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雨にも負けず  作者: 宝積 佐知
誰が駒鳥殺したの
100/105

⑶搾取

 彼は何も言わなかった。

 物分りの良い子どもみたいに受け入れて、何事も無かったかのように笑っていた。


 黙って身を引いた和輝の姿を思い出して、心臓が握られたみたいに痛くなった。

 あの時、彼は何を聞いて欲しかったのだろう。彼に落ち度は何も無かった。自分が勝手に追い込まれて八つ当たりしただけだ。


 こんな時程、自分の弱さが嫌になる。誰もが彼のように生きられる訳ではないけれど、許される態度では無かった。

 罪悪感に押し潰されそうで、勤務の為に家を出た彼にメールを送った。こんなものが謝罪になるとは思わないけれど、自分を慰める為に必要な作業だった。


 返事は無い。

 彼が家を出て数時間経ったが、未だに携帯電話は沈黙を守っている。


 和輝が本当に困っている時に、自分が何も知らないのでは馬鹿みたいだ。だから、困っていることがあれば、些細なことでも言って欲しい。

 そう言ったのは霖雨だった。だが、いざ彼が手を伸ばした時、霖雨は受け入れてやらなかった。和輝はきっと、そういう経験を多くして来た。だから、自分の弱さを隠すのだ。


 何でもかんでも受け入れてやれる訳ではない。霖雨が何時でも彼の心に寄り添って耳を傾けられる訳でもない。

 それでも、拒否されて、文句の一つも言わずに引き退った彼の顔を思い出すと胸が苦しくなる。


 聞いてやれば、良かったな。

 霖雨が言えと言った翌日に、和輝は聞いて欲しいと訴えたのだ。何か理由があった筈だった。


 今日は課題に追われて、遅くまで研究室に籠らなければならない。就寝時刻の早い和輝と一緒に夕食を取ることは出来ないだろう。


 ごめんの一言で、彼は笑って許してくれるのだろう。そして、少しだけ眉を下げて、大丈夫だよと言ってくれるのだろう。

 あの笑顔が、恋しかった。


 昼食の為に大学院を出て、近場のカフェで軽食を取った。その帰り、近道の路地裏を抜けると見たことの無い雑貨屋が開店していた。

 若い女性の好みそうな可愛らしい小物がショーケースに並んでいる。霖雨には縁の無い場所だったが、陳列しているある小物を見て足を止めた。


 掌に収まる程のスノードームだった。

 カプセルを半分に割ったような透明なプラスチックの容器の中、灰色の犬が行儀良く前足を揃えて座っている。

 赤い土台には雪を模した粉が積もり、まるで忠犬ハチ公みたいだなと思った。

 何時か、和輝の作ったケーキに同じようなキャラクターが乗っていた。彼は犬ではなく、狼だと主張していた。それが、目の前で閉じ込められたものと重なって見えた。


 店内に客がいないのを良い事に、霖雨は足を踏み入れた。

 華奢な室内灯の照らす店内の奥には、店員らしき若い女性がいた。霖雨がスノードームを持って行くと、贈り物ですか、と尋ねた。


 こんなものが謝罪になるとは思わないけれど。

 そんなことを思いながら、霖雨はスノードームを購入した。


 クリスマスを思わせる赤い包装紙に包まれ、隅には緑色のリボンが施された。彼女もまさか、同居人の成人男性への贈り物とは思わないだろう。

 霖雨は恋人への贈り物を探していたようなことを適当に言いながら、店を後にした。


 大学院に戻ったら、また作業を再開しなければならない。

 うんざりしながら、重い足を動かす。その時、携帯電話が震えた。


 性急に取り出すと、携帯電話は着信を告げていた。ディスプレイには見覚えのある番号が表示されている。

 白崎匠だ。

 母国に残るヒーローの親友。奇妙な縁で、彼と電話をするのは慣れていた。霖雨が応答すると、ヒーローの相棒は柄にも無く焦った声で言った。




『和輝が線路に落ちたって』








 誰が駒鳥殺したの

 ⑶搾取









 真っ白い部屋の中、ヒーローが眠っていた。

 霖雨は彼の寝顔を幾度と無く見て来た。彼の死に顔すら見た事がある。

 ヒーローは病室の中に溶けてしまいそうに血の気の無い真っ白な顔をして、安らかに眠っていた。


 頭部はぐるりと包帯が巻かれているが、それ以上の異常は見られない。家を出た時と殆ど変わらぬ姿を保ち、心電図はその生命を知らせている。


 和輝が線路に落ちたと聞いて、霖雨は最悪の事態を想定していた。

 彼の細くも力強い四肢が切断され、血肉に至るまでの全てが失われたのではないかと思った。だが、和輝は五体満足で、静かに呼吸を繰り返している。


 目撃者はいなかった。

 電車の運転士は、彼がプラットホームから転落した瞬間のみを目の当たりにした。小さな身体は重力に従って転落し、あわや衝突というところで線路脇の避難所へ転がり込んだらしい。

 まるで、神の見えざる手が彼を救う為に導いたかのようだったそうだ。


 だが、転落の際に頭部を強打し、意識を失った。鉄の線路に打ち付けた頭部の衝撃は頭蓋骨を越えて脳にまで影響を与えた。


 自発呼吸は可能であることから、脳幹部に含まれる延髄に損傷は無いらしい。だが、未だに意識は戻らない。

 事故から数時間しか経過していないが、決して楽観視出来る状態ではないようだ。

 このまま意識が戻らない可能性があり、戻ったところでこれまでと同じように日常生活が送れる望みは低い。


 事故の連絡を受けて、彼の家族はこの場所へ向かっているらしい。ヒーローの親友、白崎匠も同様だ。


 大袈裟だな、と霖雨は思った。

 このヒーローのことだ。どんなに望みが薄くても、必ず回復するのだろう。そして、何でも無いみたいに目を覚まして笑ってみせる筈だ。霖雨はそう、信じている。


 土産の品であるスノードームは、彼のベッドのサイドテーブルに置いた。目を覚ました彼が呆れたように笑う姿が見たかった。


 霖雨は目を覚まさない和輝の横に椅子を引き寄せて、腰を下ろした。

 室内は酷く静かだった。心電図の電子音だけが等間隔に響き、此処は隔離された別世界のようだった。

 締め切られた窓の向こうは赤く染まり、間も無く闇に包まれるだろう。


 秋は終わるのだ。そして、多くの生命の眠る冬がやって来る。

 陽が落ちるのも随分と早くなった。


 医師がやって来て、病状を深刻そうな顔で告げた。此処にいない彼の家族に代わって、霖雨はただ聞いていた。

 医師からはまた同じ説明があるのだろうが、万一の為に説明出来るよう理解する必要がある。


 脳が損傷を受けていて、意識が戻る望みは低い。最悪、生涯植物状態だ。




「嘘だろ?」




 意図せず、霖雨の口からは声が溢れた。

 それは独り言となって、真っ白な病室に溶けて消えた。


 嘘だろう。

 今度は声にならなかった。


 和輝は嘘吐きだ。霖雨には彼の嘘を見破ることが出来ない。

 だから、その内に誰かがドッキリでしたなんてお決まりのボードを持って来るのではないかと思ってしまう。けれど、どんなに待っても誰もそれを告げてはくれない。


 これは、現実だ。


 今朝の和輝が思い出された。

 話を聞いて欲しいと言った彼の言葉を、霖雨は受け入れてやらなかった。行ってらっしゃいの言葉すら掛けてやれなかった。

 彼が命を落とした時、霖雨は信じられなかった。死んだという形の無い情報だけが出回って、何一つ現実感を齎すことは無かった。だが、今は如何だろう。


 和輝は目の前にいる。生きている。

 頭に包帯を巻いているだけで、他に外傷は無い。ただ、目を覚まさないだけだ。




「早く、目を覚ませよ」




 縋るように、霖雨は零した。

 当然、返事がある訳も無い。


 和輝はヒーローだ。其処にいるだけで強烈な存在感を放ち、周囲の人間は惑星の如く惹き付けられる。

 逆境を糧に前を向いて走って行く。その恐ろしいまでの吸引力は、正義の名を掲げている。夥しい選択肢の中から正解だけを拾っていくのだ。


 彼は正義で、正論で、正解なのだ。

 この理を失くした世界は、果たして未来を目指すことが出来るのだろうか。


 ごめんの一言で、終わる筈だったのだ。

 帰宅する自分を出迎えて、和輝は何でも無い顔をして笑うのだろう。そうして、日常は滞り無く進む筈だった。


 大切なものは目に見えない。だから、失くしてから後悔する。その苦しさを、自分は知っていた筈なのに。



 その時だった。

 扉が軽い音と共にスライドした。霖雨の視線は吸い寄せられた。

 白衣を着た医師だと、思った。だが、其処にいたのは宝石のような瞳を湛えた青年だった。

 名が体を表すとはこのことだ。

 翡翠は、真っ白なクルーネックのシャツを纏っていた。まるで白亜に染まるこの病室に誂えたような出で立ちだった。

 霖雨を見て他人行儀な会釈をして、翡翠はゆっくりと扉を閉じた。




「ヒーローは死なないんだろう?」




 子どものように、翡翠は小首を傾げた。

 酷く幼いその動作に、霖雨は背筋に冷たいものが走ったように感じた。

 理解し合えない境界線が、此処にある。強く、思った。




「俺は結論が欲しい。こいつが死んだなら、それが答えだ」




 そうだろう?

 同意を求める問い掛けに、霖雨は頷けなかった。

 彼の言っていることが解らない。だがーー、この状況に関わっていることは、解った。




「和輝に何をした」




 事実は出ている。証拠は無い。それでも、霖雨は訊かなければならない。

 限りなく黒に近い真っ白な青年は、不思議そうに首を傾げるばかりだった。




「実験をしているんだ」

「実験?」

「耐久実験だよ。人が思想を放棄し、現実を諦める過程を知りたい」




 この男は、何を言っているのだーー。


 解り合えない溝が、目の前にある。

 心電図の音が響く病室で、霖雨は静寂を破るように勢いよく立ち上がった。

 座っていた椅子は後方へ弾け飛び、耳を劈くような騒音となる。それすら遠のくような怒声で、霖雨は叫んでいた。




「お前、人の命を何だと思っているんだ!!」




 翡翠は、耐久実験だと言った。彼は、自分の知的好奇心を満たす為だけに和輝を殺そうとしたのだ。ーー否、事実、殺したのだ。

 平行世界で和輝が命を落とした時も、きっと彼が絡んでいる。霖雨は確信した。

 耐久実験と称して、和輝を死なせたのだ。それが平行世界の中で封殺されたから、今度は異なる手段を用いて殺そうとした。

 和輝が諦めるのか如何かを、知る為だけに。


 激昂した霖雨が叫んでも、翡翠は顔色を変えなかった。何が悪いのか解らないと言っているようだ。

 悪意の無い殺意だ。サイコパスと呼ばれる人種がいることを、霖雨は思い出す。彼等は人の痛みに共感しない。利己的で、人の命すら道具と見做している。


 葵が消えた時、和輝は単身で翡翠の元へ出向いた。その意味を、今更になって知る。

 彼等は社会における捕食者だ。全ての人間が解り合えるとは思わないが、目の前にいるこの青年は別の次元にいる。関わりを持つべきではない。




「命って、何だと思う?」




 価値観が違う。思考回路が違う。そして、言葉すら通じない。

 霖雨は、翡翠は偏屈なだけの一般市民だと思っていた。だが、違うのだ。目の前にいるのは、人の皮を被った化け物だ。




「1907年、ダンカン・マクドゥーガル(Duncan MacDougall)という医師は、末期の結核患者が死ぬ瞬間の体重を計測し続けた。結果、魂の重さは21gと結論付けた」




 予め決められていた台詞を読むかの如く、つらつらと翡翠は話し始めた。霖雨には、彼が何を言っているのか理解するまでに時間が掛かった。

 その間を待つことも無く、翡翠は続ける。




「ーーだが、同様の実験を犬に行った時にはこの結論は出なかった。現在も様々に議論されているが、信憑性は薄いものとして見做されている。魂に質量は無い。目にも見えない。ならば、それは存在していないのか?」




 翡翠がヒーローの眠るベッドへ足を踏み出したので、霖雨は阻むつもりで進み出た。翡翠はその場で足を止め、続けた。




「人が思考する脳は電気信号で情報をやり取りしている。この電気とはナトリウムやカリウムと言ったイオンのことだ。ならば、このイオンが命なのだろうか。だが、脳死状態の人間も生命活動は行なうことが出来る。ーー命とは、何だ?」




 翡翠が一歩進み出る。反対に、霖雨は後ずさった。




「現在、人の心は心臓ではなく脳にあると言われている。脳死状態の人間には、心は失われているのだろうか。ーー昏睡状態で、目覚める可能性の低いこのヒーローは、果たして生きているのか。こいつの生命維持活動の拠点は何処だ。脳か、心臓か」

「近付くな!」

「目に見えないものを、如何やって証明する? 目に見えない命の大切さを、如何やって伝える?」




 霖雨が後ずさった時、背中にベッドがあった。

 目を覚ます望みの薄いヒーローは、変わらず穏やかな呼吸を繰り返している。




「俺はこいつの思考が理解出来ない。だが、人々はこいつをヒーローと呼ぶ。その理由は、何だ?」

「来るなっ!!」

「神木葵は、サイコパスだと診断されている。サイコパスに人の気持ちは解らない。それでも、神木葵は和輝を価値のあるものと見做していた。ーー何故だ?」




 互いの息遣いすら聞こえるような至近距離に、翡翠の緑柱玉の瞳があった。其処に悪意は無い。純粋な知的好奇心だ。

 闇の深淵を覗き込んだような気がして、霖雨は息を呑む。このまま吸い込まれてしまいそうだ。




「これに何の価値がある? 吐き出す言葉は使い古されたきれいごとと理想論で、明確なものは何一つ無い。それでも、こいつに価値があるという理由は何だ? 事実として、こいつは人を救って来た。火災の中へ飛び込んで逃げ遅れた子どもを救出し、世間からバッシングを受ける女優の命を守り、出産を介助して母子を救った。だがそれは、正論を立証し続ける極稀な特殊なケースなのであって、これを一般論にすることは不可能だ」





 霖雨が翡翠と知り合ったのは、つい最近だ。

 だが、彼はまるで昔から和輝を見て来たように語る。

 監視されていたのだろう。ーー一体、何時から?




「全ての答えが目に見えるとは思わない。だが、判別する簡単な方法がある。こいつが死ぬか如何かだ」

「ーー和輝が死んだら、不正解だというのか? 人の命には限りがある。どんな偉人も何時かは死ぬ。友達に死んで欲しくないと思うことに、理由がいるか!」

「解らない。だから、試してみたいのさ」




 こいつーー。

 霖雨は奥歯を噛み締めた。

 自分の知的好奇心を満たす為なら、和輝が死んでも構わなかったのだ。非道で、倫理観も無い。けれど、其処に悪意は無いのだ。

 子どもが虫を嬲るように、和輝を殺そうとした。

 其処で、霖雨は直感する。

 葵が消えた理由は、こいつだ。こいつの異常性を知った葵は、自分たちから翡翠を遠ざける為に消えたのだ。


 こいつは、一体、何なのだろう?

 人か、化け物か。




「中々に面白い実験だった。その結果を知る瞬間は、大切に育てて来た果実を収穫する様に似ている」




 翡翠の口角が、三日月のように釣り上がる。可笑しくて堪らないと、恍惚の笑みを浮かべている。

 霖雨は、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。此処で凶刃が振り翳されたとしても、自衛の手段すらない。

 その手が、ベッドの枕元に置かれた機械へ伸びる。生命維持装置ーー、正しく、生命線だ。


 翡翠の手が届く刹那、扉の向こうで足音がした。

 リノリウムを叩く硬質な乾いた音だった。

 沈黙する扉が開かれるーー。


 そして、凍り付くように時間が止まった。

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