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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
涙雨と傘
81/105

⑵善と悪

 差出人不明の手紙が届いていた。

 母国の文字で記されたそれは、和輝にとって身に覚えの無いものだった。


 あれ、と思ったのはバイト中だった。


 日に日に客足が伸びる喫茶店は、休日となると店員一人では客席をフォロー出来なくなって来た。基本的に和輝と彼のシフトは入れ違いだが、最近は休日の昼時は出勤時間が重なることが増えた。


 客席は全て埋まり、店の外にも客が並ぶ。作り置いたケーキ類は次々に売り切れて、補充してもキリが無い。忙しい昼時を過ぎた頃には、アイスクリームくらいしか提供出来ないこともあった。


 猫の手も借りたいくらいの賑わいだ。

 注文を取りながら、料理を提供し、コーヒーのお代わりを注ぐ。回転数が上がると、サービスの質が低下しがちだ。だが、地域に根差した小さな喫茶店は、サービスの質が命だった。

 半ば意地になって、必死になって、それでも笑顔は絶やさずに動き続けた。待っている客は草臥れて苛々し始める。コーヒーや料理の味ではチェーン店に引けを取らないのに、従業員の質で劣るのは我慢ならない。


 流石の彼も、途切れない客足にうんざりしたようで、客席に背中を向けながら悪態吐いていた。


 注文を取る際にケアレスミスを無くす為、メモ帳を持参している。咄嗟に英語を記す程の能力は無いので、和輝は何時も母国語の殴り書きだった。偶に自分でも解読不能の文字があるくらいなので、当然、間違いも多い。


 そのメモ帳を、見られていたらしい。


 悪態吐いた彼が、和輝の手元にあるメモ帳を見て、間違いを指摘した。

 棒が一本足りない程度の間違いだった。客相手で疲労困憊の中、ちょっとした息抜きだったのだろうと思う。

 彼は指摘して、悪戯っぽく笑った。

 親切に、隣に正しい漢字を書いてくれた。


 違和感があったのは、その時だった。


 礼を言うと、彼は白い歯を見せて笑い、料理を提供する為に背中を向けた。和輝の手元には、彼が間違いを正したメモ帳が残っていた。


 俺は、この字を見たことがある。

 この癖を知っている。


 何処で見たのだろう。

 仕事に忙殺される間に、違和感のことなんて忘れてしまっていた。だから、気付いたのは、葵が失踪した朝だった。



 母国語で書かれた手紙の文字は感情を窺わせない程に美しかった。だから、偏見ではあるけれど、差出人は女性だと思ったのだ。

 赤と青に彩られた封筒は、母国から直接送られていると信じ込んだ。


 其処で、和輝は後手に回ってしまったのだ。


 警告と記された手紙には、神木葵の生い立ちが事細かに記されていた。

 手紙の差出人が誰かなんてことは、もう如何でも良い。問題なのは、その手紙の目的だ。葵を貶めることが目的なのか、猜疑心を生むことが狙いなのか。


 ターゲットは、誰なのだろう。

 自分か、葵か、霖雨か。


 だから、和輝は手紙の送り主に会いに行かなければならなかった。









 涙雨と傘

 ⑵善と悪










 霖雨を見送った後、バイクのエンジン音が遠退くのを確認してから、和輝は動き出した。


 葵が消えた。

 気紛れにしては、手が込んでいる。きっと、此処にはもう戻らないつもりで出て行ったのだ。


 情報を整理しなければならない。

 葵が出て行った理由は何だろう。何かの脅威が迫っていたとしても、決定打にはなり得ない。葵ならばそれを退けられる筈だ。それなら、何の為に?


 考える間も無く、理解する。脅威が迫っていたのは、葵ではないのだ。

 危険に晒されていたのは葵ではなく、自分や霖雨だ。巻き込まない為に、葵は姿を消さなければならなかった。そう考えると合点が行く。

 片付けられた家財一式、拭き取られた指紋。身体中の酷い倦怠感は、睡眠薬の後遺症だ。何処かで薬を盛られて、葵はそれに勘付いた。その脅威の元が葵の生い立ちに関わるものだと知ったから、姿を消した。


 和輝は目を閉じる。ーー学生時代、野球をしていた。

 追い込まれた場面で、バッターボックスに立つ時のジンクスだった。集中力を取り戻し、思考を明瞭にする。ゆっくりと目を開けると、世界はモノクロに染まっていた。

 必要外の情報を遮断し、目の前の一球に備える。呼吸が深くなり、視点が頭上から旋回する。


 俺を嘗めるなよ。


 和輝の脳には、或る人物が浮かんでいた。

 浅黒い肌、長身痩躯、緑柱玉の瞳。

 例え信じられなくても、可能性を一つ一つ検証していけば、自ずと真実は白日の下に照らされる。真実とは時に残酷なもので、人間はそれに抗う術を持たない。


 和輝は携帯電話を取り出した。

 電話を掛ける。数回のコールの後に、通話は繋がった。




『もしもし』




 此方の状況なんて何も知らないだろう呑気な声だった。和輝は、その名を呼んだ。




「翡翠」




 早川翡翠、23歳、男性。和輝とは同じアルバイト先の友達で、サーフィンの仲間だった。

 翡翠は、同じ国の出身だ。

 学生時代からバスケットボールに打ち込んで、その為に留学。しかし、熱心な練習が祟って、膝を故障した。

 現在は自費でこの国の大学に通いながら、アルバイトをしている。


 其処に嘘は無かったと思う。自信が無かった。何故なら、翡翠の言葉の中には微かな陰りがあったからだ。それが嘘なのか、翡翠のデリケートな部分なのか判断出来なかった。

 それに、それが嘘でも真でも、構わなかった。

 どちらにしたって、自分が思うようにしか信じられない。過去はその人を形作るけれど、それが全てではない。


 彼の人格を否定する気は無いし、疑う理由も無い。だが、自分が睡眠薬を投与されたとしたら、犯人は翡翠以外に有り得ない。


 目的は解らないが、葵が脅威を感じるとしたら、此処しか無い。


 電話の向こう、翡翠は寝起きなのか欠伸をしている。




『こんな朝っぱらから、何の用? シフトの交代か?』

「今、何処にいる? 会いたいんだ」

『熱烈だねえ。女の子にでも、言ってやれよ』




 軽口を叩いて、翡翠が笑う。和輝は苦笑した。

 翡翠が、言った。




『大学病院にいるよ』

「何かあったのか?」




 心配になって問い掛けると、翡翠が笑いながら否定した。




『俺じゃないよ。御見舞いなんだ』

「誰の?」

『来れば、解る』




 良い予感はしないが、翡翠が言うのなら疑う意味も無い。

 如何しようかと逡巡していると、翡翠が言った。




『待っているよ』




 これは、挑発だろうか。

 和輝はほくそ笑む。売られた喧嘩を一々買う程、暇では無い。けれど、何かを含む言い方を無碍にも出来ない。藁にも縋りたいのだ。

 通話を終え、和輝は簡単に支度をする。財布と家の鍵、携帯電話。他には何もいらない。


 件の大学病院は、此処から電車で30分程掛かる。

 薄手のジャケットを羽織り、和輝はスニーカーに足を入れた。


 駅までは徒歩で向かう。平日の昼間に利用客は少ない。改札を抜け、電車に乗り込む。

 電車に乗ったのは久しぶりのような気がした。思えば、最近は霖雨のバイクに乗せてもらってばかりだった。霖雨自身、電車が好きではないのだろう。しかし、空気を切り裂いて風を感じられるバイクの快感を知ってしまうと、電車というのは億劫な移動手段だった。


 予定通りに目的地に到着したが、大学病院は入り組んだ道の先にあったので、少しばかり迷ってしまった。

 迎えに来てくれたなら、迷わなかったのに。

 八つ当たりのようなことを考えながら、和輝は病院の前で手を振る翡翠に応えた。

 カーキ色のシャツを纏う翡翠は、黒いツバのある帽子を被っていた。和輝が駆け寄ると、笑みを浮かべて頭を撫でた。

 子ども扱いするな、と和輝はその手を跳ね除けた。


 説明はせず、翡翠は歩き出す。目的地不明のまま、和輝は後を追った。

 行き先は、入院病棟だった。容態急変の有り得る予断の許さない隔離された個室だ。病院を歩くのも久しいが、この場所に入院する患者の抱えるものを考えると、安易に感情に表す訳にはいかなかった。


 見舞いに来るくらいなのだから、親しい人間なのだろう。

 硝子の向こうに横たわる患者をそっと覗き込む。白いベッドの下、身動き一つしない。意識はあるのか。それとも、昏睡状態なのか。

 嘗て、和輝の尊敬する先輩も昏睡状態に陥っていた。意識の回復は望めず、生涯植物状態だと宣告されていた。生きているのに、話すことも出来ない。目の前で何も出来ない無力感を、和輝は知っている。


 硝子の向こうを見る翡翠は、眩しそうに目を細めていた。




「知り合い?」




 和輝が問い掛けると、翡翠はゆっくりと視線を動かした。緑柱玉の瞳が見たことのない硬質な光を放っていた。目の前にいる友達が、まるで見知らぬ他人に見えた。

 和輝は咄嗟に後ずさった。翡翠は、うっとりと笑みを浮かべた。




「俺の知り合いではないよ」




 口元が、三日月のように釣り上がる。嬉しくて堪らないと、瞳が愉悦に揺れている。

 距離を置こうと離れる和輝の首に腕を回し、翡翠は硝子の向こうを指差した。肘で首を押さえられ、動けない。力や体格の差ではない。技術、経験の差だ。和輝の頬を、汗の雫が滑った。

 恐る恐る顔を上げる。中天の日差しを反射し、拘束された自分と、愉悦に顔を歪める翡翠が映っている。

 目を凝らす。真っ白いベッド、無菌カーテン、心電図。寝ている患者は男性だ。体格が良い。

 首筋に一直線の傷がある。点滴の針を刺した手首にも傷がある、掌は薄く変色しており、縫合の生々しい痕が残っていた。


 この傷を、知っている。


 あ、と声を漏らすことも出来なかった。

 首筋を押さえ込んだ翡翠が、耳打ちするように囁く。




「彼を知っているね」




 声は柔らかいのに、否定を許さない強い口調だった。

 昏睡状態の男性ーー。彼は、葵が手に掛けた犯罪組織の構成員だ。

 葵が視力を失い、和輝が犯罪者の本拠地に乗り込んで拉致された先、銃口を突き付けた男だ。葵は当たり前のように男を殺そうとした。手にしたナイフで男の両手首を切り落とし、首筋を切り裂いた。それを、和輝が自分のエゴの為に生かしたのだ。

 救急車を呼び、必死で応急処置をした。死なせたくなかった。否、本当はただ、葵の手を汚させたくなかっただけだ。


 助けたつもりだった。事実、男の命は繋がった。

 けれど。




「脳に重篤な障害が残っている。機械に繋がれていなければ、生きられない。彼に家族はいない。延命処置を望む者は何処にもいない。間も無く、処置は打ち切られるだろう」




 感情の籠らない声で、翡翠がつらつらと言う。

 急に、現実が大きな口を開けて自分を呑み込もうとしているような錯覚に襲われた。すぐ後ろに、底の見えない奈落が広がっているようで、和輝は一挙一動を躊躇った。

 翡翠は追い打ちを掛けるように言う。




「人を救いたいんだろう?」




 逃げ道を塞ぐように、翡翠が言う。




「救ってみろよ」




 莫大な費用、脳の障害。現在の医療技術では、彼を救えない。そして、例え奇跡が起きて目を覚ましたとして、社会復帰は望めない。犯罪歴のある彼を受け入れる世界は無い。

 結果、彼は同じ道を辿るのだ。運命が彼を許し、死の国へ受け入れた時にこそ、彼は救われる。


 あの日ーー。

 この男の命を繋いだあの日、彼を救ったのは、誰だったのだろう。生かした自分か、死ぬことを許した葵か。


 この場所に立っていることが、恐ろしくて堪らない。

 身体が震えていた。空調の整備された院内は寒い筈も無いのに、肌が粟立っている。


 翡翠は、和輝の震える腕を取った。

 携帯電話を取り出し、起動する。画面には、真っ暗な背景の中に黄色いスマイルマークが浮かんでいた。




「このスイッチを押せば、呼吸器は停止する」




 つまり、このスイッチ一つで彼は死ぬのだ。

 幼子に言い聞かせるような穏やかさで、翡翠は手を添えた。

 和輝の指先は、痙攣のように震えている。




「さあ、彼を解放してあげよう?」




 指先が、マークに触れた。

 途端、弧を描いていた目はバツ印に変わった。GAME OVERと、ちゃちな文字が躍る。

 硝子の向こう、心電図が弱り、消えて行った。けたたましいナースコールが響き渡る。患者の急変に、医師や看護師が駆けて来る。

 急転直下の状況で、和輝と翡翠の周囲だけが嘘みたいに静かだった。




「ほら、救えたね」




 偉い偉い、と翡翠が優しく頭を撫でる。

 子ども扱いをするな、なんて言い返すことは出来なかった。


 救えたのだろうか。ーー本当に?

 死ぬことが救いなのか?


 医師は患者の脈拍を取り、静かに、その生命の終わりを告げた。

 死んだ。酷く、呆気無い。


 これで良かったの?

 本当に?


 それでも、自分には彼を救う術は何も無かった。人の命を奪った指先が震えている。自身が汚れているようで、今すぐにでもそれを切り落としたい衝動に駆られる。


 小さな掌だ。無力な腕だ。弱い心だ。ーー自分が、嫌いだ。自分が許せない。認められない。こんな自分に生きる価値は無い。




「人を殺すことは、悪かい? じゃあ、生かせば正義なのか? 今のお前は悪か? 俺は? 神木葵は?」




 和輝は答えられない。

 翡翠は続けた。




「善悪は多数決で決まる。正義なんて言葉がなければ、悪だって存在しなかったさ」




 ぐらりと、視界が歪んだ。




「人が人を救いたいなんて、烏滸がましいと思わないか? お前には、誰も救えないよ」

「ーーそれでも、」



 瞼が重い。視界がぐらぐらと揺れて、立っていられない。酷く眠かった。

 それでも、このまま引き下がる訳にはいかない。


 自分が嫌いだ。弱い自分が許せない。人を救えない自分を認められない。ーーでも、そんな弱さを受け止めて生きて行きたいから、こんなに苦しい。




「俺は、人を救いたいよ」





 和輝の意識は、闇の中に転がり落ちて行った。


 

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