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 嫌な予感がして後ろに飛び退ると、鼻の先すれすれの位置にガシャン!と鉄の柵が落ちてきた。年季の入った錆を纏わせているその鉄柵は、ナセの体長の優に二倍は高さがあり、どっしりした見た目と今の音から察するに重量もそれなりのものだろう。下敷きになってしまったらどうなるか考えるだに恐ろしい。

危なかったな、とナセは額の冷や汗を拭った。やっぱり自分は能力値が低い。モモみたいに力が強くないし、ホドのような反射神経もない。

 ――いや、今回の試験がちょっとキツめなだけで、いつもは俺だってもっとましだよ、うん。

 落ち込みそうになる気分を無理矢理上げて、ナセは鉄柵をよじ登り、天井に開いた穴から上の階に上った。

 試験の間は毎回ゴールまでの道が変わる。多少トラップがあってもずっと一本道なら楽なのだが、ドアがどこにも見当たらない個室に転移させられたり、分岐点がありすぎる迷路のような道に出たりするので、身体能力だけでなく推理力も要求される。自分で正解を切り開いていかなくてはならないのだ。

 待ち構える野獣を片付け、落とし穴を避け、降ってくる槍を剣で払い、靄の中を手探りで進む。一通りの罠をくぐりぬけたところで解除の音が鳴り響き、やっと試験の間を出ることができた。蔦模様が彫刻された古めかしい石門をくぐりぬけ、ナセは、試験の間を内包している『白の塔』を見上げた。最近ずっと苛まれている憂鬱な気分で思う。

 ――戦いたくない。

 今日はこれから楽しみにしていることがあるというのに、足取りは重かった。以前は何の気なしにこなせていた試験が、酷く嫌なことのように感じられる。なんだかわからないけどやりたくない。関わりたくない。もやもやした感情が、ナセの心を取り巻いて離れない。こんな時は、何もせず寝てしまうのが一番いいのだが。

 しかし約束の時間は近づいていた。七時集合なのに、腕時計の針は既に六時五十分を指している。目指す小屋は近くない。駆けていけばなんとかなるかもしれないが、ならない可能性の方が高いだろう。なにせナセは運動があまり得意ではないのだ。それなのに、定期的に行われる試験と影人討伐においてそこまでポカをやらかしていないのは、ひとえにその類い稀なる運の良さのおかげだ。

 外はもう太陽が沈みかけ、薄暗くなり始めている。ライブに間に合わないなんてことになったら、ホドにどれだけ嫌みを言われるか。モモは怒らないでくれるだろうけど、がっかりさせるに決まってる。

 しょうがない、がんばるか。

 ナセはため息をついてから、無駄に長い手足を振り切って駈け出した。集合場所は小屋だが、そこに向かっていたらもう絶対間に合わないから、直接ライブハウスに行くことにする。

 しかし案の定、ライブハウスに辿りついた時にはすっかり日は陰り、約束の時間を十分も過ぎていた。ナセは息を切らし、ライブハイスの裏口から飛び込んだ。ライブハウスは、この町では『白の塔』の次に大きい建物だ。柱や壁に細かな装飾が施されている芸術的な『白の塔』とは違い、何の飾りっけもない真っ黒の箱のような壁に公演予定のバンドや歌手のポスターがべたべた貼られている。

 はぁはぁと息をつきながら楽屋の戸を開け、倒れこむように入っていったナセに、呆れたような声がかけられた。

「おっそーい! 七時って言ったじゃん」

「はぁ、ふ、げほっ、はぁ、はぁ、ご、ごめん……」

 普段運動らしい運動をしない身には、全力疾走はこたえる。もやしっ子を体現したかのようなナセの姿に、テーブルの上に座って足をぶらぶらさせていた少年、ホドは、意外にも慰めるように言った。

「まぁライブがある日に試験が入っちゃうなんて思わないもんね。早めの時間伝えといて良かったよ。実はライブ、八時からなんだ」

「え、そ、そうなんだ……」

 近くのソファに沈み込み、ぐったりともたれたナセは、安心と気落ちが入り混じった情けない表情になった。それだったら俺あんなに走らなくても良かったんじゃ?

「お疲れさーん。水とコーラどっちがいい?」

 笑顔で聞いてくるモモに、ナセは「水……」と答える。いま炭酸なんか飲んだらむせて噴き出しそうだ。

「じゃあコーラは俺飲むなー。ホドは?」

「僕はいい。それよりモモ、ちゃんとライブのことアンナに伝えといた? 前回忘れてて怒られてたよね」

「あぁ、今回はばっちり! あいつ怒ると怖ぇんだよなぁ。三日ぐらい口きいてくんなかった」

「ダサぁ」

 顔をしかめるモモに、ホドがニヤニヤと笑う。

「いー気味だよ。一人だけ彼女作っちゃってさぁ」

「お前らだって別にモテねぇわけじゃねぇじゃん?」

「僕は可愛がられてるだけ。だって可愛いし」

 はっはっはと足を組んで高笑いするホドに、性格は全然可愛くないけどなぁとモモとナセの心が一つになった。

 艶めく黒髪に黒目がちな大きい瞳、小作りな赤い唇に染み一つない象牙色の肌を持つ小柄な少年は大層愛くるしく、美少年という言葉にふさわしい容姿ではあったが、合理的思考を尊ぶさばさばした性格のせいか結構辛辣なことも言うので、身近にいる者からしてみればまったくもって可愛がる対象ではなかった。

 しかし、ホドは親しくない人間に対しては猫を被ることが多く、ライブが終わるとすぐにお姉さん方に囲まれてお菓子やらなにやら貰っている。

 一方モモは、短髪をピンクに染めるという奇抜なことをしても似合うほど格好良く、性格も爽やか、おまけにギターボーカルで歌が上手いということで凄まじくモテていた。嫌みがないので男のファンもそれなりに多い。三人が組んでいるバンド『暁』では、だいたいこの二人が人気を二分している。

 そしてホドにもモモにも群がらない少数のファンは何をしているかと言うと、遠くからナセを見ている。

 見ている、だけだ。

 けして近づかないし、サインくださいとか、手紙読んでくださいとか、握手してくださいとか、そういう接触を一切しない。なのでナセは俺人気ないんだなぁと思っているのだが、実は一番熱狂的に好かれている。金髪に染めてはいるものの、薄い体、白い肌、俯きがちな顔、あまり笑わない、喋らない、動かない、などの滲み出るインドア派臭。近づくと逃げられそうな感じが素敵という非常にマニアックな嗜好のファンが、密かにナセを見守っているのだ。

「じゃあそろそろライブハウス行こうぜ」

 ナセが水を飲み終わったのを見計らって、モモが声をかける。ナセは頷いて立ちあがった。幸い既に楽器や機材は運び込んである。手ぶらで行けばいい。

 この素っ気ないつくりのライブハウスには、五百人の客が収容できる。『(あかつき)』のライブは毎回超満員で、建物の外で聴く者もいるぐらいだ。この狭い町で一番の集客数だった。町の住民の三分の一以上が来ていることになる。ほかにもバンドはいくつかあるが、五百人以上集められるバンドは『暁』だけだ。これ以上規模が大きいライブハウスがないのでわからないが、その気になればもっと集められるかもしれない。

 なにせみんな娯楽に飢えている。日ごろの疲れを忘れ、皆で盛り上がれるライブはこの町では数少ないエンターテイメントなのだ。

 暗闇の中、照明に照らされたステージが眩く光る。モモの叫ぶような歌声が響き渡り、反響して飽和する。湧き立つ観客の熱気に高揚しながら、ナセは必死でベースを弾いた。何度も何度も練習した曲、もう空で全部弾ける、間違えたりなんかしない、それでもこの奔流のような空気の中では、踏ん張って弾いていないと押し流されてしまいそうだった。

 ホドもこの時ばかりは皮肉気ではない心から楽しそうな笑みを浮かべ、思いっきりドラムを叩いている。サビの部分に差し掛かり、モモの声が一層大きくなった。



 オレたちがいなくたって 世界は廻る

 そうだろ?

 でもそんなの問題ないさ

 どんな世界でも 精一杯生きるしかないんだから

 楽しめばいい 

 いつか廻してやるんだ 世界を

 挑んでみるんだ 空に

 羽ばたける日は来るはず

 オレとお前なら

 そうだろ?

 

 夢は消えない

 諦めたくない

 叶えられるさ

 オレとお前なら

 さぁ、行こうぜ



 ガンガンガンガン、刻み込むような音が掻き鳴らされ、モモが「うおぉー!! 行こうぜ!」と叫び天を指す。観客も飛び跳ねながら同じように天を指し、最後にジャーンとギターが鳴って、余韻を残しながら曲は終わった。

 曲の合間のMCに移行するモモとホドを一歩引いた場所から見ながら、ナセはふわふわした気持ちで、いいなぁと思う。

 モモとホドみたいな奴らと友達で良かった。気が合うわけじゃないけど、どころか合わない事の方が多いけど、それが全く苦にならない。むしろそれぞれ足りないところを補い合って、とてもいい関係が築けていると思う。

 モモはいつも明るく、二人に対する好意を隠さない。ホドはつんけんしているように見せかけて、実は情が深い。ナセは交友関係が狭い分、寝食を共にするほど近くにいる二人を何よりも大切に思っていた。これまでも、そしてこれからもずっと、こんな生活が続くんだろうな。幸せな気分でそう思い、ナセは、あれ?と首を傾げた。

 なんだろう、違和感がある。三人で、ずっと一緒に、これまでもこれからも……これまでも?

 ――これまでって、いつだ?

 さっと、冷や水を浴びせられたように熱が引いて行った。

 なんだろう、なんでこんなこと疑問に思ってるんだろう、別におかしくなんかない、そうだろ? これまでずっと一緒にやってきた、それは確かだ、ちゃんと覚えてる。でも……何かが、ひっかかる。

 はっきりこれが変だとは言えない、でも確実に何かおかしかった。知らなきゃいけない事を知らない、思い出さなきゃいけない事を思い出せない、そんな気持ち。

 戦いたくない、と思う時のような、もやもやした形容しがたい恐ろしさに襲われて、ナセは俯いた。次の曲を始めるために目で合図しようとしたモモが、訝しげに横目で見てくる。ホドも気づいて、「どうした?」と声は出さずに口を動かす。なんでもないよ、とナセは首を振って笑顔を作った。ライブ中にこんな変なこと言って白けさせちゃ駄目だ。今はただ、この時間を楽しんでいよう。

 弦に手を添える。ぱっと照明が切り替わり、会場中目まぐるしく鮮やかな色が浮かんでは散った。モモは嬉しそうに全力で歌い出す。ナセはその声を支え、引き立てるように、導くように、ベースを鳴らす。正しい音を奏でる。激しく、しかし調和のとれた音の重なり。さっきと何一つ変わっていない。

 それでも、今の気持ちは、幸せとは程遠かった。





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