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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
涙雨と傘
80/105

⑴透明人間の消えた日

Only the dead have seen the end of war.

(ただ死者のみが戦争の終わりを見たのである)


Plato









 赤と青に彩られた封筒は粉々に破かれていた。まるで、謁見を許さぬ傲慢な独裁者のようだ。霖雨は目を瞬かせ、それを手にした袋へ押し込んだ。

 可燃ゴミを集めていたら、和輝の部屋のゴミ箱から幾つかの封筒が見付かった。故郷からの手紙は皆一様に保管されているのに、おかしいな、と思った。


 就活状況は芳しくない。

 就職氷河期とは思わない。自分の進路が決まっていないことが大きな敗因だ。

 昨晩も遅くまで部屋に篭っていて、机に突っ伏して寝てしまった。肩にはブランケットが掛けられていたので、お節介な隣人が気を利かせたのだろう。

 件の隣人も、昨晩はリビングで転寝をしてしまったらしかった。初秋を迎える界隈は涼しい風が吹いていて、夜半となれば寒さすら感じる。

 馬鹿は風邪を引かないというけれど、心配だった。


 寝ている和輝の肩にブランケットを掛けてやり、霖雨は彼に代わって家事を熟すことにした。この家の健康を握る食事は彼に一任されているので、心苦しかったのだ。


 掃除と洗濯を終えても、和輝は一向に起きる気配が無い。

 彼が熟睡している時は、何かトラブルに巻き込まれている可能性がある。疲れているのなら寝かせて置いてやりたいが、リビングに放置する訳にもいかない。


 葵は、如何したのだろう。

 いるのなら、起こして遣れば良いのに。


 此処にいないオーナーを内心で責め、霖雨は和輝の肩を揺すった。

 予想に反して、和輝はすぐに目を覚ました。


 透き通るような光を宿した双眸は睡魔に微睡んでいるけれど、意識を取り戻したので一安心だった。

 寝惚け眼を擦る小さな青年を苦笑いで見下ろす。




「おはよう、霖雨。今、何時?」

「午前九時半だよ。何時から寝ていたの?」

「……昨日の、昼過ぎ」




 ぽつりと呟いた和輝が、呆然と虚空を見詰める。

 よくも、そんなに長い時間寝られるものだ。呆れを通り越して感心してしまう。


 霖雨が黙っていると、和輝は顔を上げた。




「ーー葵は?」

「知らないよ」

「寝てるのかな。起こして来る」




 寝坊という程の時刻でもないけれど、と思いながら、止める気は無かった。

 和輝は覚束ない足取りで葵の部屋に向かい、軽くその扉を叩いた。乾いたノックの音が転がった。


 返事は無かった。

 寝ているのかも知れない。


 肩を落とした和輝は、そのままキッチンへ入った。思えば丸一日何も食べていなかったので、空腹だった。


 手際良く朝食の準備を始めた和輝を見ながら、霖雨は手持ち無沙汰になってテレビの電源をいれる。ワイドショーが映ったが、目新しく興味を惹かれる話題は無かった。


 ぼんやり流し見ている間に、キッチンからは香ばしい匂いが漂って来た。何かの焼ける音を横に、朝食のメニューを考える。

 和食だろうか、洋食だろうか。

 ぼんやりしている間に、調理を終えたらしい和輝が食器棚から皿を取り出していた。

 和輝が、ぽつりと呟いた。




「あれ?」




 何気無い呟きはそのままに、和輝は首を傾げながらリビングへやって来た。

 厚焼き玉子と冷奴、納豆に白米。純和風の朝食メニューに、食欲が唆られる。

 個別に焼き鮭の載せられた皿が二枚。大根おろしが添えられている。

 二人分の朝食だった。霖雨が顔を上げると、和輝が答えた。




「葵、出掛けているみたいだったから」

「そうなのか」




 和輝には、透明人間と呼ばれる程に存在感の希薄な葵の気配が解るらしい。

 霖雨には全く解らない。隣にいても、声を発さなければ気付かないくらいだった。


 二人で手を合わせ、食事を開始する。

 テレビの雑音が無くとも、決して居心地の悪くない沈黙だ。このまま電源を落としても構わないが、今更とも思うので、行動には移さない。

 黙って咀嚼する和輝がぼんやりしていた。先程の呟きを思い出して、霖雨は問い掛けた。




「如何した? 何だか、ぼんやりしているけど」

「寝過ぎて、まだ目が覚めない」




 和輝が苦笑いをする。

 霖雨も釣られて笑ったが、其処で逡巡する。

 彼の嘘は見破れない。だが、思考回路が単純なので行動の先が予想し易い。




「何かあっただろう」

「何で?」

「何と無く」




 和輝の部屋に捨てられていたエアメール。二人分の朝食。キッチンで溢れた呟き。ーー和輝は何かを隠している。

 確信を持って問い掛けると、和輝は呆気無い程にさらりと答えた。




「葵のマグカップが、無いんだ」

「……部屋に持ち込んでいるんだろう」

「潔癖の癖に面倒臭がりだから、朝には流し台に置いて行くんだ。食器棚にも無いし、流し台にも無い」




 朝食を掻き込むように食べ終えると、和輝は慌ただしく挨拶を済ませて席を立った。

 そのまま真っ直ぐに葵の部屋に向かった。

 霖雨は焼き鮭を突きながら、部屋の向こうから響くだろう罵声に身構える。

 ノックをするが、返事は無い。和輝は一言断りの言葉を呟いて、その扉を開け放った。




「あれ?」




 既視感のある声がした。

 霖雨が振り向くと、和輝は部屋の前で立ち尽くしていた。

 如何した、と問い掛ける間も無く、彼の呟きの意味を理解する。


 部屋の中には、何も無かった。

 まるで、其処には始めから何も存在していなかったようにがらんとしている。

 葵はおろか、家具も無い。埃一つ落ちていない。




「葵は、」




 霖雨の声は、殺風景な部屋に木霊した。当然、返事は無い。


 透明人間が、忽然と姿を消していた。










 涙雨と傘

 ⑴透明人間の消えた日










 主不在の住居は、余りにも非現実的だった。

 自分の記憶すら信じられず、霖雨は額を押さえて立ち尽くす。神木葵がいない。

 いないだけなら、それでいい。けれど、家財一式と共に姿を消したその様は、まるで夜逃げでもしたかのようだ。

 和輝と霖雨が寝ている間に忽然と姿を消したのだ。霖雨は兎も角、リビングで転寝をしていただけの和輝に勘付かれず姿を消すというのは、出来過ぎている。

 顔面を蒼白にしながらも、寝惚け眼で棒立ちする和輝を見遣る。この症状には覚えがある。ーー睡眠薬の後遺症だ。


 また、葵が薬を盛ったのだろうか。

 そして、和輝は何の疑いも無く、それを呑んだのだろうか。




「葵を、探して来る」




 一瞬にして睡魔を吹き飛ばした和輝が、瞳に確かな覚悟を滲ませて言った。

 以前、霖雨が誘拐された時には三日間不眠不休で駆け回っていたらしい。

 今にも家を飛び出しそうな和輝の首根っこを捕まえて、霖雨は言った。




「電話してみる」

「繋がらないよ、きっと」




 不吉な予言をして、和輝はその場にしゃがみ込んだ。

 霖雨も同意見だったが、このまま飛び出してしまいそうな和輝を此処に繫ぎ留めなければならなかった。和輝の動揺が手に取るように解る。だからこそ、自分が冷静にならなければならない。


 予言の通り、電話は繋がらなかった。掛けた先で、この番号が使われていないことを機械音声に告げられたのだ。


 携帯電話が繋がらないと、既に打つ手は無い。黙り込む霖雨を察して、和輝が立ち上がった。

 慌てて霖雨はその腕を掴んだ。




「何処に行くんだ。手掛かりでもあるのか?」

「解らない。でも、此処にいたって葵は帰って来ないよ」

「如何して、そう思う」

「自分の痕跡を消していなくなったんだ。ーーそうだ、役所に訊いてみよう」




 掴まれた腕はそのままに、和輝はポケットから携帯電話を取り出した。

 役所に電話したところで、個人情報を教えて貰えるとは思わない。霖雨はその遣り取りをぼんやり見守った。


 短い通話を終えた和輝は、感情を喪失させた無表情だった。




「住居の権利は譲渡されているらしい」

「誰に」

「書類上では、霖雨だ」

「はあ?」




 霖雨は声を上げた。意味が解らなかったが、此処で和輝が嘘を吐く必要も無い。




「了承した覚えは無いぞ」

「書類の偽造くらい、葵なら朝飯前だろ。不当な取引だって役所に申し出れば、契約は破棄されると思う」




 頭が痛い。霖雨はこめかみを押さえた。

 このまま役所に申し出てもいいが、そうなると、住居を失った自分達は路頭に迷うことになる。

 葵の書いた筋書き通りなのだろう。忌々しい。

 解っていたけれど、八方塞がりだ。現状を知れば知るほど、泥濘に嵌るように悪化している。




「葵を探そう」

「勿論。ーーでも、如何やって?」




 何の手掛かりも無く、街へ飛び出す訳にはいかない。此処は母国とは違い、危険に溢れている。

 葵を探すことには賛成だが、それを受け入れてしまうと、和輝は危険も顧みず飛び出してしまう。

 居ても立っても居られない和輝は、唇を噛みながら腕を組む。


 葵のことを知る共通の友人はいない。

 バイト先は閉鎖され、現在の葵がどのように収入を得ているのかも解らない。

 大学院にも掛けてみたが、長期の欠席届けが出ているらしい。その事情は第三者には当然ながら知らされなかった。


 和輝は目を伏せ、絞り出すような小さな声で言った。



「葵が俺に言ったんだ。何処にもいなくなるなよって」

「うん」

「こんなの、ずるいじゃないか」




 和輝が、ぎゅっと目を閉じた。

 苦く歪められた表情の訳を、霖雨は理解する。

 そうだ。こんなのは、ずるい。

 一言の相談も無く、さよならも言わず、何の痕跡も残さず、まるで全て夢だったとでも言うように姿を消した。


 何処にもいなくなるなと釘を刺しておきながら、自分は忽然と消えるのか。


 霖雨は顔を上げる。こんなところで、膝を着く必要は無い。




「お前、何か隠していること無いか?」

「俺が?」

「葵のことで、何か隠しているだろう」




 和輝は首を振った。




「隠していたら、言うよ。葵を探す手掛かりになるんだから」

「つまり、手掛かりにならないと思うことは、言わないってことだな」

「俺のこと、疑ってるのか?」




 霖雨とて、この場で仲間割れする気は無い。

 だが、手掛かりがあるとしたら、それは質量の無いものだ。霖雨の記憶、和輝の気付き。それが、葵へ繋がるように思う。


 口をへの字に曲げた和輝を前に、霖雨は大きく溜息を吐いた。




「俺が探す」

「うん。手分けしてーー」

「和輝は、何もするな。此処にいろ」




 不満そうに、和輝は口を尖らせた。

 霖雨は言った。




「何処にもいなくなるなよって、言われていたんだろう。お前は葵の道標なんだから」




 霖雨が言うと、和輝が奇妙な顔をした。


 本当に?

 本当に、そう思う?


 泣き出しそうな顔で、和輝が問い掛ける。霖雨は咄嗟に言葉を詰まらせた。

 和輝は俯いた。絞首刑に処せられる罪人のようで不吉だ。霖雨は慌ててその肩を撫でる。

 和輝が言った。




「全てを救えるとは思っていない。俺は、目の前の一つすら救えない」

「何の話だよ」

「俺は、誰かの道標になんて、なれない」




 胸が潰されそうなヒーローの弱音だった。霖雨は掛ける言葉が見付からず、ただ黙ってその肩を撫でる。


 同居人の失踪は確かに衝撃的だ。悩みがあったのかも知れない。相談にすら乗れなかった自分の不甲斐なさも感じているだろう。けれど、友達とは言え、他人だ。

 霖雨には解らない。解らないのは、和輝が何かを隠しているからだ。




「何を隠している」

「隠してはいない。ーー言う必要が無いから、口にしないだけだ」




 和輝が答えた。

 つまり、言葉にすれば、誰かが不利益を被るということだ。だから、容易く口に出来ない。


 現時点で、口を割らせるのは無理だ。霖雨は諦める。

 だが、意気消沈したヒーローを置いて行くのは、余りにも心苦しい。




「葵が何の手掛かりも残さずに消えるとは思わないよ」




 霖雨は言い切って、天井を睨んだ。

 其処には、墜落することも、出て行くことも出来ない紙飛行機が吊り下げられていた。

 もしも、葵が消えると決めたのなら、此処にいたという証拠すら残さないだろう。部屋の中が伽藍堂になったように、この紙飛行機だって消えていなければおかしい。

 どうせ、住居の指紋だって拭き取られているのだろう。それでも、目に付くこの紙飛行機を置いて行った意味を、霖雨は気付いている。




「此処で待ってろ」




 食べ掛けの朝食はラップを掛けて冷蔵庫へ入れて置く。

 風が冷たくなって来たので、薄手のライダースジャケットを羽織る。ヘルメットとバイクの鍵は持った。手掛かりも無いけれど、霖雨には、葵の考えが何となく解る気がした。


 葵には何かの脅威が迫っていたのだ。そして、それは自分達を巻き込む恐れがあった。だから、姿を消した。


 和輝が何を隠しているのかは解らない。

 恐らく、葵の失踪には直接的な関係は無い。関係があるなら、今頃、和輝は家を飛び出して葵の元へ駆け付けているだろう。

 彼の隠し事は、このままでも良い。何時か壁としてぶつかる時が来るのだろうが、それは今では無い。


 霖雨が玄関に向かうと、死にそうな顔をした和輝が付いて来た。




「頼んだ」




 掠れるような声で、和輝が言った。

 この無敵のヒーローみたいた彼が、弱り目を見せてくれるのが嬉しい。信頼している証のように感じてしまう。

 霖雨は笑った。




「頼まれた」




 すると、和輝も釣られるようにして笑い返した。

 弱り目を一瞬で消し去った和輝は、希望の宿った瞳をしている。ーー多分、霖雨がいない間、静かに家で待つなんてことはしないだろう。

 止める気も無いので、霖雨は念を押すつもりで言った。




「何処にもいなくなるなよ」

「消える予定は無いよ。だから、行ってらっしゃい」




 ふうん?

 霖雨は曖昧に笑い、扉を押し開けた。初秋の柔らかな日差しが降り注ぐ。振り向くと、和輝がにっこりと微笑んでいる。何かを企んでいる顔だ。


 霖雨は不敵な笑みを見遣り、後ろ手にそっと扉を閉めた。

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