10
水はない。食料もない。日差しを遮る木蔭もない。
何もかもない中、ナセにできることは、ただ前に進むことだけだった。
行けども行けども同じような景色ばかりが続く。ひょっとすると、同じところを何度も回っているだけなのかもしれないと、途中からナセは剣で地面に×印をつけることにした。
しかし、それは思い過ごしだったようだ。確かにナセは進んでいるのだ。進んでいるが、まったく状況が改善される様子はない。しばらく歩いたところででこぼこした土の上に大きく印を刻み、また歩き出す。そんなことを数えきれないぐらい繰り返し、ナセは次第に消耗していった。
もともと体力がある方ではない。そして、戻ることができず、進む当てもないというこの状況は、精神をも削っていく。せめてこの先に湖や川があるとわかれば、町があるとわかれば、希望を持って歩けるのに。
ナセは立ち止まり、剣にもたれる。
町の外に出てはいけなかったのだ。町にいれば安全だった。影人との戦いはあったが、死なない可能性だってあった。現に今まではずっと賭けに勝ち、死なないできたのだ。外では賭けなんかできない。生きるか死ぬかではなく、死ぬ。
確実に死ぬ。
ホドについて行けば良かったのか。小屋に引き返せばよかったのか。疑問なんて持たなければよかったのか。暑さと疲れにやられ、朦朧とした頭の中で、今さら考えても詮無いことがふわふわと浮かんでは消える。
ナセは棒のようになった足を引きずるようにして歩き出した。
静かに穏やかに何も辛いことなんかない日々を送りたい。それはそんなに大層な望みなんだろうか。水を飲みたい。パンを食べたい。お風呂に入りたい。ベッドに身を投げ出しゆっくり眠りたい。
世界の真理とか決まりごととか色々考えてたけど、とナセは、頬に貼りつく髪をはらいながら、思った。
そんなもの飲食ができないってことに比べたらなんでもないのだ。一人で荒野を彷徨わなければならないことに比べたら。ナセは人づきあいが少なく一人でいることが多かったが、それでも通りすがればあいさつする程度の知り合いはいた。モモとホドとは同じ空間で過ごし、気遣い合っていた。
猛烈な人恋しさが湧きあがり、自分の感情に困惑する。
――俺、こんな弱かったっけ。
照りつける太陽が、お前なんか何の価値もないと告げるように容赦なく輝く。
ナセは剣を投げ出し、地に膝をついた。
足ががくがくする。全身が鉛のようだ。疲れきってもう歩けやしない。
それでも、ナセは膝をいざって前に進もうとしていた。汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっても、みっともなくても、死にたいくらい辛くても、生きなければならない。まだ生きているのだから。
何も考えられなくなったナセの脳裏には、モモの死に際だけが浮かんでいる。
ナセは渾身の力を振り絞り、顔を上げた。前を見て、そして見つける。
聳え立つ、壁を。
「……ぁ」
掠れた声が漏れる。
壁があった。
ナセの町の壁より小さくて厚みがないが、ちゃんと壁だ。
この中に入れば、受け入れてもらえれば、せめて水を一杯もらえれば助かる。
ナセは這いずりながら壁を目指して進んだ。幻かもしれないとか、どうして今まで見えなかったのかとか、そんな考えが頭の片隅に浮かんだが、とにかく今は唯一の希望に縋ることに決めて、体を動かすことに集中する。
――あと少し、あとほんの少し進めば、町に入れる……!
手を伸ばし、門に手をかける。
そこでナセの意識は途絶えた。
賑やかな音が聞こえる。
拗ねたようなホドの言葉と、リズムの合っていないドラムの音。熱の入ったモモの声。
「あっ、違うって、ダダダダ、じゃなくて、ダダダダダダッって感じで」
「えぇ~、わかんない。めんどくさいよー。僕読みたい本があるんだけど」
ホドのぼやきにはとりあわず、モモは「もっかいやってみようぜ!」と楽しげに言う。にっこり笑っているのが目に見えるようだ。
最初は乗り気ではなかったホドだったが、モモの「お前らと一緒にやりたい、お前らじゃなきゃ駄目なんだ」という説得に負けて渋々ドラムをやり始めたのだ。結局この後、思いっきり音を打ち鳴らすことの楽しさに目覚めたホドが、ドラムスティックの材質にまでこだわりだしてグリルさんに相談していたことをナセは知っている。
そう、皆で音を紡ぐのは楽しい。三人で最高の演奏を。最高の時間を。たまに小さな喧嘩はしても、永遠に楽しく仲良く馬鹿なこと言い合いながら暮らしていくんだ。俺もやりたい、ベース弾きたい、会話に入れてくれよ、と思ったところで、目が覚めた。
「……あ」
知らない顔。
知らない男が目の前にいた。三十代ぐらいだろうか。黒いフレームの眼鏡をかけて、チャコールグレーのスーツを着ている。真面目そうだが、妙に不快な気分にさせられる目をしていた。
室内は薄暗い。男の後ろの机の上に立てかけられた薄い板だけが、発光してぼんやりとした光をまとっていた。見たことがあるような気がするが、そんなはずはない。どう考えても初めて見る物だ。気のせいだろうと思い、ナセは窮屈な感じのする自分の体を見下ろし、ぎょっとした。縛られている。
「な、なんなんですか、これ、あなたは――」
「私は一介の会社員だ。君に名乗る義理はないが、私が所属している組織の平の平の更に平とでも言っておこうか。まぁ有体に言えば、左遷されたのさ。この僻地にね」
男は皮肉げに笑う。何を言っているのか全く理解できなかった。ナセは必死で拘束を解こうとしてみたが、無駄だった。紐や縄などではない、鉄の輪で椅子にくくりつけられている。ただでさえ歩き続けて疲れの溜まっているナセが抜け出すのは、無理な話だった。
「君は行き倒れていたんだよ」
男は淡々と告げる。
「門の中に入る前で良かった。もっとも、外からはあの門は開けられない。そういう造りになっている。あくまでこれは外的刺激がない状態で気づくかどうかの実験だから。君は気づいたようだね。本当なら君の町を管轄している者に任せるべきなんだが、どうもごたごたしているらしくて、私が代理を務めることになった。さて、君に選択肢をあげよう」
足を組み、つまらなそうにナセを見下ろし、男は言った。
「今ここで死ぬのと、全ての記憶を失ってやり直すの、どちらがいい?」
――気持ち悪い。
ナセは酷い悪寒に襲われ、咄嗟に男から目をそらした。
あれはなんとも思っていないものを見る眼だ。人格のある人間としてではなく、取るに足らない虫けらを見るかのような。
「早く決めたまえ、私も暇ではないんだ。君のことは予定外だったんだよ、まさかここに来るとは思わないじゃないか。特別手当を申請しなくては。さぁ、深く考えるな。そう難しいことではない。死にたいか、生き続けたいか、それだけのことだ」
そう聞かれれば、答えは簡単だった。ナセは男の目を見ないようにしながら呟いた。
「……生きたいです」
男は満足げに頷いた。
「君の選択を歓迎するよ。さぁ、新しい世界へ」
芝居がかった仕草で右手を掲げるように振り上げる。
そして、『ナセ』は消えた。




