⑸幻覚ヒーロー
ボールは滑らかにアスファルトを跳ねた。
追い縋る少年達は、宛ら狩人のようだ。
焼けたアスファルトに、色褪せたコート。削られたボールにリングだけのゴール。
親のいない子ども達が、弾けるような笑顔で歓声を上げる。突き上げられた拳は、既視感を覚えさせた。
蒼穹に突き上げた拳を、今も覚えている。
信頼出来る仲間と白球を追い掛けたあの日々が青春だったのだと、気付いた時にはもう過ぎ去った後なのだ。
バスケットボールを片手に掴んだ翡翠が、此方を見てうっとりと微笑んでいる。背筋が凍るような殺気を漂わせているが、其処に悪意は微塵も無い。
和輝は、翡翠をじっと見詰めていた。
緑柱玉の瞳に陰りは無い。嘘偽りの無い純粋さが映っている。
自分には人の嘘が解る。けれど、人の心が読める訳じゃない。驕ってはならない。その人の一面だけで、その人間性まで判断出来る訳じゃない。
翡翠が、片手に掴んだボールをアスファルトに叩き付けた。小気味良い音がして、ボールは再び、その手元に戻った。
「1on1をしようか」
体格差、経験値、実力差。圧倒的に不利だと解っている。観客と化した少年達が囃し立てる。
口笛が高く鳴り響いて、ボールは和輝の元へ投げ渡された。
議論する時には、相手の土俵に上がってはならない。マウントポジションは常に守ることが鉄則だ。
此処は翡翠の土俵だ。敵地であると解っている。ーーそれでも、譲れないから、此処に立っている。
「いいよ」
にこりと、笑ってみせる。
譲れないものがあるのなら、何としてでも立ち向かわなければならない。
和輝の世界は常に冷たく厳しい逆風が吹き付けていた。
この世界は冷たい。けれど、それが全てとは思わない。
足掻け、躊躇うな、信じろ。
自分が此処にいるということを、証明してみせろ。ーー何度でも!
ボールが弾む。始めはゆっくりと、相手の呼吸を読みながらのドリブル。足音も無く翡翠が正面を立ち塞ぐ。
深呼吸を一つ。踏み込みの瞬間を悟られてはならない。距離を取りながら瞬きを繰り返す。視界がモノクロに染まり、歓声が消えていく。
翡翠とボールだけが浮かび上がる。
和輝は距離を詰め始める。バウンド、1、2、3ーー。
踏み込もうとした瞬間、和輝は身を引いた。翡翠の左手がボールを掠めていた。
来ないのかい?
口角を吊り上げた翡翠が嗤っている。挑発に乗るつもりは無い。
一歩を踏み出すと同時に翡翠の重心が動く。伸ばされた手を掠めるように、和輝は身を翻した。
ターンを挟んで翡翠を躱し、一気に走り出す。コートのギリギリを駆け抜ける隣で、翡翠が虎視眈々と追い掛ける。
型に嵌ったようなレイアップシュートは、ボールがリングに届く前に叩き落とされた。弾かれたボールが飛んで行く。翡翠の掌へ、ボールは吸い込まれた。
耳を塞ぎたくなる程の激しいドリブルと共に、翡翠が走り抜ける。全力疾走する和輝を嘲笑うように、ボールに手は届かない。
追い付けない。シュートの瞬間、和輝は背後から跳躍した。爪の先に微かな感触が残り、ボールはリングより弾かれた。
リバウンド。
弾かれたボールは、再度、翡翠の掌に収まった。瞬きすら間に合わない刹那、ボールは宙を舞う。和輝はアスファルトを蹴った。
届かないーー。
指の先にボールが浮かぶ。
ボールがリングを回る。和輝はすぐさまリバウンドポジションを陣取った。
届かないことなんて、解っている。
勝てないことなんて、知っている。
全てを救えるとは思っていない。
目の前の一つすら救えなくて、何度も取り零して来た。
それでも。
それでも、諦められない。
簡単に諦められるのなら、こんなに苦しみはしなかった。
バックボードに衝突したボールが、ふらりと揺れる。幽霊のように、陽炎のように、ボールはリングの外に落ちた。
頭上から翡翠が手を伸ばす。
有利なポジションを押さえているのに、圧倒的な身長差は容易くそれを埋めて来る。
無いものを嘆くことは、もう辞めたのだ。
翡翠の手がボールに触れる瞬間、和輝はそれを抱え込んだ。着地と同時に踏み込み、走り出す。
高さで劣るのなら、速さを。
力で劣るのなら、跳躍を。
翡翠を躱し、和輝はそのままシュートモーションに入った。
彼の手が届くより早く、ボールは宙に浮いている。
3Pシュートだ。ボールはリングに触れることなく、中へ吸い込まれた。
ゴール。
途端、聴覚が蘇って、歓声が周囲を包み込んだ。
和輝はほっと息を一つ吐き出した。ーーけれど、次の瞬間にはボールを掴んだ翡翠が走り出す。
目で追うのがやっとだった。
疾風の如く走り抜けた翡翠が、見惚れるように美しいレイアップシュートを決めた。
ボールが弾む。
「終わったと思った?」
詰めが甘いよ。
何時かの忠告をなぞるように、翡翠が言った。和輝は奥歯を噛み締め、叫んだ。
「もう一回!」
腹の底から叫ぶと、空気がびりびりと震えた。
喧しいと耳を塞ぐ観客を背景に、翡翠が愉悦に嗤う。ボールを手に、和輝は身を低くした。
涙雨と傘
⑸幻覚ヒーロー
結果から言うと、惨敗だった。
最初の3Pシュートは奇襲みたいなもので、二度目は成功しない。体格の差、経験の差、実力の差がじりじり開いて、最後は追い掛けるだけで精一杯だった。
一方的な試合展開に観客は嘆息を漏らし、やがて興味を失っていった。野次すら飛び交う中で、和輝は膝に手を付いて呼吸を整えていた。
珠のような汗がアスファルトに落ちる。
「もう、お終い?」
翡翠が嗤っていた。
言い返そうとしたが、喉の奥が張り付いて言葉にならなかった。
東の空には鈍色の雲が立ち込め、やがて大粒の雨を零すことだろう。不吉を連れた曇天が広がっている。
相手の土俵に上がった自分が悪いーー。
霖雨も何時か、言っていた。それでも譲れないから、何度でも立ち向かうと決めた。
顔を上げた時、観客の中から霖雨の声がした。
「和輝」
呆れたような顔だった。
この一方的な試合展開を見ていたのかも知れない。自分への不甲斐なさが込み上げて来て、このまま消えてしまいたくなる。
霖雨はサイドラインを踏み越えてやって来て、和輝の腕を掴んだ。
「行くぞ」
腕を引いて歩き出そうとする後ろから、翡翠が揶揄する。
「逃げるのかい?」
その言葉に、和輝の足が鈍る。けれど、霖雨は気にも留めずに手を引いた。
動き出せない和輝を強引に立ち上がらせ、霖雨はコートの外へ向かっていく。
負け犬。そのレッテルが、確かに貼り付けられたような気がした。
逃げたくない。
両足は何度でも立ち止まろうとする。それすら気にせずに霖雨は歩き続けていく。自分が酷く惨めだった。
呼吸は何時までも整わず、逃げ出したい程の自責の念が込み上げる。
翡翠の揶揄が、観客の野次が、耳の中でぐるぐると混ざり合って、平衡感覚を保っていられない。
負けたくない。勝ちたい。ーーでも、現時点の自分では翡翠に勝てない。この土俵に勝機は無い。
「逃げない」
「へえ?」
翡翠の眉が跳ねる。和輝は唇を噛み締め、悔しくて堪らないのを呑み込んで言った。
「戦略的撤退だ」
翡翠は嗤うものと思ったが、驚いたような顔をして見詰めていた。
「馬鹿の癖に、よくそんな難しい言葉を知っていたな」
偉い偉いと、褒める姿が勘に障る。こういった馬鹿にする様は、葵に似ていた。
翡翠があえて似せているのか、自分が葵の面影を探しているのかは解らない。
霖雨は黙って手を引き、歩き続ける。労りの言葉が掛けられたら、それこそ惨めだ。敗者には敗者なりの矜持がある。
バスケットボールコートを出て、霖雨は近場にあるバイクの駐車場に入った。
霖雨の愛車は側面の塗装が激しく剥がれている。高速道路で転倒した時の傷だった。これだけ派手に転んでいるのに、乗車していた自分達が無傷でぴんぴんしていられるのは、運が良かったことと、運転手の腕が良かったのだと思う。
「翡翠と1on1をしていたのかい?」
「うん」
「勝てないって、解っていただろう」
「うん」
勝てるか如何かは、勝負しない理由にならないのだ。
こんなことを言えば見放されるような気がして、和輝は黙っていた。
自分はただ、翡翠を信じていたかっただけだ。翡翠を信じる理由を探していた。彼は誠実な人間で、自分との間には嘘偽りなんて無い。そう、思いたかった。
どんなに親しくても、どんなに近しくても、その人の全てを理解出来る訳じゃない。それでも信じたいのなら、その人の汚さも醜さも嘘偽りも全て引っ括めて受け容れなければ、それは自己満足だ。
人を救いたい。ーー本当は、救われたかっただけだ。
誰かの為でなければ、自分を認められない。臆病な自己防衛機能なのだ。
それでも。
「此処で立ち向かわなければ、何処にも行けないような気がしたんだ」
こんな言葉は、きっと理解出来ない。
葵が消えたと知った時、まるで奈落の底に叩き落とされたように感じた。彼の手を掴んだつもりで、本当は自分が救われていたのかも知れない。
他人行儀な言葉が砕けて、歯に衣を着せぬ物言いになった。
苦手な食べ物や好物を知った。我儘を口にするようになった。
固く閉ざしていた自室を開放するようになった。
弱音や愚痴を零し、苦言を呈するその様が信頼だったのだと、和輝は思っていた。
全ては独り善がりだったのだろうか。
一寸先さえ見えない闇の中で蹲る葵が、如何しようも無くて立ち上がることすら困難な時に、手を差し伸べられるような、その背中を押せるような存在でありたかった。
葵が何かを隠していたことは知っていた。人は誰しも思ったことをそのまま口にする訳じゃない。だから、彼が隠すのなら、何時か口を開く日まで待っていようと思った。こんなことなら、強引にでも口を割らせて、無理矢理にでもその手を引っ張れば良かった。
全ては後の祭りだ。
真実は闇の中。透明人間は消えて、物語は終結する。これが、葵の望んだ結末なのだろうか。
和輝には、解らない。解らないから、足掻き続ける。
「ずっと、ヒーローになりたかった」
ぽつりと零した声は、和輝自身が逃げ出したくなるくらいに弱々しく掠れていた。霖雨は笑いもしなかった。
魔王に立ち向かう勇者になりたかった。
窮地に駆け付けるヒーローになりたかった。
何度打ち倒されても、ゲームオーバーのない、不死身の英雄になりたかった。
終止符を打つのは自分でありたかった。
余りに身勝手な願いだ。相手の感情を無視した押し付けがましい暴論だ。
この世にヒーローなんていないことを、和輝は痛い程に知っている。
俯き立ち止まる和輝の前方、霖雨が、言った。
「なれば?」
それは、至極当然のことであるような確固たる強さを秘めていた。和輝が弾かれるように顔を上げると、如何したと言わんばかりに霖雨が小首を傾げている。
「大義の為と言って目の前の一つを切り捨てるような人間を、俺は立派だとは思わない」
霖雨が、優しく微笑んだ。許容と慈愛に満ちた美しい微笑みだった。
ぽつりと、雫が落ちた。
目から鱗が落ちたのかも知れない。泣き出しそうな空から雨が降ったのかも知れない。
「俺はね、悩みもしなければ、迷いもしないような勇敢な人間に、救って欲しいとは思わないよ」
立ち止まった霖雨が、さらりと頭を撫でた。何故か、それは遠く離れた肉親の温かさを感じさせた。
「悩んで迷って如何しようもなくなって、苦しんで選んだ答えが誰にも認められなくて、それでも諦められないから足掻き続ける。ーーそういう人間だから、人を救えるんじゃないかな」
ぽつぽつと、雨が落ちる。
和輝は、顔を伏せた。
雨はアスファルトに黒く染み込んでいく。落下する水音が耳元で聞こえた気がした。
葵の手掛かりは何も無い。翡翠を信じる証拠も無い。八方塞がりなこの状況を打破する一筋の希望は無く、目の前にあるのは虚しく降り注ぐ冷たい雨だけだ。
此処に立つ自分を証明するものは何も無い。自分には、何も救えない。
俯いた和輝の肩を撫で、霖雨が思い出したように言う。
「雨は、泣けない誰かの為に降り注ぐ。その涙の雨で、虹が架かったら、良いね」
濡れることも厭わず、顔を上げて霖雨が言った。何時かの自分をなぞる言葉に、和輝は鼻を啜り、しかと頷いた。
「俺は、傘になりたいよ。空に架かる虹を並んで見られるように」
なれるかな。
なりたいな。
顔を上げて、和輝は言った。