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不安の正体はまだはっきりしない。ただの気の迷いならいいんだけど、とナセは朝食のエッグマフィンを齧りながら考える。
ライブから数日がたった。表面上は何事もなかったかのような暮らしをしている。実際何事も起きていないわけだし。でも、ナセの意識は平穏には戻れなかった。
「ナセ、トマトがデザートってありか?」
今日の朝食当番であるモモが包丁片手に振りかえった時、ビーッと大音量の警報が鳴った。
「来たか。今回は俺ら揃ってて良かったな。行こうぜ」
素早く包丁を長剣に持ち替えて、モモは小屋の外に出る。ナセも慌てて口の中にあった食べ物を飲み込み、隅の壁に立てかけておいた長剣を引っ掴んだ。
外では、草むしりしていたホドがいち早く戦闘を始めていた。自分の三倍、下手したら四倍以上もの高さに聳え立つ巨大な黒い塊相手に、怯むことなく剣を振るっている。
黒い塊は、人型をしているものの目鼻口や耳はなく、髪も生えていない。ただ黒いぶよんとした皮膚に覆われた物体が、人のような動きをしているだけだ。何体かが一度に現れることもあるというのに、連携もせずひたすら棍棒を振り下ろし暴れまわる様子からは、知性がありそうにも見えない。いつ現れるかは不明、正体も不明、目的も不明。家を踏みつぶし人間を撲殺するその怪物を、人々は『影人』と呼んだ。
ナセとモモとホドは、影人が出現したらそれを倒すことになっている。定期的に行われる試験はその練習のようなものだ。影人は巨大だが、想像するよりずっと動きが早い。油断はできない。
「ナセ、後ろから回り込め! 足を押さえるんだ!」
モモの指示通り、ナセは後ろから影人の左足に剣を突き刺し、地面に縫い止める。影人は声を出さないので攻撃が利いているのかいまいちわからないが、狙いは止まらせることなので問題ない。
影人は、切れるのも構わず刺された足を前に蹴りあげて進もうとする。しかしそのわずかな隙にモモが跳躍して、正面から袈裟がけに斬りつけた。ホドは近くの木をするするとよじ登ったのち影人の肩に飛び乗り、首の付け根に、目に見えないほどの素早い突きを繰り返す。
やがて影人はふらりと揺らぎ、大きな音を立てて地面に倒れた。倒れ切る寸前にホドがぴょんととび下りる。三人はほっと息をつき、影人から離れた。
辺りに舞った砂埃が落ち着いたころ、倒れた影人はゆっくりと身を起こし、棍棒を掲げて歩き出した。さっきまでのような凶暴さはなく、無暗に周囲のものを破壊しまくったりしない。これでしばらくは、影人はやって来ないだろう。どんなに強烈な攻撃を与えても影人は死なない。しかし、撃退することはできるのだ。
「今回は楽だったな」
剣を鞘にしまいながら、モモが言う。
「ま、こないだの三体いっぺんに来たのがキツすぎたんだよな。いっつもこのぐらいだといーんだけど」
「だよね。でも、倒す数が多い場合次の襲撃までの間隔が開くわけだし、やっぱ多少難易度高くなってもしょうがないかなぁ」
ホドは伸びをしたあと、ふと気になってナセの顔を覗き込んだ。
難なく影人を倒せたというのに、ナセは浮かない表情で影人に抉られた地面のあとを見つめている。直径一メートルほどのクレーター。影人が棍棒を一振りすればこの程度の穴は簡単に作られるのだ。特別珍しいものでもないのに、どうしたのだろう。
「ナセ、どっか怪我した?」
戦闘中そのような場面は見なかったが、念のために尋ねると、ナセは首を振った。
「違う……ごめん、ホド。俺、俺さ……少し前から言いたかったことがあるんだ。モモも、聞いてくれる?」
「なんだよ、深刻そうな顔だな。何でも言えって。俺に出来ることなら力になんぜ」
真面目な顔でナセの手を握るモモと、心配そうに眉をひそめるホド。二人ともかけがえのない友人だ。悩んでいると言ったら真剣に相談に乗ってくれるだろうことはわかっていた。それでも、今まで言えなかった。ナセは小さな声で呟くように言う。
「……戦いたくない」
一瞬の間。
ホドとモモは顔を見合わせ、今何を言われたんだろうと不思議そうな表情になった。モモが先に口を開く。
「え? どういうことだ? えーと、嫌なのか?」
「でもナセ、そんなのありえないよ。僕たちは戦うためにいるんだろ」
やっぱり駄目か。予想はしていたものの、ナセは落胆した。ナセと二人の間には決定的なずれが生じている。厄介なことに、それがなんなのか指摘することはできない。どちらかが間違っているとするなら、きっとそれはナセの方なのだろう。しかし、ナセの戦いに対する忌避感は無視できないほど高まっていた。
ナセは胸を覆い尽くす不安に抗うように、疑問を吐きだす、
「俺達が戦うって、誰が決めたんだろう」
「知らない。最初からそうだったじゃん」
ホドが困惑したように言った。
「最初から……?」
最初っていつだ。
ナセ達はもうずっと、この町で戦い続けている。際限なく出現する敵を倒し、その訓練のため試験の間に向かい。それはあたりまえのことすぎて、考えたことすらなかった。
どうして太陽は光ってるの? なんのために土は茶色いの? そんな疑問と同じぐらい、不思議に思うはずもないことだったのだ。最初から『そういうもの』であり、動かしようのない事実だ。
けれど今、なぜかナセは戦いたくないと思っている。今までどんなに恐怖を感じてもスリルを味わっても、戦いをやめるという選択肢は全く思い浮かばなかったのに。
「二人はさ、最初を思い出せる?」
ナセは霞がかかったように働かない頭を必死で動かそうとしながら、言う。
「俺は自分がどうしてここにいるのかわからない。どこから出てきたんだろう。なんでここに……俺は……俺は何者なんだ?」
真っ黒な闇に飲み込まれたかのような絶望がナセを襲う。今まで築いてきたはずの『俺』が崩壊するような……いや、そもそも崩壊できるほどの確かなものなどなかったのだ。
モモは、心配そうにナセの顔をのぞき込んだ。
「何言ってんだ、ナセはナセだろ。やっぱ調子わりーの? お前」
「だって俺は自分のことを知らないみたいなんだ。昔のことを覚えてない。モモとホドに会う前のことを」
「あぁ、だってずっと俺らといたろ」
「……うん」
おかしいはずなのに、何がおかしいのかわからない。渋々頷くナセに、モモは宥めるように笑いかけた。
「昔のことなんか俺もよく覚えてねぇよ。でも俺はナセとホドと暮らすこの生活がすげー好きだし、影人から町を守りたいって思ってる。お前は?」
「……俺も、そうだよ」
――だけど、どうすればいい。
「じゃあそれでいーんじゃねぇかな?」
――この胸に巣食う気持ち悪さは。
「……そうだね」
「おう。俺さぁ、恥ずいけど、お前らとずっと一緒にいてぇんだ」
モモはナセとホドの頭を引き寄せて、抱きしめる。「暑苦しいよ、ばか」ホドが文句を言った。言葉と裏腹に突き放しはしない。モモのがっしりした胸板は意外に居心地がよく、安心させるような体温が伝わってくる。
「ありがとう、二人とも」
ナセはせり上がる違和感を押し込めて、無理やり笑った。これ以上モモとホドを心配させてはいけない。おかしいのは自分だ。間違ってるのは自分だ。そう、わかってる、わかってるけどでも……。
戦いたく、ないんだ。




