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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
物言わぬ星
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⑵許可

 何処にもいなくなるなよ、と彼が言った。


 あの日の彼に、言えなかった答えが今も胸の中に残っている。









 物言わぬ星

 ⑵許可







 喫茶店を辞め、自宅から離れた接骨院でアルバイトを始めた。喫茶店の店主は何かを悟ったようだったが、和輝がそれを申し出ても何も追及しなかった。


 個人経営の接骨院は小さく、地元の高齢者を主な患者として賑わっている。院長は年老いた穏やかな女性で、還暦を迎えているらしいが、見た目には解らない程に活力に溢れていた。


 知人の紹介で、アルバイトを目的としてこの接骨院を訪れた時も、彼女は毅然としていた。欧州の大学に通っていると言うと、その理由を問うた。


 大学病院を辞めた和輝には、この国に滞在する理由が無かった。大学のある欧州に戻って普通に通学することが、目的地に到達する一番の近道だと言った。


 そんなことは、他人に言われなくとも解っている。


 けれど、自分は近道がしたい訳ではない。敢えて獣道を選んでいることも自覚している。ただ、譲れないものがあるだけだ。


 心残りがあるまま、前に進むことは難しい。過去が未来に復讐するのならば、現時点で出来ることはやり切ってしまいたい。


 和輝は質問には答えなかった。それを理由に不採用となっても構わなかった。彼女は意味ありげに蒼い目を細めると、肯定するようにそっと頷いた。


 今思うと、彼女の蒼い目には、看破されていたのかも知れない。


 自分の詳細は告げずにいた和輝は、何となく腹の据わりの悪いままに就業している。


 雑用が主な業務内容だが、受付で患者に応対することもある。医師免許の無い自分が好い加減な診断をする訳にもいかないので、基本的にはその都度指示を仰ぎ、院長へ連絡する。


 待合室は、今日も患者が犇いている。

 高齢者が多いので、足腰にガタが来ているのだろう。稀に訪れる若人は早々に快復し、接骨院は御役御免となる。


 余りにも同じ患者ばかりがやって来るので、何か別の疾病が潜んでいるのではないかと疑いたくなる。けれど、患者の多くは不調を理由に、院長と話をしに来ているのだと気付いた。


 直接的な治療が全てではない。こういった病院の存在の仕方もあるのだ。


 地域に根差した病院の在り方を見ているようで、感動すら覚えた。大勢の患者を抱えて治療に奔走する大学病院での勤務を経験した後だったので、この接骨院の日々は新鮮だった。


 穏やかな日々を送っている中で、霖雨が足の小指を負傷して帰って来たので驚いた。理由を聞いて、心配になった。足元に気付かず骨折する程に、追い込まれていたのだろうか。


 霖雨は就活生だ。卒業を前に進路で迷っているらしい。自分は選択肢が多くないので迷う理由も無いが、奨学金で留学するような優等生の霖雨ならば大変だろう。


 患部が足だったので、なるべく近場で評判の良い病院へ連れて行った。小指の靭帯は断裂し、第五基節骨に罅が入っていた。どんな速度で歩いていたのだろう。


 経過は良好なので、一先ずは安心だ。


 問題なのは、霖雨ではない。

 目の前から突然消えた透明人間のことばかりが、思考を埋め尽くす。


 神木葵は、消えてしまった。

 立ち去ったのではない。まるで、この世から消えてしまったかのように、其処には何も存在しなかったかのように、いなくなってしまった。


 予兆は無かったように思う。見落としていただけなのだろうか。


 持てる伝を総動員して情報を集めても、何の手掛かりも無い。探せば探す程に、神木葵という人間が存在した証拠は見つからず、打ちのめされる。


 ただ、リビングにぶら下げられた紙飛行機だけが、消耗し擦り切れてしまいそうな神経を繋ぎ止めている。


 逆境に燃えるのは、性分だ。

 簡単に諦められるのなら、始めから追い掛けはしない。彼が手を伸ばした瞬間から、切り捨てるなんて選択肢は存在すらしていない。


 神様が彼を救わないというのなら、自分が救ってみせる。


 勤務を終え、和輝は帰路に着く。住居から離れているので、電車に乗らなければならない。


 午後八時を回った駅は、会社帰りのサラリーマンで賑わっていた。鮨詰の車内へ身を滑り込ませ、発車したところで小さく息を逃す。

 ジャケットを羽織る人が増えて来た。季節は秋へと移り変わっていた。


 最寄駅の一つ手前というところで、どっと乗員が降りて行った。

 空いた車内でほっと胸を撫で下ろした時、足元にレースのハンカチが落ちていることに気付いた。

 何気無く拾い上げると、落として間も無いらしく、まだ温もりが残っていた。落とした人間も、ハンカチの一枚くらいならば諦めてしまうかも知れない。けれど、端には持ち主らしき名前が美しく刺繍されていた。


 家畜には、名前を付けないと聞いたことがある。名前を付けることによって情が移り、殺せなくなってしまうからだ。そんな暗い話を思い出し、気分はどんよりと曇ってしまった。


 拾ったものの、どうしたらいいのか解らず、結局は降車して駅員へ届けることにした。

 気の良い駅員は快く受け取ってくれたけれど、余計な仕事を増やしてしまっただろうかと胸が痛かった。


 最寄駅の手前で降りてしまったので、いまさら乗車するのも億劫になって歩いて帰宅することにした。空いた席に座ってしまえば、そのまま寝過ごしてしまうような気がした。


 駅を出ると、冷たい夜風が吹き付けていた。

 もうすぐ、冬が来る。衣替えをしなければ、と大して衣類がある訳でもないクローゼットの中を思い浮かべた。


 街は静かだった。街灯と、家々から漏れる光が街路を照らしている。

 乾いたアスファルトを踏み付け、和輝は歩き出す。空には、居心地悪そうに僅かな星がぽつぽつと浮かんでいた。


 何処にもいなくなるなよ。

 葵が、言っていた。

 何処にもいなくならないよ。

 和輝は、答えられなかった。


 葵は何時も、何かを予期していたのだろう。和輝が答えられない時にばかり、その内心を見透かすように言った。


 あの日、それを答えていれば、何かが変わったのだろうか。和輝には、解らない。


 喫茶店を辞めた後も、翡翠とは連絡を取り合っている。葵は彼を警戒しているようだったが、二人に接点は何も無い。けれど、何か手掛かりがあるとするのなら、其処にしか有り得なかった。


 危険と承知で付き合いを続けている。打算のある人間関係を構築するのは主義に反するけれど、断つ訳にもいかなかった。


 翡翠は今もあの喫茶店でアルバイトを続けている。後ろ暗いことなど何も無いように、葵のことなど一言も口にすることなく、生活をしている。


 人を信じたいと思う。霖雨のことも、葵のことも、翡翠のことも信じたいのだ。その優柔不断さが現在の結果を招いた。自分の甘さの為に、彼等が泥を被ったのだ。


 息苦しくなって、逃げ出したくなる。人を救いたいと願いながら、この手は人の命を奪っている。

 こんな自分に何が出来るだろう。


 人通りの少ない道を辿り、到着した先、自宅からは明かりが漏れていた。既に霖雨は帰宅しているらしい。


 玄関の扉を開けると、センサーが作動して天井灯が点る。帰宅を察した霖雨がすぐさま出迎えて、おかえり、と微笑んだ。


 ただいま。

 和輝は答えた。


 リビングからは魚の焼ける匂いがした。帰宅の遅い自分に代わって、霖雨が夕食を用意してくれたらしい。


 筑前煮が小鉢に収められ、全体的に茶色っぽい食卓となっている。霖雨が大根の味噌汁を運んで来たので、和輝は手洗いと嗽を済ませて席に着いた。


 いただきます。

 揃って手を合わせ、食事を開始する。

 葵がいた頃は雑音を求めてテレビの電源を入れていることが多かった。今は二人きりだというのに、テレビは沈黙したままだ。


 霖雨が言った。




「食べ終わったら、時間あるかい?」




 蓮根を飲み下し、和輝は頷いた。

 霖雨が嬉しそうに笑うので、和輝は毒気抜かれた心地になる。柔らかな微笑みが、強張っていた肩の力を抜いていくようだった。


 夕食を早々に終え、霖雨は準備をすると言って部屋に戻った。


 残された和輝は食後のコーヒーを淹れ、その時を待つことにする。


 僅かな時間にすら脳裏には透明人間の存在が掠める。自分に何が出来るのだろう。何をすれば良いのだろう。


 どちらが前かも解らない闇の中で、この状況を打破する一筋の光を探す。


 マグカップに満たされた闇の色を見詰めていると、思考がどんどん転がり落ちていく。これでは駄目だと解っていても、どうしたら良いのか解らない。


 その時、霖雨が呼んだ。




「来てくれ」




 其処で思考はぷつりと途切れた。顔を上げると、カウンターの向こうに霖雨がいた。和輝はマグカップを両手に持ち、リビングのテーブルへ運んだ。


 席には着かず、促されるまま霖雨の部屋へ向かう。


 電灯が照らす霖雨の部屋は雑然としていた。机の上にはデクストップのPCがスリープ状態になり、側には就活情報誌が広げられていた。




「ほら、これ」




 霖雨は、ベッドの脇を指差した。

 ボロ布が蟠り、汚らしく毛羽立っている。端から見れば塵の塊だ。


 足音を立てぬように近付く霖雨の後ろから、そっと覗き込む。布が微かに動いた。

 蓋の役割を果たしていた布が外れ、姿が晒される。


 薄いグレーの羽毛に、茶色の斑点が散っている。毛羽立つ頭頂部の羽毛の下、円らな漆黒の瞳が微睡んでいた。小さな嘴は黒色を帯び、鋭く尖っている。


 雛鳥だ。ーー名称など、知る筈も無い。




「何処かで拾ったの?」

「うん。大学院の裏庭の木の下に、落ちていたんだ」




 雛鳥は、霖雨を見付けると餌を強請るように細やかに声を上げた。

 心底困ったように、霖雨は眉を下げる。




「裏庭でぼんやりしていたら、木の上から落ちて来たんだ。何だろうと思って見てみたら、雛鳥だった」

「親鳥は?」

「近くで、死んでいた。天敵にでも襲われたのかも知れない。他の雛鳥も、血を流して死んでいた」




 保護してくれる親も無く、兄弟は死に絶え、帰るべき家も失っている。己の身を守る術も持たず、餌を獲得することも出来ない。


 醜く、脆弱な小鳥だ。やがて死に絶えるだろう。自然界の掟は常に厳しい弱肉強食だ。この鳥も自然の摂理に従って死ぬのだろう。ーー霖雨が、その手を差し伸べなければ。


 救ってみろよ、と翡翠が言った。

 和輝は、救えなかった。


 人間と小鳥を同等と捉えるのは賛否両論かも知れない。けれど、和輝は、酷く悔しく思った。


 霖雨には、救えるのだろう。

 まるで、当たり前みたいに手を伸ばして、その命を守る術ことが出来るのだ。


 両手が、微かに震えた。掌に収まる程の小さな雛鳥が、此方を見上げている。

 自分にとって害を成すものなのか否か、見極めようとしているのだ。そんなことを、思った。


 和輝は黙って踵を返し、キッチンへ入った。冷蔵庫を開け、中から魚肉ソーセージを取り出す。

 よく冷えたそれを小さく千切って、霖雨へ手渡した。


 霖雨が雛鳥の口元へ運ぶと、警戒すらせずに、そうすることが正しいと解っているみたいに雛鳥は口を開けた。小さな嘴が忙しなく動き、魚肉ソーセージを突く。見る見る小さくなる餌が、まるで驕り高ぶる自分のようで、酷く虚しい。


 黙って見ていると、振り返らないまま、霖雨が言った。




「この鳥は、空を飛べないかも知れないね」




 何かを捨てるような残酷さを滲ませて、霖雨は言った。




「雛鳥は、親鳥の姿を見て飛行を覚えるらしい。でも、この鳥には、飛行を教えてくれる親鳥はいない」




 孤独だ。

 この小鳥は、孤独なのだ。


 霖雨が手を差し伸べて、その生命は繋がった。けれど、生きて行く術は無い。

 この小鳥は、本当に救われたのか?


 捨て猫に、その場凌ぎのエサをやったとして、明日は如何する。後進国に食品の援助をしたところで、何時かは途切れる。


 その生命が終わる時まで、面倒が見られるか?

 本当に必要なのは、食品ではなく、井戸を掘る技術を伝えることなのだ。それはただ資金援助をすることとは訳が違う。


 人を救いたいと思う。自分は、その人の弱さも醜さも受け容れてやれるか。自分の感情を押し付けず、それで良いよと笑えるか。


 和輝には、解らない。

 自分のエゴで手を伸ばして、結果、苦しめただけなのではないか。本当は独り善がりで、誰一人救う力なんて無いのだ。自分の無力さを誰よりも知っているから、それを否定する為の口実を探している。


 なんて、薄汚い。




「……追い込まれているね」




 何時の間にか思考は螺旋階段を下っていたらしい。霖雨が此方をじっと見詰めていた。

 和輝は苦笑した。嘘には自信があったけれど、看破されている。

 霖雨は労わるように優しい眼差しを向けていた。和輝は、大きく深呼吸をした。


 弱さを見せることは苦しい。自分の弱さを認められないからだ。

 けれど、霖雨はきっと、それで良いと言ってくれる。




「明日、病院に行く?」

「明日は別にーー、いや、行こうかな」




 何かを察したように、霖雨が言った。

 熟、心の底を見抜かれている。




「一緒にいて、いいかな」




 誰かと一緒にいることにすら、口実を探している。自分の弱さに泣きたくなる。


 助けてくれ。

 泣きたくて、逃げ出したくて、このまま消えて無くなりたい。

 誰か、助けて。

 呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだ。罪悪感で胸が押し潰されそうだった。


 人は誰かに認められなければ生きていけない。この場所にいたい。生きていてもいいよと言って欲しい。


 和輝は、母親の命と引き換えに産まれた子どもだ。自分がいなければ、家族は今も幸せだったのだろう。

 自分が殺した。母親を奪った。ーー自分に、そんな価値も権利も無い。

 誰にでも認められるような立派な人になりたい。そうでなければ、母は何の為に死んだのだろう。


 思考がぐるぐると下降していく。このまま闇の中に沈み込んでしまいそうだ。


 霖雨が、笑った。




「いいよ。一緒に来てくれ」




 俺も心強いから。

 霖雨がそんなことを言った。


 和輝は、ほっと息を一つ逃して、少しだけ笑った。

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