6話 自宅(2)
「……どういう事だ」
俺の問いに彩花は首を左右に振る。
「……判りません。ただ今日の出来事は明らかにおかしかった。だから、上戸先生には兄さんがお世話になった事もあるけど、なにか判ったか少し話を聞こうと連絡したんです。でも、話が今一つかみ合わなくて……」
「詳しく聞いてみたら、今日の出来事を忘れていたか」
「ええ」
頷く彩花の顔色は悪い。
記憶というのは人間の最も基本的なものの一つだ。
それが信じられないというのは辛いだろう。
だが俺自身は、そこまで動揺しなかった。
あのデスゲームにおいて精神干渉というスキルはかなりの数存在したのだ。いや、今までゲームで気軽にモンスター相手に使っていたのを申し訳なく思うくらいに強烈な体験だった。
なにせ強制的に混乱したり、魅了されたり、更にはそれが一瞬で戻ったり。
やった事はないが、多分麻薬なんかよりもよっぽど怖い。
ゲーム内でもそれに依存している人間は随分と多かった。
ドラゴンランドというゲームはVRMMOと呼ばれるジャンルのゲームだった。
そのVR、つまり仮想現実技術は非常に優れていたが、実際の五感を完璧に再現できていた訳ではない。というより、視覚、聴覚は兎も角、触覚、嗅覚、味覚は明らかな違和感があった。
更には睡眠もどこか人工的で、性欲に関してもそれは同様だ。
そんな環境で、ずっと生活していくのだ。
それに耐えきれず、さりとて死ぬ踏ん切りもつかず、ただひたすらに精神操作系スキルを受け続けていたプレイヤーはかなりの数存在していた。
需要があれば供給がある。
そんな需要を満たす商売をしていたプレイヤーも当然のように存在しており、彼らが経営していた店は俗に阿片窟などと呼ばれていた。
「忘れていたっていうのは、何か別の記憶に置き換わっている感じなのか?」
「ええ」
「……あの病院にいた患者なんかと同じ感じか」
あの不思議な空間から脱出した後、病院にいた大多数の人間はそれほどの異常を感じていなかった。それが実際にそうなのか、それとも何処かの時点で改変されたものなのかは判らない。
だが今の彩花の話を聞くと後者の可能性が高いのかも知れない。
「なら、何で俺たちは無事なんだろうな?」
「判りません。単なる偶然なのかも。……それとも」
「これから記憶を失うか、か?」
「はい」
彩花が頷く。
その表情はやはり硬い。
俺はそんな彩花に向かって笑いかける。
「まあ、良い事じゃないのか? 覚えておいても意味なんてなさそうだしな。それとも何だ、お前はあの蛙に運命でも感じたか? もしそうだというのなら、出来れば早めに言ってくれ。流石の俺も、あれを義弟として受け入れるには少し心の準備が必要そうだ」
俺の言葉に彩花はくすりと微かに笑った。
「そうですか、覚えてきましょう。でも、サプライズを受けた兄さんの慌てた姿というのも見てみたいものですね」
「止めろ。兄はマニュアルが無いと動けない現代っ子だ。苛めるのよくない」
「苛められて輝く人もいます」
「俺は苛める時に輝く人でありたいと思っている」
「そんな風に性癖をカミングアウトされると……愉しみにしてしまいますよ?」
「いや、何をよ!?」
「…………」
「……どうした?」
「いえ、女の子としてちょっとアウトな発言を言いそうになってしまったので、ちょっと監視アプリの再起動を」
「そうか。それはぜひとも常駐化させておいてくれ。俺の心臓にもきっと優しい」
「……そう言われると、いけるところまで暴走してみたくなりますね」
「おい馬鹿やめろ」
「私をあんなに心配させた兄さんなんて……私への心配で溺れてしまえばいいんだっ」
「……あー」
反論も出来ず、言い淀む。
いつの間にか、彩花の瞳には涙が浮かんでいた。
俺は苦笑を浮かべると、彩花の頭を少し乱暴に撫でた。
彩花はパジャマ姿で、風呂に入ったのだろう、髪はまだ微かに濡れていた。
そんな状態で髪に触るなど、普段なら間違いなく嫌がられるだろう。だが、彩花は何も言わなかった。ただ何かを堪えるようにして、為すがままだ。
「……兄さんの体調が平気なら、近いうちに父さんと母さんに報告に行きませんか? 無事な姿を見せてあげないと……。きっと心配しています」
やがてぽつりと呟いた彩花の言葉。
「……ああ、そうだな」
俺も言葉少なに返した。
翌朝、彩花はあの逃亡劇に関する記憶を失っていた。
そして――。
その日は気持ちの良い快晴だった。
結局、昨日は彩花も俺と同じ部屋で寝た。敷き布団をわざわざ持ってきて、部屋に陣取ったのだ。
色々と負い目がある為に断り切れず、俺は結局そのまま受け入れた。
目が覚めたのは、彩花の方が先だった。
だが彩花が身じろぎすると、自然と俺の目も覚めた。
以前はかなりの地震があっても気付きもしなかったのにな……。
まあそのうち元に戻るだろう。
俺の方をちらりと見て、静かに彩花が部屋の外へと出て行く。俺を起こさないようにだろう、その動きには気遣いが感じられた。
彩花の記憶が変質していたのを確認したのは、朝食の席の事だ。
適当に水を向けると、彩花は少し怪訝そうな顔をしてこう言った。
「ガス漏れか何かだったんでしょうか。でも、兄さんが入院している時じゃなくって良かったです。ぎりぎりでしたけど、巻き込まれないで済みましたしね」
彩花はそう言い終わると、安堵の笑みを浮かべた。
俺は結局なにも言えなかった。
だが何が起ころうと日常は変わらず回っていく。
俺にしろ彩花にしろ、これからの予定がどうなるかはよく判らない。
今の内に済ませられるものは済ませておこうという話になり、その日は父母の墓参りに行く事になった。
その準備をしていた時の事だ。
洗面台の前で歯磨きをしていた俺は、ふと違和感を覚えた。
歯ブラシの感触がいつもと違う。
「……?」
疑問に思って鏡の前で口を開ける。
――犬歯がまるで牙のように尖っていた。
「……なんだ、これ?」
思わず声が漏れる。
上下の犬歯のうち、特に上の犬歯が随分と長く鋭い。今まで食事中などに気付かなかったのが不思議なほどだ。
邪魔くさそうだな、これ……。
そんな事を考えていると、牙が随分と短くなる。
「…………」
もう一度、伸ばす。
短くする。
伸ばす。短くする。伸ばす。
何度かやっていると、要領が掴めてくる。
「……はぁっ!?」
なんぞっ、これっ!?
思わず胸中で叫ぶ。
だが当然ながら、叫んだところで現実は変わらない。
暫くすれば、いやでも思考は回り出す。
「……まさか――」
思いつく事がない事もなかった。
と云うより、この感覚はある意味慣れ親しんでいたと言ってもよい。
――ドラゴンランドオンライン。
俺が二年以上命を賭けて暮らしていた世界で、俺の種族は吸血鬼だった。
尤も最初からそうだった訳ではない。
ドラゴンランドオンラインは仮想現実を利用したゲームだが、その仮想現実内での自分――アバターを動かすには、当然それに適したインタフェースが必要だった。
これには基本的に脳波が使われた。
そしてそこからの論理的な帰結かも知れないが、自分と余り違ったアバターは使いにくいのだ。
それ故に男が女のアバターを使う事も、その逆も基本的には禁止されていたし、余りに異形な種族もそれは同様だった。
吸血鬼という種族はそこまで人間とは異なっていないが、ゲーム内では姿を変えたり身体の一部を変質させたりといったスキルを使用する事が出来た。
それを考えれば、種族変更に制限が設けられたのも当然だったのかも知れない。
デスゲームなんてやっといて今更良識人ぶるなよ、なんていう意見もかなりあったが……。
……なにが起こってる?
自らが映った鏡を見ながら胸中で呟く。
ドラゴンランドにおいて、吸血鬼という種族はかなりピーキーで人気があるとは言えなかったし、そもそも扱えるプレイヤーが殆どいなかった。
更には種族自体の弱点もかなりあった。最も大きいものは日光の下でのステータスダウンで、次にホーリー系武装に対する弱耐性などだ。
だがこれらは、当然ゲームの中での設定だ。
それ以外の設定に関しては、フレーバーとしてはあったのかも知れないが、正直覚えていない。
まあ取り敢えず鏡には映るらしい。
ちらりと視線を下へ向ければ影もある。
今朝、庭へ出た事を考えれば日光に関してもそこまで極端な影響はないだろう。
後は……。
「――兄さん、どうしましたか? 行きますよ?」
そんな事を考えていると、彩花の声が聞こえてきた。
俺は思考を打ち切り、準備を急いだ。