⑶取捨選択
息を引き取るように、バイクは停車した。どうやら、ガス欠らしかった。
霖雨は車体を路肩に寄せ、ヘルメットを脱いだ。シャワーを浴びたように汗を掻いていた。
初秋の風が心地良い。
葵の手掛かりが無いものかと、手当たり次第に街を疾走した。当然ながら、透明人間の痕跡は見当たらない。普段から行動が謎に包まれているから、何処を探せば良いのかも解らない。
一度帰宅して、体勢を整えよう。
そんなことを思ったが、今頃、あのヒーローは外出しているのだろう。待っていろと言われて、言葉に従って大人しく待っているような男ではない。
今、何処にいるのだろう。
携帯電話を取り出して、電話を掛ける。コールが続いたが、応答は無かった。
手が離せないのだろうか。
霖雨は携帯電話をポケットへ押し込もうとした。バイクを押して、ガソリンスタンドまで運ばなければならない。
その時、ポケットの中で携帯電話が震えた。
慌てて取り出すと、画面には蜂谷和輝の名前が表示されていた。
指先でタップして応答する。
「和輝? 今、何処にいる」
『和輝なら、俺の横で寝ているよ』
性質の悪い冗談だ。
こんな面倒な絡み方をして来る他人を、霖雨は知らない。だが、馴れ馴れしい声は何処かで聞き覚えがあった。
携帯電話を耳に押し当て、霖雨は言った。
「また、寝ているのか?」
電話の相手は、翡翠だ。
如何して、彼が和輝の携帯電話を出たのだろう。不審に思いつつ、霖雨は問い掛ける。
「和輝に代わってくれ」
『だから、寝ているって』
「悪いけど、叩き起こしてくれ」
霖雨が言うと、電話の向こうで翡翠が楽しそうに笑った。
何が面白いのか解らないが、霖雨は面倒なので訊かなかった。
翡翠が、言った。
「蜂谷和輝が大切かい?」
如何いう質問だ。
先程の性質の悪い冗談も加えて、翡翠という人間が解らなくなる。
霖雨は答えた。
「それなりに」
『はは、煮え切らない答えだねえ』
「そんなものだろ」
良いから、和輝を叩き起こして欲しい。
自分がバイクで駆け回っている間に、和輝は友達のところで寝ているのだ。文句の一つくらい言っても罰は当たらないだろう。
「馬鹿だけど、良い奴だよ。俺は、信頼してる」
『なんで?』
「だって、そいつが俺のこと信じてるんだから」
真っ直ぐな信頼を向けられて、応えない訳にはいかない。そう思わせるだけの青年だ。
霖雨が言うと、翡翠は不思議そうに問い掛けた。
『君には理解出来ない人種だろ?』
「俺にとっては、理解出来ない人間の方が殆どだよ。むしろ、その馬鹿の方が解り易い」
貶すつもりで言ったが、翡翠は納得し兼るとばかりに唸っていた。
良いから、和輝を叩き起こして欲しい。可能ならば、此処まで来て一緒にバイクを押して欲しいくらいだった。
けれど、翡翠は言った。
『君は、彼を過大評価しているよ』
「如何かな。そいつは自己評価が低いから、丁度良いんじゃない?」
他者は自己を映す鏡だと言う。ならば、極端に低い自己評価と、他人の勝手な過大評価の間に、本来の彼が浮かび上がるかも知れない。そんなことを思った。
「そいつの取り扱いには注意した方が良い。大人しそうな顔をして、とんでもないことをして来る」
『そうかな。クソ真面目で、融通も利かないじゃないか』
「ははは!」
和輝が?
それこそ、冗談だろう!
葵は失踪して、和輝は眠っている。訳の解らない状況で、神経が狂って来ている。
此方が幾ら急かしても、和輝を電話口に出さない。眠っているのか、眠らされているのか。
彼には睡眠薬の副作用の症状があった。何処で薬を呑まされたのかは解らない。葵が追跡を逃れる為に一服盛ったのかとも思ったが、如何やら別の可能性が出て来た。
執拗な質問は、まるで此方が彼等を見捨てる為の誘導尋問だ。翡翠の思惑が見えるような気がした。
「俺達を嘗めるなよ」
和輝は寝ているだけか?
拉致されているんじゃないか?
この男は、葵のことも知っているんじゃないか?
猜疑が次々と芽生えて、霖雨は口角を釣り上げた。
手掛かり一つ無かった状況で、この電話は闇に差し込んだ光明に等しい。
何が起こっているのかは解らないけれど、あの平行世界にいた時のように、絶望からのスタートではない。此処には希望がある。道標がある。
「其処で待ってろ」
今度は、俺が迎えに行く。
通話は、終わっていた。
涙雨と傘
⑶取捨選択
蜂谷和輝は携帯電話に依存しない。
唯一の連絡手段であるにも関わらず、持ち歩かない。その癖、トラブルメーカーなので、行方不明ということもざらだった。
彼が行方不明になった時、霖雨は母国にいる彼の親友に助けを求めた。彼ーー白崎匠は、当たり前みたいにその居場所を教えてくれた。
白崎匠が千里眼を持っているのでなければ、居場所を知る術を予め用意していたことになる。
発信器だ。
葵は携帯電話のGPSを度々利用して居場所を突き止めていたけれど、肝心のターゲットが携帯電話を中々持ち歩かない。
そんな彼の習性を知っているだろう白崎匠は、別の場所に発信器を仕込んだ。
出掛ける時の和輝は軽装だ。家の鍵と財布、携帯電話くらいしか持たない。それでも、携帯電話や財布は置いて行くことが多い。ならば、必然的に発信器は家の鍵に付いていることになる。
和輝は家の鍵に、奇妙なストラップを付けている。姉から異国の土産に貰ったという不気味な骸骨の模型だ。蛍光塗料が塗られていて、闇の中で全身が光るらしい。
葵は、早くにその可能性に気付いていた。そして、発信器の電波を傍受する方法を考えていたらしい。
霖雨は、手元の携帯電話を見下ろす。
『馬鹿の世話』と書かれたアプリだ。起動すると、界隈の地図が表示された。
赤く点滅するマークがある。三つ程駅の離れた大学病院だ。
幼馴染に発信器なんて、遣り過ぎだと思っていた。だが、いざ活用する立場になると、何も言えない。
バイクを近くのガソリンスタンドまで押して運ぶと、滴る程の汗を掻いた。ガソリンを給油して、漸く息を吹き返したバイクに跨る。
側面の塗料が派手に剥げていたので、店員が凝視していた。
目的地を目指して走り出す。
電車で30分掛かる距離も、裏道を利用したバイクならば半分程の時間で充分だった。
着いた先は中々に大きな大学病院だった。
平日の昼間にも関わらず、利用する人間は少なくない。霖雨は見舞客を装って受付を通過する。
発信器によると、和輝は入院病棟の最上階にいるらしい。機械は小さいのに、かなり詳しく知らせている。大した科学技術だ。彼の親友の思いが透けて見えるくらいだった。
エレベーターで最上階へ向かう。
到着した先、リノリウムの廊下は殆ど無人だった。壁際に据え付けられた安っぽいベンチに、小さな青年が横たわっていた。
霖雨は慌てて駆け寄った。
横たわる和輝は、微かに胸を上下させている。外傷は見られないので、ただ眠っているように見えた。
呼吸を確認し、霖雨はその場に座り込んだ。肩に入っていた力が抜けてしまった。
「おい、和輝」
身体を揺すると、長い睫毛に彩られた目はゆっくりと開かれた。
強烈な存在感を放つ瞳に、霖雨の顔が映っていた。
微睡む和輝の背中に手を添えて、起き上がらせる。緩慢な動作で周囲を見渡し、和輝は泣き出しそうに顔を歪めた。
「何があった?」
優しく問い掛けると、和輝は両手で額を押さえた。酷い疲労感が滲んでいる。
和輝が、言った。
「人を、死なせた」
「はあ?」
和輝は目を伏せたまま、目の前の病室を指差した。導かれるように、霖雨も視線を向ける。
薄暗い個室の中、白いベッドに患者が横たわっている。顔には白い布が掛けられ、その生命の終わりを告げていた。
死んだのだろう。ーー誰だか、知らないけれど。
「知り合い?」
「知っている人」
「それは、俺も知っている人?」
「多分」
死亡した患者の手首が、カーテンの隙間から差し込んだ光に照らされていた。ぐるりと周囲を縫合されている。この傷跡を、知っている。
葵が殺そうとした、犯罪組織の構成員だ。
和輝の咄嗟の処置で一命を取り留めたと聞いていたけれど、死んだらしい。
霖雨は曖昧な相槌を打った。
「解らなくなりそうで、怖いんだ」
泣き言のように、和輝が言う。
「人を救いたいと思う。生きていて欲しいと願う。ーーでも、それが苦痛でしかないのなら、俺は助けるべきじゃなかった」
霖雨は首を傾げた。
和輝の言う意味は解らない。けれど、人を生かして後悔し、責任を感じる必要は無い筈だ。
「何を後悔しているのか解らないけど、お前に責任なんて無いだろ。お前が何をしてもしなくても、人間は勝手に生きて勝手に死ぬ。お前は選択肢を提示しただけだ」
「違う! 俺が、死なせた……」
「お前が助けたかったのは、この男なの?」
霖雨は、純粋に疑問だった。
彼は人を救いたいと言う。けれど、全ての人を救うことなんて誰にも出来ない。だから、早い段階で見切りを付けていた筈だ。
和輝は、静かに首を振った。
解っていたことだ。この男はもう、過去の遺物なのだ。和輝は、この男を救うことで誰かを救おうとしていた。
全てを救えるとは思っていない。でも、目の前の一つは救えると信じたい。
ヒーローが本当に救いたかったもの。
「お前は、葵を救いたかったんだろ」
この男を死なせたくなかった。それは、葵の手を汚させたくなかったからだ。
和輝は巧みに嘘を吐くけれど、思考回路が単純なので解り易い。
「そうだよ」
顔を上げた和輝は、無表情だった。罪を背負うような静謐さを漂わせている。
霖雨は言った。
「俺は、お前が事件に巻き込まれて死に掛けた時、お前が生きているなら、他の人間が何人死んでも構わないと思った。何でもかんでも救える訳じゃないからね」
誰が死んでも構わない。この馬鹿なヒーローが生きていれば良い。自分が救われたかったからだ。
このヒーローは、霖雨と葵にとっての救いだった。だから、失う訳にはいかなかった。その考えに変わりは無いし、後悔も無い。
彼は、誰かの為でなければ生きられない。
誰かの中でしか、生きる意味を見出せない。
自分も大概卑屈だが、彼も相当歪んでいる。
人を救いたいよ。ーー自分を、受け容れたいから。
「切り捨てろ。何でもかんでも救える訳じゃない。本当に大切なものが見えているなら、迷うな。立ち止まっている暇なんて無いぞ」
手を伸ばされたら拒めない。転落すると解っていても離せない。
「泥舟だろうが、タイタニック号だろうが乗ってやる。一人で何でも出来ると思うな。手を伸ばせ。お前の手は、俺が掴んでやる」
霖雨は、手を伸ばした。
微睡んでいた双眸が光源のように輝いている。和輝は、その手を取った。
「沈むつもりは無いけど」
からりと笑って、和輝が言った。
「話を、聞いてくれる?」
「良いよ」
「俺に手紙が届いたんだ。差出人不明のエアメールだった」
和輝の隠し続けていた情報。必要だった嘘。それを打ち明ける瞬間が、来たのだ。本当に強情だ。
差出人不明のエアメール。部屋のゴミ箱に捨てられていた粉々の手紙を、霖雨は思い出した。
和輝は目を伏せ、独り言みたいに言った。
「神木葵と関わる俺に向けられた警告だった」
始まりは、一通のエアメールだった。
和輝は、話し始めた。