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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
番外編、或いは序章
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僕等に奇跡は訪れなかった

 夏の日差しは、白々しい蛍光灯の光に似ていた。色を失った筈の世界が美しく彩られて、輝いて見える。


 これは目の錯覚だ。

 視力に問題が無いのならば、目に見えているものは精神の影響を受けているだけなのだ。人が信じたいものしか信じないように、主観でしか物事は捉えられない。


 結論付けた葵に、和輝が言った。




「夏が終わるね」




 幾許かの寂寥を連れ、和輝は黄色く染まった街路樹を眺めているらしかった。

 エアコンの電源は落ちている。今朝、掃除をすると言ってフィルターやカバーを取り外したのだ。分解されたエアコンは何とも不恰好で、鯵の開きに似ていると葵は思った。

 冷えた紅茶をグラスに注ぎ、和輝が差し出した。感慨無く受け取り、葵はそっと顔を上げる。

 見る者を惹き付ける美しい双眸は胡乱だった。何処か遠くを見詰め、微睡んでいる。その症状を、葵は知っている。


 睡眠薬の副作用だ。


 アルバイト先で寝ていた和輝を引き摺ってから、ずっとこの調子だ。何処かで睡眠薬を投薬されたのだろう。

 目覚めた和輝は、自宅にいたことにも不審がらなかった。まるで、何かを予期していたようで、葵の方が不気味に感じてしまう。




「葵」




 寝言のように小さな声で、和輝が囁くように呼んだ。葵は応えず、窓の外に広がる夏の終わりを見ていた。

 蝉時雨が懐かしい。母国では、命を削るような蝉の声が響いていた。正に雨の如く降り注ぐ蝉の音に、日本語の美しさを感じたこともあった。年々、その個体数は減少し、遠くない未来、蝉時雨は聞かれなくなるだろう。


 柄にも無く郷愁に浸っていると、脳裏は突如として紅く染められた。


 夕陽、サイレン、頬の紅潮、血溜まり。

 雑踏が蝉時雨のように降り注いでいた。

 あれは何年前のことだっただろう。自分は未だ、中学生だった。

 押し寄せるマスメディアの中、規制線の内側にいる自分は誰にも知覚されていなかった。当事者でありながら、パトカーに押し込まれて保護された。労わるように肩を撫でた掌の感触を今も覚えている。


 葵に肉親はいない。

 両親と兄は、葵が中学生の頃には皆、殉職している。神木家は代々警察官の家系で、葵もまた、その道を義務付けられていた。

 高校を卒業し、葵は公立大学へ進学し、哲学を専攻した。それは、親族の願いを切り捨てることと同義だった。

 結果、親族とは対立し、絶縁状態となった。


 葵に家族はいない。親しい人間もいない。

 孤独だ。この世に、救いは無い。




「葵」




 和輝が、呼んだ。葵は夢から醒めたように意識を取り戻し、寝惚け眼のその存在を認識した。

 色を失った世界が急速に色付いて行くような気がした。葵は、水滴の張り付いたグラスへ手を伸ばした。

 口内に広がるアールグレイを味わい、喉を鳴らして飲み下す。和輝は黙って此方を見ていた。


 この世に救いは無い。けれど、彼は何度でも訴える。

 希望がある、希望がある、希望がある、と。

 そして、その言葉を証明するみたいに、何度でも手を伸ばす。

 自分の身も顧みず危険へ飛び込んでいくものだから、命が幾つあっても足りない。彼は当たり前みたいに人を救おうとするけれど、命には限りがある。


 この世に救いは無いと思っていた。だが、希望はあるのだ。恐らく、彼は自分に残された最後で最大の救いなのだろう。その手を離せば、もう、終わりだ。


 その手を振り解けばいいのだろうか。手を繋いだ時には、離す瞬間があることを覚悟しなければならない。離されるくらいなら、自分から離れてしまう方がいい。

 そう思っていたのに、彼は振り解いた手を何度でも掴んで来る。絆されているのだ。解っているのに、自分にはもう、それを離す手段が無い。

 ならば、縛り付けてしまおうか。

 この救いが失われないように四肢を削いで、縛り付ければいいのだろうか。


 どうせ、何時かは喪われる。

 彼も何時かは命を落とす。




「葵」




 名を呼んだ和輝が、ゆっくりとその場に座り込んだ。平均身長を下回る痩躯は、まるで子どものようだ。

 薬剤の影響で睡魔に襲われ、必死に瞼を押し上げる様は、イカロスが蝋で固めた翼で大空を目指し墜落したように滑稽だった。

 葵は、彼に睡眠薬を投薬した相手に予測が付いている。確証は無いが、他に思い当たる相手もいなかった。


 それを伝えたところで、和輝は何も言わないだろう。証拠も無く相手を否定しない。

 根拠の無いものは信じられない自分と違い、根拠の無いものは疑えない。


 不意に視線を逸らした和輝が、茫洋と空を眺めて言った。




「紙飛行機を作ろう」




 唐突な提案に、葵は面喰らった。

 和輝は、善は急げとばかりに立ち上がり、古紙を纏めている紙袋の中からA4のコピー用紙を数枚抜き取って戻って来た。

 ここ数日、霖雨が就活の為の資料集めや、書類作成を行っていたので、古紙が多い。母国のようにゴミ回収に対して厳格な地域ではないので、葵は大体一般ゴミとして纏めて棄ててしまう。プライバシーに関わる書類は作成しない。


 紙の束をテーブルの中央に置き、和輝は拙い手付きで紙を折り始めた。

 葵はそれをぼんやりと見ていた。


 途中、何度か手が止まった。記憶している折り方を思い出し、或いは考案しているらしかった。

 葵は一切手を出さなかった。折り紙の経験が無かったので、一枚のコピー用紙が様々な形の飛行機に変わって行く工程を見ているのは面白かった。

 まるで、手品みたいだ。

 一枚の紙は平面でしか無いのに、手を加えることで立体化して、空を飛ぶことが出来る。


 和輝はあるだけのコピー用紙を使って、異なる形の紙飛行機を作り上げた。ボールペンを取り出して、その翼に名前を記していく。


 イカ飛行機3号、ツバメ号、カブトガニ号。

 メーヴェ号、イカロス号、アルトバイエルン号。

 限界突破号、霖雨元気出せ号、葵頑張れ号。


 名前の由来を訊いてみたかったが、後半の適当さに問い掛けることは躊躇われた。どうせ、大した意味は無いのだろう。


 飛行機を抱えた和輝は、自室のドアを開け放った。飛距離を測りたいらしい。

 どの飛行機が最も長く飛行するのか、葵も少しばかり興味があった。

 飛行機を投げる前に名前を叫ぶので、シュールな光景だと遠いところで考えていた。


 和輝が『霖雨元気出せ号』を飛ばした時、声を聞き付けた霖雨が部屋から顔を覗かせた。訝しむような霖雨は、目の前を滑空した紙飛行機に眉を寄せた。


 『霖雨元気出せ号』は、和輝の自室を抜け、リビングを横切ってテレビ台の前へ着陸した。

 記録更新だと、和輝が声を上げて喜んでいる。

 霖雨は冷めた目で問い掛けた。




「何をしているの?」

「何をしているんだろうな……」




 第三者に言われて、酷く冷静になる。

 自分が馬鹿なことをしている自覚が芽生えて、頭が痛くなった。




「葵頑張れ!」




 和輝が叫んだ。

 急に名指しで応援されたので、葵は驚いた。それが機体の名前だと理解した時には、飛行機はリビングを抜け、キッチンへ続くカウンターを潜っていた。


 葵は、滑らかに空を切り裂く機体に過去を見たような気がした。


 紙飛行機は、キッチンの壁に衝突すると、そのまま墜落した。

 コピー用紙で出来た機体が炎上する筈も無い。燃え盛る機体が瞼の裏側に蘇るけれど、目の前の燃えないそれが現実感を滲ませた。


 墜落した紙飛行機を追い掛けた和輝は、キッチンでしゃがみ込んだ。小さな背中はカウンターの向こうに隠れてしまっている。

 霖雨は呆れたような溜息を零し、腰に手を当てて言った。




「よく飛んだな」

「ーーでも、墜落したじゃないか」




 葵の口からは、意図しない言葉が漏れた。

 霖雨はそれを受け止め、嘆くように答えた。




「そうだね」




 声が響くと、和輝がカウンターの奥から勢いよく立ち上がった。

 右手に摘んだ紙飛行機には、蚯蚓ののたくったような悪筆で『葵頑張れ号』と馬鹿みたいな名前が記されている。

 和輝が言った。




「じゃあ、堕ちない飛行機にしよう」




 キッチンから脚立を取り出して、和輝はリビングへ戻って来た。

 天袋に手が届かない和輝だけが必要とする脚立は、葵にとっては場所ばかり取る邪魔物だった。主にキッチンで使用されるそれは棄てることが出来ないので、葵は常々忌々しく思っていた。


 部屋から持ち出した画鋲とタコ糸で紙飛行機を吊るし、和輝は満足そうに笑った。

 リビングの一角には紙飛行機が所在無さげに吊るされている。宙ぶらりんの紙飛行機が、その場でくるくると旋回していた。




「これで堕ちない」




 手を繋いだら、何時かは離す日が来る。

 空を飛んだなら、何時かは堕ちる日が来る。

 それでも、それでも、懲りもせずに手を伸ばす。


 紙飛行機は白々しい蛍光灯の光を反射している。

 単純な思考回路が、羨ましくさえある。葵は言った。




「だが、何処にも行けない」




 和輝は驚いたように目を丸め、そして、微笑んだ。




「じゃあ、俺が連れて行ってやるよ」




 紙飛行機から思考は分離してしまったらしい。

 霖雨がこれ見よがしに肩を落とす。葵は皮肉の一つでも言ってやろうとして、ーー黙った。


 何処にも行けなくても、良いか。

 狭い部屋の中から出られなくても、本来の目的を見失ってしまっていても、良いか。

 こいつが連れて行ってくれるのなら、それで良いか。


 そんなことを、思った。










 僕等に奇跡は訪れなかった









 昼食は豚の冷しゃぶだった。

 キャベツの千切りの上に、湯搔いた豚ロースが山盛りになっている。側には胡麻だれとポン酢が用意されていた。大皿には海藻のサラダが盛り付けられ、霖雨は気付いていないかも知れないが、手抜きのメニューだった。


 エアコンを稼働させる必要の無い快適な気温だ。洗濯されたフィルターやカバーは取り付けられ、エアコンは蝉のように壁に張り付いている。


 リビングの一角には、紙飛行機が吊られていた。きっと、黙っていれば、何時まででもそのままなのだろう。墜落した他の機体は、リビングのチェストに飾られている。


 昼食を平らげると、和輝は洗濯物を取り込む為に庭へ出て行った。霖雨は相変わらず就活に追われているらしく、うんざりした顔で部屋に戻って行った。


 葵は、紙飛行機を見詰めた。

 汚い文字で『葵頑張れ号』と記されている。半日をこんなことで潰してしまった。馬鹿みたいだ。


 馬鹿みたいだけど、それで良いと思った。


 山積みになったコピー用紙。

 邪魔物の脚立。

 堕ちない紙飛行機。


 赤く染まった世界。

 黄色い規制線。

 知覚されない透明人間。


 押し寄せるマスメディア。

 銃声、悲鳴、迸る血液。

 立ち塞ぐ友人。

 向けられた銃口。

 振り上げたナイフ。


 母国からの手紙。

 友人からの電話。

 空港へ滑り込む銀色の機体。


 轟音、爆音、紅蓮の炎。

 助けを求める声。

 嗚咽、嘆き、憤怒。



 ーー手を伸ばせ。必ず、掴んでやるから。


 ーーお前が大切なんだよ! お前に生きていて欲しいんだよ! お前の側にいたいんだよ! 解れよ! 友だちだろ!




 和輝が、霖雨が言った。言ってくれた。

 それだけで、もう充分だった。




「……関わり過ぎたな」




 胸の内に苦いものがせり上がって来て、葵は目を伏せる。

 こんなつもりじゃ、なかった。




「あれ」




 何かが喉の奥から込み上げて、何故か両目が熱い。葵は理解しないまま、それを拭った。


 楽しかったよ。

 届く筈の無い言葉を、胸の内に呟いた。声にしてしまったら、余計なものが一緒に零れ落ちてしまいそうだった。


 ぶら下げられた紙飛行機を見上げると、視界が僅かに滲んでいた。これは何だろう。

 人は死ぬ。出会いがあれば、別れもあるだろう。希望があれば、絶望もあるだろう。


 部屋の中は片付けた。自分の痕跡を残すものは何も無い。住居の所有権は譲渡し、携帯電話も処分してある。


 必要最低限の荷物を纏め、立ち上がる。

 視界の端に紙飛行機が映った。

 この紙飛行機一つくらいなら、持って行っても良いかと思ったが、面倒になって辞めた。大した手間では無い筈なのに、取り外すことは躊躇われた。


 鳥籠の中の鳥みたいだ。安全はあるが、自由は無い。

 だが、それでも良いと思った。



 準備は整った。

 さあ、夢は終わりの時間だ。










Applaud, my friends, the comedy is over.

(友よ拍手を! 喜劇は終わった)




 Ludwig van Beethoven

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