には、人の嘘が解る。ーーでも、その人の心が見える訳じゃない」
果たして、その嘘とは?
霖雨が黙っていると、和輝は振り返って微笑んだ。空気を変える為に見せる意図的な明るい笑顔だ。
和輝が、言った。
「人は誰かに必要とされなければ生きていけない」
核心を突くような強い言葉だった。
だが、意味が解らない。霖雨は話の先を促すつもりで沈黙していた。けれど、和輝は何も言わなかった。