⑴不運
The mind is like an iceberg, it floats with one-seventh of its bulk above water.
(心とは氷山のようなもので、その大きさの7分の1を海面の上に出して漂う)
Sigmund Freud
足の小指をぶつけて、痛めてしまったらしい。
自身の体すら意識下に無いのかと不甲斐ないが、負傷してしまったものは仕方無い。事故現場が大学院の構内だったので、霖雨は片足を庇いながら帰宅した。
歩いている内に、身体の重心が傾いていたらしく、お蔭で片足だけ筋肉痛になった。馬鹿みたいだ。
何時の間にか譲渡された住居では、新妻のように和輝が晩御飯を用意していた。洒落たカフェで出て来るようなパスタとサラダがテーブルに並べられている。高過ぎる女子力に感心するべきなのか、辟易するべきなのか霖雨は判断に迷う。
フライパンを水洗いしていた和輝が、帰宅した霖雨を見て怪訝そうに眉を寄せた。
「怪我?」
濡れた手を拭きながら、和輝がキッチンから出た。
見せてみろ、と言われて、霖雨は渋々とソファへ掛けた。靴下を脱いだ素足に躊躇いなく触れた和輝は、欧州の医大へ通う留学生らしく、真剣な眼差しだった。
患部を診察した和輝が、困ったように眉を下げた。
「靭帯を痛めているかも知れないよ」
靭帯と聞くと、何故か自分が大怪我をしてしまったかのように萎縮してしまう。そもそも、靭帯というものが何なのかよく解らない。
骨にも影響があるかも知れないと、触診だけで判断した和輝は、自室に戻ってテーピングテープを持って来た。
手際良く足の小指を保護する様を見届け、霖雨は固定された足を見下ろした。
ちょっとした失敗のつもりだったが、何だか大事になってしまった。
和輝は専門機関でレントゲンを撮るように勧めたが、霖雨は遠慮しておいた。靴の上から小指をぶつけて、骨にまで影響があるとは思えない。
だが、歩く度に鈍痛に襲われるので、日常生活に多少の支障を来していた。
和輝の言う通りにするのも癪な気がしたので、霖雨は受診を躊躇った。ーー此処に葵がいたなら、嫌味の一つでも掛けられたかも知れない。
そのまま二日程、放置していた。
片足を引き摺りながら帰宅すると、玄関で和輝が仁王立ちして待っていた。
一向に受診しない霖雨を見兼ねたらしく、和輝は病院へ引っ張って行った。
公共機関を利用して、近隣の整形外科を受診した。促されるままレントゲンを撮り、医師の診察を受ける。
同席した和輝が医師へ気さくに話し掛けていたので、知り合いなのかと思ったが、初対面とのことだった。相変わらず、コミュニケーション能力はカンストしている。
診察結果は、靭帯断裂と骨折だった。
和輝の予言通りになってしまった。よくよく見れば患部は青紫に変色し、腫れている。
湿布とテーピングを処方され、霖雨は溜息を零した。
診断も処置も和輝の言う通りだった。まさに、神様ならぬ和輝様の言う通り、だ。
和輝に連れられて、霖雨は片足を引き摺りながら待合室の固い椅子に掛けていた。
番号を呼ばれた和輝が会計の為に立ち上がる。固辞する間も無く行ってしまったので、霖雨は諦めて大人しく座っていた。
雑踏に紛れる小さな背中を眺めていた。
表面上は、何ら変わりない。けれど、何処か塞ぎ込んでいるようで、空元気のようで、気に掛かる。
和輝が労わるように、自分も彼を気遣うべきなのだろう。ーー葵が消えて、最も苦しんでいるのは、彼だ。
会計を終えた和輝は、穏やかな顔をして戻って来た。医師を志す彼が、患者を前にその内面の不安を曝け出す筈も無い。
未だに消息の掴めない葵を思い浮かべ、霖雨はやり切れない気持ちになる。
どんな事情があったのかは解らない。だが、何も打ち明けず、全ての痕跡を消し去っていなくなれば、自分達がどんな気持ちになるのかくらい、解るだろう。
葵は渡米を決めた時も、周囲には一切の事情を打ち明けなかった。結果、友人は葵を追って渡米し、飛行機事故で命を落とした。同様の結果が予測出来なかったのか、或いはそれを避けたのか。
不眠不休で探し回らないだけ、マシなのだ。和輝は一応、変わりない日常を送っている。
会計を終えた和輝が戻って来るのが見えた。霖雨は軽く手を上げて応えた。
和輝は途中、立ち止まった。待合室に居合わせた老人が声を掛けていた。恐らく、知人なのだろう。年を重ねた面は岩のようで、融通の利かない頑固さが見て取れる。それでも、一言二言交わす間に、老人の表情から強張りは解れて行った。
不思議な人間だ。
幼い顔立ちと小柄な体躯ながら、放つ存在感は惑星のように老若男女を問わず周囲を惹き付ける。隙だらけに見えて、内面は冷静で、容易く挑発には乗らない。かと思えば、直情的で自己犠牲主義を貫き、自身の意志を貫く為ならば手段を選ばない。
敵を作り難い人間だが、味方は多くないだろう。彼は、後ろ暗い自身の内面を簡単に曝け出す。鏡のようだと、霖雨は思う。
自身に後ろ暗いことが無ければ、付き合い易い気さくな人間だ。そんな人間が多い筈も無いのだから、彼はきっと、生き難いだろう。
明るく笑う横顔をぼんやりと見ていると、霖雨の前で小さな後頭部が動いた。母親に連れられて来た少女が、霖雨を見て不思議そうに小首を傾げている。
霖雨が曖昧に微笑むと、少女は弾かれたように顔を前に戻した。
三歳ーー、否、もっと上だろうか。
他人の歳など当てられたことが無い。何となく、ゆらゆらと揺れる後頭部を見ていた。
白磁のような滑らかな頸が、惜しげも無く晒されている。
赤毛はきっちりと三つ編みに結われ、頭部が揺れる度にぴょんぴょんと跳ねた。
そろりそろりと振り返り、少女は霖雨と目が合うと、雷に打たれたみたいに前を向く。
コミカルな動作に、霖雨は吹き出すようにして小さく笑った。
その内に、老人との会話を終えたらしい和輝が戻って来た。口元に笑みを残した霖雨を不思議そうに見ていたが、その訳を問うことは無かった。
片足を庇う霖雨を介助する様は、医療関係者らしく手慣れている。何時か近い未来、彼は本物の医師になるだろう。
和輝と出逢える患者は幸せだ。
そんなことを、思った。
物言わぬ星
⑴不運
和輝は、喫茶店のアルバイトを辞めたらしい。
明るく穏やかな彼の性格に合った良い職場だったように思うので、霖雨は些か残念だった。引き留められただろうと問い掛けると、和輝は口元に笑みを浮かべて答えなかった。
新しい職場は、電車を乗り継いだ先の接骨院らしい。スポーツドクターを目指す和輝にとっては、必要な経験を積める願っても無い現場なのだろう。
意気揚々とアルバイトに向かう和輝を見送り、霖雨は今日も履歴書と睨めっこをする。
就活状況は、相変わらず芳しくない。
自分が何をしたいのか、解らないのだ。意図せず、住居の所有権を手に入れた矢先なので、わざわざ社会貢献を果たして就労する必要があるのか疑問にすら思う。
このままフリーターでも良いかと、社会不適合者みたいなことを考える度に、日々を活力的に過ごす和輝の存在が歯止めを掛ける。
お前、それでいいの?
一度だって、和輝は此方を焦らせ、否定するようなことは口にしていない。だが、透明度の高い瞳を見ていると居心地が悪くなり、結局は筆の進まぬ書類と向き合う羽目になるのだ。
就活情報誌を眺めながら、霖雨は溜息を一つ零す。薄く透けた水色の空には、霞むような鰯雲が浮かんでいた。
街路樹も冬支度を始めている。やがて訪れる極寒の冬を前に、ここぞとばかりに葉の色を染めて街を彩っていた。
気温もすっかり下がって来て、冷房も必要無い。季節は秋だ。この地に転がり込んで、もう二つ目の季節が終わっている。
怪我の療養を理由にアルバイトもすっかり遠ざかっている。長期休暇も終わって、大学院は学生で溢れているので、片足を引き摺ったまま歩き回りたくなかった。
外出しなくても、和輝が帰って来れば三食用意してくれる。このままでは引き篭もりだ。何か、行動を起こさなければならない。
日が落ちた頃に帰宅した和輝は、大量の唐揚げを作っていた。
キッチンのカウンターの向こうで、忙しなく動き回る小さな青年の相貌を見ていた。
夕食は唐揚げかと尋ねると、鶏肉の竜田揚げだと返された。霖雨には違いがよく解らない。
油の音と漂う香ばしい匂いを堪能する。他人の雑音がこんなにも心地良いものだと知らなかった。
テレビを点ける間も無く、和輝は調理を終えてリビングへやって来た。
「研究者になれば?」
愚痴みたいに悩んでいたことを打ち明けると、和輝は事も無げに言った。何処か投げ遣りな調子だったので、おや、と思う。
和輝は山盛りの白米をせっせと咀嚼し、口内を空にしてから言った。
「答えは多分、出ているんだよ」
「答えって?」
「やりたいことがあるなら、やればいい。やりたいことが無いのなら、探せばいい。どんな理由があったとしても、自分の人生なんだから、その責任を持つのは自分なんだ。誰かに言われて選んだ未来なら、きっと後悔する」
和輝の顔から表情が消えた。
「人は、自分で決めた道でしか走れない」
その声は静かなリビングに反響した。
口調に真摯さが滲む。これはきっと、和輝の持論なのだろう。
走らなくたって良いと思う人もいるんだよ。
霖雨は思ったが、口にはしなかった。きっと、解り合えない。そして、和輝も解り合えないことを解っている。これは考え方、価値観の違いだ。
山があれば登り、壁があれば打ち砕く。それは立派なのだろうが、回り道を選ぶ人間が大半だ。山や壁を乗り越えなくたって、目的地には到着出来る。立派な人間でなくても、生きていける。
和輝は生き難いだろうなと、改めて思った。
それでもこうして生きて来て、その生き方を変えようとしないのだから、馬鹿なのか、大物なのか。
霖雨が曖昧に頷いても、和輝は嫌な顔一つせず、その反応を予期していたように食事を再開した。
あっという間に日々は消費され、霖雨は再び足の小指の為に受診をした。
付き添おうという和輝の申し出は断っておいた。子どもじゃあるまいし、大怪我でもない。衝撃は鈍く響くが、テーピングされていれば歩行に支障は無かった。
経過良好とのことから、次回の受診は一週間後だった。施術を終えて待合室で会計を待っていると、先日の少女がいた。
可愛らしく編み込まれた赤毛を揺らし、霖雨を見ると不思議そうに眉を跳ねさせた。
連れている女性は母親なのだろう。きっちりとスーツを纏う様はキャリアウーマンといった調子だった。
美しく化粧を施した女性は甲斐甲斐しく世話を焼いている。理想の親子像だ。幼少期に両親と死別した霖雨には、彼女達が眩しく映った。
番号を呼ばれた女性が立ち上がり、娘へ丁寧に言って聞かせてカウンターへ向かう。雑踏に紛れる女性を見送り、少女は退屈そうに両足をぶらつかせていた。
少女が振り返る。青い目をした可愛らしい少女だった。
霖雨が微笑むと、少女もまた、口元に笑みを浮かべた。
「綺麗なお母さんだね」
何の気無しに言うと、少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。殆ど初対面の自分に優しく微笑む少女が、まるで天使のように見えた。
日に焼けない白い面には雀斑が散っている。ほんのりと朱が差して、少女は無防備に小首を傾げた。
「何処か痛いの?」
「足をぶつけて、指を怪我しちゃったんだよ」
悪戯っぽく、霖雨は答えた。
外見上、自分は健康体だ。今も両足にはしっかりと靴を履いているから、怪我をしているなんて想像も出来ないだろう。
この待合室にいる人間は、それぞれ何らかの健康疾患を抱えている。外見上の差異は殆ど見られないが、自分に比べて余程重症の人間が圧倒的多数の筈だ。
目の前にいるこの少女も、何らかの疾患を抱えているのだろう。
霖雨が黙って見返すと、少女はさらりと答えた。
「私、病気なんだって」
「そうなの?」
霖雨が問うと、少女はそれが当たり前のことみたいに返した。
「だから、ママがいないと駄目なの」
ふうん。
確かに、幼い子どもには母親が必要だろう。この歳で自立するのならば、それこそスラム街で犯罪の中に身を落とすしか無いのだろう。
そんなことを考えている間に母親が戻って来たので、少女は姿勢を正した。最後に少しだけ振り向いて、またね、と言った。
丁度、霖雨自身も会計に呼ばれたので、少女とはそれきりだった。
病院を出ると、門扉に寄り掛かるようにして和輝が立っていた。お節介だと思うけれど、逆の立場であったなら、自分も迎えに来たかも知れない。
霖雨を見付けて嬉しそうに駆け寄る和輝に、飼い犬の尻尾が見えるような気がした。
「一緒に帰ろうよ」
「いいよ。迎えに来てくれたのか?」
「いや、今日は出張で此処に用事があったんだ。霖雨に会えたらいいなと思って、待っていた」
この男は、自分にとってどういう人間なのだろう。心配される謂れも無いけれど、厚意は有難く受け取っておくべきだ。
薄手のパーカーを羽織った和輝は、一見すると成人男性には見えない。並ぶと見下ろす程の身長差がある。けれど、彼が人を救うヒーローであることを知っている霖雨は、その肩に思い切り凭れてやった。
透明人間が消えてから意気消沈しているヒーローを励ますつもりだった。
和輝は「重い」と口先だけの文句を言いながら、霖雨を突き放そうとはしなかった。