⑷僕等のヒーロー
視界が霞むような奇妙な錯覚だった。
陽炎の如く歪む様に既視感を覚え、霖雨の指先は痙攣のように震えた。
音も無く開かれた扉の向こう、中天の太陽の光が白く差し込んでいる。それが錯覚ではないと知った時、霖雨は導かれるように彼の名前を呼んでいた。
「葵ーー」
透明人間、サイコパス。
家主、同居人、友達。
様々な名前を持つその青年は、仮面のような無表情で直立していた。
「その馬鹿に触るな」
絶対零度の声が、槍の如く突き刺さる。
翡翠は伸ばした手を止め、くつりと喉を鳴らした。
「まるで、ヒーローみたいだねえ」
小馬鹿にするように、翡翠が言った。
再度、音も無く閉ざされた扉の前で、神木葵は笑った。息を呑む程に美しい微笑みだった。
長い冬を越えた草木が、春を迎えて芽吹くように。
氷に覆われた湖が罅割れ、鏡の如く空を映し出すように。
霖雨の喉は震え、声は形にならなかった。
葵はピカピカの革靴で床を叩き、昏睡状態のヒーローを見下ろした。微かに浮かんだ笑みは、何かを諦め、許容するかのように儚い。
隣に立つ透明人間を、霖雨は一挙一動を逃さぬようにと凝視する。
「さっさと起きろよ、馬鹿」
吐き捨てるように、葵が言った。
目の冴えるようなターコイズブルーのシャツが、白亜に染まる病室で強烈な存在感を放っている。
其処にいても知覚されない程に存在感の希薄な透明人間が、確かな質量を持っている。
その時だった。
弱々しく脈を打っていた心電図が、大きく波立った。
長い睫毛に彩られた瞼が震える。
綻ぶように、瞼が微かに開かれた。予定調和みたいに反応を示したヒーローが、苛烈な存在感を放って葵を消し去る。其処にいる筈なのに、神木葵は透明人間のように意識の中で溶けて行く。
ヒーローの掠れた声が、その名を呼んだ。
「葵」
ゆるりと腕が持ち上げられる。溺れる者が縋るように、和輝は葵の手を取った。
「やっと、かよ」
強張っていた和輝の口元が綻んだ。
大きな瞳に光が宿り、見る見る内に生命の活力が漲って行く。
遅ぇよ、葵。
悪態吐き、和輝の手に力が込められる。
もう二度と離すまいと掴まれた腕をそのままに、葵は無表情に見下ろしていた。
和輝がゆっくりとその身を起こす。
嘘だ。
霖雨は胸の内に吐き捨てた。
こんなものは都合の良い妄想だ。和輝が目を覚ます筈無い。葵が此処にいる筈無い。ーーそれでも、信じてみたい。そんな愚かな思考が、脳のシナプスを塗り潰す。
葵の腕を支えに立ち上がった和輝は、薄笑いを浮かべる翡翠を見上げていた。
寄り添うように並ぶ二人が揃って翡翠を見ていた。
葵が笑った。
「これが、俺のヒーローなんだよ」
まるで、それこそが生命の存在意義であるかのように。
葵の言葉に、今度は和輝が笑った。
悔しいけれど、俺にとっては最大で最後の救いなんだ。
諦めるように言う葵は、何処か誇らしげに見えた。
失っても、失っても、希望はある。
だから、諦めたらいけない。
霖雨の耳には、何時かのヒーローの言葉が鮮明に再生された。
もう戻らないと諦めていたものが手元に戻って来たみたいだった。
それは枯れた花が蘇り、咲き誇るような奇跡だ。冬の終わりを告げる春一番が、閉じ込められた病室の中を吹き抜ける。
その時、世界を打ち崩す程のサイレンが鳴り響いた。それは鼓膜を貫くように響き渡る。
何処かで誰かの悲鳴が劈き、破裂音が数発届いた。
現実味を帯びない急転直下の状況で、彼等はふと顔を上げただけだった。
続いて数発、銃声が鳴り響いた。
困惑し、動揺し、狼狽する霖雨を置いてけ堀に、彼等は凛然と立っている。
急転直下の状況で、 彼等の周囲だけが切り取られたみたいな静寂に包まれた。翡翠は愉悦に口角を吊り上げ、挑発するように問い掛けた。
「コンティニューするかい?」
緑柱玉の瞳は、透明人間を見ている。
対峙する二人は鏡に映したような相似形だった。葵が何かを答える前に、サイレンを遮って和輝が叫んだ。
「何度でも!」
昏睡状態から目を覚ましたばかりとは思えない芯の通った強い声だった。
鳴り響くサイレンの中で、翡翠はくるりと踵を返す。薄っぺらな背中は何事も無かったように扉へ向けて進んで行く。
和輝が追い縋るように声を上げた。
「逃げるのか!」
扉を開けた翡翠が振り返って、楽しそうにころころと笑う。
「延長戦の始まりだよ」
翡翠が言った瞬間、扉の向こうから烏のように真っ黒い影が飛び出した。
影は銃器を脇に抱え、その照準を此方へ合わせていた。
引き金が引かれる刹那、和輝と葵が勢いよく足を踏み出した。
破裂音が連発し、白い病室の壁に穴を穿つ。間一髪のところで、身動きの出来ない霖雨を引っ掴んで和輝が倒れ込んだ。同時に、葵が銃弾を躱し前へ躍り出る。その右足は武装した何者かの首筋を捉えて、恐ろしい力で振り抜かれた。
耳を塞ぎたくなるような鈍い音がして、武装した何者かはスーパーボールみたいに弾け飛んだ。
和輝と共に床へ倒れ込んだ霖雨は、武装した何者かが壁へ打ち付けられる様を呆然と見ていた。そして、ふと視線を上げた時、翡翠の姿は忽然と消え失せていた。
蜃気楼みたいに立ち直った葵は、昏倒する何者かを見下ろしている。虚ろな双眸は、まるで幽霊のようだった。
彼が消えてしまう前に、その手を取らなければならない。何かに急き立てられ、身を起こす。だが、意識を取り戻した筈のヒーローは伏せたまま胡乱な目付きで荒い呼吸を繰り返していた。
「和輝?」
呼び掛けても、反応は無かった。
先程まで昏倒状態で、最悪の場合、生涯植物状態とまで診断されていたのだ。
頭部に巻かれた包帯には赤い血液が滲み出している。霖雨は医師ではない。だが、流石に、頭部を強打し意識を朦朧としている重症患者を動かしていいとは思えない。
葵は光の無い双眸を此方に向け、そっと言った。
「避難しろ」
「ーー葵は?」
問い掛けると、葵は力無く笑った。
「やらなきゃいけないことがある」
果たして、その真意とは?
霖雨は瞠目した瞬間、透明人間は幻のように目の前から消え失せていた。
「葵!」
凭れ掛かる小さな身体を抱き留めたまま、霖雨は叫んだ。返事は無く、病室には不気味なサイレンが響き続けていた。
誰が駒鳥殺したの
⑷僕等のヒーロー
馬鹿野郎。
胸の内に吐き捨て、霖雨は和輝を背負った。訳の解らない物騒な状況に、和輝を置いて行くことは出来ない。このままベッドへ押し込む訳にも行かず、消えた葵を追い掛けることも出来ずに霖雨は臍を噛んだ。
如何する。
このまま、葵を放って置くことも出来ない。
状況を知る必要がある。今、何が起こっているのだろう。
軍隊のように武装した何者かの存在、非常事態を告げるサイレン。消えた翡翠と透明人間。意識の無いヒーロー。
其処で、霖雨はこの状況を知っているような気がした。
武装組織に占拠された建物。消えた透明人間。ーーああ、これは、葵の悪夢の続きなのだ。
彼が母国を離れなければならなかった理由と同じだ。葵が大学に通っていた頃、彼を狙って武装組織が建物を占拠した。そして、主犯は葵を呼び出す為に人質を一人ずつ殺して行った。
ーー葵を誘き出そうとして、サイコパスの主犯は数十人を殺害した。結局、葵は犯人の元に出向いて、殺そうとした。
嘗て、和輝が語った事件を思い出す。
これがその悪夢の続きならば、葵の起こす行動は一つしか無かった。
何処かで銃声が聞こえる。これは透明人間を呼び出す為の合図なのだ。
霖雨は和輝を背負ったまま、立ち上がった。病室の扉をそっと開け、廊下の様子を覗き見る。サイレンは途絶え、時折、銃声と悲鳴が上がった。
廊下はしんと静まり返っている。暖かな色合いの床には、真っ赤に染まった病院関係者が倒れ込んでいた。
医師であろう男性の白衣は赤く染まり、入院患者らしき人間は顔を強張らせて天井を睨んだまま動かない。誰も彼も不用品みたいに一緒くたに打ち捨てられていた。
地獄絵図だ。
銃弾によって頭蓋には穴が空き、脳漿が飛び散って、窓には血痕が走る。
母国にいた頃、葵は大学占拠の主犯の元に出向いて殺そうとした。それを止めてくれたのは同級生だった。
だが、その同級生も死んでしまったのだ。
ヒーローは、失っても、失っても、希望はあると言った。
透明人間は、希望は幾度と無く打ち砕かれて、窖に転がり込むように絶望した。
この世は希望か、絶望か。彼等はそんな水掛論をしていた。霖雨には解らない。ーーだが、何時かヒーローが言ったように、諦めたくないし、信じたいと思う。
子どものように小さな体躯を背負いながら、霖雨は細心の注意を払って病室を出た。無人の廊下を進み、薄暗い非常階段を目指す。
この建物は地上三階、地下一階だ。現在地は最上階の隅にいる。建物の中央にはエレベーターが東西に分断するように存在している筈だ。
当然、エレベーターは武装組織の管理下にあるのだろう。そもそも、敵対するものが何者なのかすら霖雨には解らない。
もしも。
もしも、この八方塞がりの状況を打開する方法があるとするなら、一つしかない。
葵にとっての最後の希望ーー。
霖雨は意識を朦朧とさせているヒーローをそっと覗き見た。
目は薄らと開かれているが、とても平常とは言い難い。それでも、彼が此処にいる限り、葵は何もかもを手放しはしない。
ならば、自分はその希望を守らなければならない。
持ち堪えてくれと祈りながら、霖雨はヒーローをこの地獄から脱出させる為に出口を目指した。
非常階段に到達した頃には、霖雨は身体中にしっとりと汗を掻いていた。緊張に強張る指先に力を込めて、階下を覗く。
フロアの扉の前には、当然ではあるが武装した見張りが立っていた。扇風機みたいに左右に首を振って、警戒を怠らない。
武装勢力に対して、霖雨には抵抗の手段が無い。自衛すら儘ならないだろう。
如何する。
霖雨は唇を噛んだ。それと同時に、背中がふっと奇妙に軽くなった。
反動で霖雨の身体は前方に傾いた。その視界の端に、光り輝くヒーローの背中が見えた。
「和輝!」
猫のように手摺を乗り越えた和輝が、武装した何者かに向かって飛び掛かる。気配を察知した者は脊髄反射のように銃口を向けた。
ごつり。
嫌な音がした。マスクを被った何者かは後方へぐらりと倒れ込んだ。所持していた銃器が階下へ滑り落ちる。
着地した和輝は、その場にしゃがみ込んだままだった。
霖雨は素早く体勢を立て直し、転げ落ちるように駆け寄った。
包帯に血を滲ませ、和輝は静かに立ち上がる。
隣にしゃがみ込んだ霖雨に気付くと、和輝が言った。
「決めたんだ」
泣き笑いみたいに顔を歪ませて、和輝が言う。
「何処にもいなくならないって」
それは、透明人間が消える前に交わせなかった約束だった。
大きな瞳が生理的な涙に潤んでいた。熱に浮かされたように頬は紅潮し、声は震えている。
自分は、殴ってでも彼を止めるべきなのだろう。
無茶をするな。警察を呼ぼう。逃げよう。ーーそう言って、彼を引き留めるべきなのだ。
だが、その時に彼は従うだろうか。
涙の滲む双眸に映る光は、決して揺らぐことの無い強い意志だ。殴られても、倒されても、彼は這ってでも葵を追うのだろう。
霖雨は立ち上がらないヒーローに肩を貸し、立ち上がった。それを予測していなかったらしい和輝が瞠目する。
悔しいけれど。
葵の言葉が蘇る。霖雨も同じことを思う。
悔しいけれど、これがヒーローなのだ。
一般的な成人男性に比べて圧倒的に小さく細い。重症を負って自力で立つことも儘ならない。けれど、これが自分達のヒーローなのだ。
霖雨はそれでいいと思う。それがいいと、思う。
「葵を追うぞ。俺も行く」
「でも」
「お前の相棒に託されているんだ」
此処にいないヒーローの相棒、白崎匠の声が蘇る。
和輝は驚いたように目を丸めた。
「何時の間に、そんな話をしたの?」
不思議そうに問い掛けるヒーローには答えなかった。嘘を見破る彼には沈黙が一番だ。
和輝もそれ以上、追及はしなかった。
感謝される謂れも無いけれど、和輝が小さな声で礼を言った。
「霖雨の好物って何?」
唐突な質問に調子を崩される。
緊迫した状況を打ち砕く言葉だ。霖雨にはそれが可笑しかった。
「とんかつが食べたい」
霖雨が言うと、和輝は了承したとばかりに明るく笑った。
いいよ、楽しみにしていて。
そう言って笑う和輝が眩しく見えた。彼を繋ぎ止める為の未来の約束だ。
霖雨はヒーローを引き摺って歩き出した。




