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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
涙雨と傘
84/105

⑸幻覚ヒーロー

 ボールは滑らかにアスファルトを跳ねた。

 追い縋る少年達は、宛ら狩人のようだ。


 焼けたアスファルトに、色褪せたコート。削られたボールにリングだけのゴール。

 親のいない子ども達が、弾けるような笑顔で歓声を上げる。突き上げられた拳は、既視感を覚えさせた。


 蒼穹に突き上げた拳を、今も覚えている。

 信頼出来る仲間と白球を追い掛けたあの日々が青春だったのだと、気付いた時にはもう過ぎ去った後なのだ。


 バスケットボールを片手に掴んだ翡翠が、此方を見てうっとりと微笑んでいる。背筋が凍るような殺気を漂わせているが、其処に悪意は微塵も無い。


 和輝は、翡翠をじっと見詰めていた。


 緑柱玉の瞳に陰りは無い。嘘偽りの無い純粋さが映っている。

 自分には人の嘘が解る。けれど、人の心が読める訳じゃない。驕ってはならない。その人の一面だけで、その人間性まで判断出来る訳じゃない。


 翡翠が、片手に掴んだボールをアスファルトに叩き付けた。小気味良い音がして、ボールは再び、その手元に戻った。




「1on1をしようか」




 体格差、経験値、実力差。圧倒的に不利だと解っている。観客と化した少年達が囃し立てる。

 口笛が高く鳴り響いて、ボールは和輝の元へ投げ渡された。


 議論する時には、相手の土俵に上がってはならない。マウントポジションは常に守ることが鉄則だ。

 此処は翡翠の土俵だ。敵地であると解っている。ーーそれでも、譲れないから、此処に立っている。




「いいよ」




 にこりと、笑ってみせる。

 譲れないものがあるのなら、何としてでも立ち向かわなければならない。


 和輝の世界は常に冷たく厳しい逆風が吹き付けていた。

 この世界は冷たい。けれど、それが全てとは思わない。


 足掻け、躊躇うな、信じろ。

 自分が此処にいるということを、証明してみせろ。ーー何度でも!


 ボールが弾む。始めはゆっくりと、相手の呼吸を読みながらのドリブル。足音も無く翡翠が正面を立ち塞ぐ。


 深呼吸を一つ。踏み込みの瞬間を悟られてはならない。距離を取りながら瞬きを繰り返す。視界がモノクロに染まり、歓声が消えていく。

 翡翠とボールだけが浮かび上がる。

 和輝は距離を詰め始める。バウンド、1、2、3ーー。


 踏み込もうとした瞬間、和輝は身を引いた。翡翠の左手がボールを掠めていた。


 来ないのかい?

 口角を吊り上げた翡翠が嗤っている。挑発に乗るつもりは無い。


 一歩を踏み出すと同時に翡翠の重心が動く。伸ばされた手を掠めるように、和輝は身を翻した。

 ターンを挟んで翡翠を躱し、一気に走り出す。コートのギリギリを駆け抜ける隣で、翡翠が虎視眈々と追い掛ける。

 型に嵌ったようなレイアップシュートは、ボールがリングに届く前に叩き落とされた。弾かれたボールが飛んで行く。翡翠の掌へ、ボールは吸い込まれた。


 耳を塞ぎたくなる程の激しいドリブルと共に、翡翠が走り抜ける。全力疾走する和輝を嘲笑うように、ボールに手は届かない。

 追い付けない。シュートの瞬間、和輝は背後から跳躍した。爪の先に微かな感触が残り、ボールはリングより弾かれた。


 リバウンド。

 弾かれたボールは、再度、翡翠の掌に収まった。瞬きすら間に合わない刹那、ボールは宙を舞う。和輝はアスファルトを蹴った。


 届かないーー。


 指の先にボールが浮かぶ。

 ボールがリングを回る。和輝はすぐさまリバウンドポジションを陣取った。


 届かないことなんて、解っている。

 勝てないことなんて、知っている。

 全てを救えるとは思っていない。

 目の前の一つすら救えなくて、何度も取り零して来た。


 それでも。


 それでも、諦められない。

 簡単に諦められるのなら、こんなに苦しみはしなかった。


 バックボードに衝突したボールが、ふらりと揺れる。幽霊のように、陽炎のように、ボールはリングの外に落ちた。


 頭上から翡翠が手を伸ばす。

 有利なポジションを押さえているのに、圧倒的な身長差は容易くそれを埋めて来る。


 無いものを嘆くことは、もう辞めたのだ。


 翡翠の手がボールに触れる瞬間、和輝はそれを抱え込んだ。着地と同時に踏み込み、走り出す。


 高さで劣るのなら、速さを。

 力で劣るのなら、跳躍を。

 

 翡翠を躱し、和輝はそのままシュートモーションに入った。

 彼の手が届くより早く、ボールは宙に浮いている。

 3Pシュートだ。ボールはリングに触れることなく、中へ吸い込まれた。


 ゴール。

 途端、聴覚が蘇って、歓声が周囲を包み込んだ。

 和輝はほっと息を一つ吐き出した。ーーけれど、次の瞬間にはボールを掴んだ翡翠が走り出す。


 目で追うのがやっとだった。

 疾風の如く走り抜けた翡翠が、見惚れるように美しいレイアップシュートを決めた。

 ボールが弾む。




「終わったと思った?」




 詰めが甘いよ。

 何時かの忠告をなぞるように、翡翠が言った。和輝は奥歯を噛み締め、叫んだ。




「もう一回!」




 腹の底から叫ぶと、空気がびりびりと震えた。

 喧しいと耳を塞ぐ観客を背景に、翡翠が愉悦に嗤う。ボールを手に、和輝は身を低くした。










 涙雨と傘

 ⑸幻覚ヒーロー











 結果から言うと、惨敗だった。


 最初の3Pシュートは奇襲みたいなもので、二度目は成功しない。体格の差、経験の差、実力の差がじりじり開いて、最後は追い掛けるだけで精一杯だった。


 一方的な試合展開に観客は嘆息を漏らし、やがて興味を失っていった。野次すら飛び交う中で、和輝は膝に手を付いて呼吸を整えていた。


 珠のような汗がアスファルトに落ちる。




「もう、お終い?」




 翡翠が嗤っていた。

 言い返そうとしたが、喉の奥が張り付いて言葉にならなかった。


 東の空には鈍色の雲が立ち込め、やがて大粒の雨を零すことだろう。不吉を連れた曇天が広がっている。


 相手の土俵に上がった自分が悪いーー。

 霖雨も何時か、言っていた。それでも譲れないから、何度でも立ち向かうと決めた。


 顔を上げた時、観客の中から霖雨の声がした。




「和輝」




 呆れたような顔だった。

 この一方的な試合展開を見ていたのかも知れない。自分への不甲斐なさが込み上げて来て、このまま消えてしまいたくなる。


 霖雨はサイドラインを踏み越えてやって来て、和輝の腕を掴んだ。




「行くぞ」




 腕を引いて歩き出そうとする後ろから、翡翠が揶揄する。




「逃げるのかい?」




 その言葉に、和輝の足が鈍る。けれど、霖雨は気にも留めずに手を引いた。

 動き出せない和輝を強引に立ち上がらせ、霖雨はコートの外へ向かっていく。

 負け犬。そのレッテルが、確かに貼り付けられたような気がした。


 逃げたくない。

 両足は何度でも立ち止まろうとする。それすら気にせずに霖雨は歩き続けていく。自分が酷く惨めだった。


 呼吸は何時までも整わず、逃げ出したい程の自責の念が込み上げる。

 翡翠の揶揄が、観客の野次が、耳の中でぐるぐると混ざり合って、平衡感覚を保っていられない。


 負けたくない。勝ちたい。ーーでも、現時点の自分では翡翠に勝てない。この土俵に勝機は無い。




「逃げない」

「へえ?」




 翡翠の眉が跳ねる。和輝は唇を噛み締め、悔しくて堪らないのを呑み込んで言った。




「戦略的撤退だ」




 翡翠は嗤うものと思ったが、驚いたような顔をして見詰めていた。




「馬鹿の癖に、よくそんな難しい言葉を知っていたな」




 偉い偉いと、褒める姿が勘に障る。こういった馬鹿にする様は、葵に似ていた。

 翡翠があえて似せているのか、自分が葵の面影を探しているのかは解らない。


 霖雨は黙って手を引き、歩き続ける。労りの言葉が掛けられたら、それこそ惨めだ。敗者には敗者なりの矜持がある。


 バスケットボールコートを出て、霖雨は近場にあるバイクの駐車場に入った。

 霖雨の愛車は側面の塗装が激しく剥がれている。高速道路で転倒した時の傷だった。これだけ派手に転んでいるのに、乗車していた自分達が無傷でぴんぴんしていられるのは、運が良かったことと、運転手の腕が良かったのだと思う。




「翡翠と1on1をしていたのかい?」

「うん」

「勝てないって、解っていただろう」

「うん」




 勝てるか如何かは、勝負しない理由にならないのだ。

 こんなことを言えば見放されるような気がして、和輝は黙っていた。


 自分はただ、翡翠を信じていたかっただけだ。翡翠を信じる理由を探していた。彼は誠実な人間で、自分との間には嘘偽りなんて無い。そう、思いたかった。


 どんなに親しくても、どんなに近しくても、その人の全てを理解出来る訳じゃない。それでも信じたいのなら、その人の汚さも醜さも嘘偽りも全て引っ括めて受け容れなければ、それは自己満足だ。


 人を救いたい。ーー本当は、救われたかっただけだ。

 誰かの為でなければ、自分を認められない。臆病な自己防衛機能なのだ。


 それでも。




「此処で立ち向かわなければ、何処にも行けないような気がしたんだ」




 こんな言葉は、きっと理解出来ない。


 葵が消えたと知った時、まるで奈落の底に叩き落とされたように感じた。彼の手を掴んだつもりで、本当は自分が救われていたのかも知れない。


 他人行儀な言葉が砕けて、歯に衣を着せぬ物言いになった。

 苦手な食べ物や好物を知った。我儘を口にするようになった。

 固く閉ざしていた自室を開放するようになった。

 弱音や愚痴を零し、苦言を呈するその様が信頼だったのだと、和輝は思っていた。


 全ては独り善がりだったのだろうか。


 一寸先さえ見えない闇の中で蹲る葵が、如何しようも無くて立ち上がることすら困難な時に、手を差し伸べられるような、その背中を押せるような存在でありたかった。


 葵が何かを隠していたことは知っていた。人は誰しも思ったことをそのまま口にする訳じゃない。だから、彼が隠すのなら、何時か口を開く日まで待っていようと思った。こんなことなら、強引にでも口を割らせて、無理矢理にでもその手を引っ張れば良かった。


 全ては後の祭りだ。

 真実は闇の中。透明人間は消えて、物語は終結する。これが、葵の望んだ結末なのだろうか。


 和輝には、解らない。解らないから、足掻き続ける。




「ずっと、ヒーローになりたかった」




 ぽつりと零した声は、和輝自身が逃げ出したくなるくらいに弱々しく掠れていた。霖雨は笑いもしなかった。


 魔王に立ち向かう勇者になりたかった。

 窮地に駆け付けるヒーローになりたかった。


 何度打ち倒されても、ゲームオーバーのない、不死身の英雄になりたかった。


 終止符を打つのは自分でありたかった。

 余りに身勝手な願いだ。相手の感情を無視した押し付けがましい暴論だ。


 この世にヒーローなんていないことを、和輝は痛い程に知っている。


 俯き立ち止まる和輝の前方、霖雨が、言った。




「なれば?」




 それは、至極当然のことであるような確固たる強さを秘めていた。和輝が弾かれるように顔を上げると、如何したと言わんばかりに霖雨が小首を傾げている。




「大義の為と言って目の前の一つを切り捨てるような人間を、俺は立派だとは思わない」




 霖雨が、優しく微笑んだ。許容と慈愛に満ちた美しい微笑みだった。


 ぽつりと、雫が落ちた。

 目から鱗が落ちたのかも知れない。泣き出しそうな空から雨が降ったのかも知れない。




「俺はね、悩みもしなければ、迷いもしないような勇敢な人間に、救って欲しいとは思わないよ」




 立ち止まった霖雨が、さらりと頭を撫でた。何故か、それは遠く離れた肉親の温かさを感じさせた。




「悩んで迷って如何しようもなくなって、苦しんで選んだ答えが誰にも認められなくて、それでも諦められないから足掻き続ける。ーーそういう人間だから、人を救えるんじゃないかな」




 ぽつぽつと、雨が落ちる。

 和輝は、顔を伏せた。


 雨はアスファルトに黒く染み込んでいく。落下する水音が耳元で聞こえた気がした。


 葵の手掛かりは何も無い。翡翠を信じる証拠も無い。八方塞がりなこの状況を打破する一筋の希望は無く、目の前にあるのは虚しく降り注ぐ冷たい雨だけだ。


 此処に立つ自分を証明するものは何も無い。自分には、何も救えない。


 俯いた和輝の肩を撫で、霖雨が思い出したように言う。




「雨は、泣けない誰かの為に降り注ぐ。その涙の雨で、虹が架かったら、良いね」




 濡れることも厭わず、顔を上げて霖雨が言った。何時かの自分をなぞる言葉に、和輝は鼻を啜り、しかと頷いた。




「俺は、傘になりたいよ。空に架かる虹を並んで見られるように」




 なれるかな。

 なりたいな。


 顔を上げて、和輝は言った。


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