4話 病院脱出(4)
駆ける。
ひたすらに駆ける。
後ろからは大蛙が追ってきている。
蛙の表情から感情を読むなんていう事は出来ないが、今の俺ならはっきりと判る。
――激怒している。
蛙は四本足でまるでジャンプするようにして追ってきている。これが、ぴょんぴょん、なんていう擬音が相応しいのだったらまだ可愛げもあるが、正直そんなものとは程遠い。
なにせ、ジャンプする度に頭が天上にぶつかっている。着地する度に振動がこちらまで伝わってくる。
その大体の飛距離とインターバルを記憶。
それから外れた動作をする時には――っ。
「はっ!」
舌の一撃が来る。
タイミングを計って横に飛び、躱す。
凄まじい勢いで赤い舌が横を通り過ぎていく。重低音の風切り音に背筋が冷えた。
大体、あれは何だ? 射程が少なく見積もっても十メートル以上って、おかしいだろう。舌なら大人しく味覚を感知でもしておけよ。
そんな悪態が思い浮かべながら、何とか東側階段近くまで辿り着いた。
そこで一瞬迷う。
俺が考えた仕留め方は、火計だ。
相手を適当な場所に閉じ込め、焼き殺す。
結局、十分な時間も用意も出来ない状態ではこれぐらいしか実行可能なプランを思いつかなかった。
その為には罠を作る人間と蛙を引き付け誘導する人間の、最低二人が必要だ。
前者は今俺がやっている。
だが後者は、あの二人に任せられるか?
自問する。
――正直、任せたくないというのが本音だった。
リアルと仮想という差こそあれ、あのデスゲーム内部ではその実力を信用できる仲間がいた。彼らになら自分の命を預けられる。
だが、あの二人は違う。
さほど付き合いのある訳でもない上戸という女医はもとより、よく知っている彩花にしたところで、こういう場で信頼できるかといえば、出来ない。積み重ねてきたものがないのだ。
そしてそれ以上に、たった一人の家族である彩花は俺にとって守るべき対象で、共に戦う仲間などでは断じてない。だが――。
「……仕方ないか」
小さく呟き、諦める。
微かに息が上がっているのが、自分でも判る。病み上がりにしては随分と動けている方だろう。だが限度はある。それほどこれを続けてはいられないだろう。
あの蛙を完全に引き離して、罠を作成してから再び誘導する、何て云う事は出来そうにない。
「ちっ」
踏ん切りをつけるように舌打ち一つ。
携帯のメモ帳アプリを呼び出し、小走りに駆けながらテキストを打ち込む。細かく書いている暇はない。
――罠を頼む。
文面はシンプルにそれだけだ。
それを地下へと続く階段へと置いて、自らは上階へと進む。
視線をちらりと後ろへやれば、蛙は順調に追い掛けてきていた。
だが階段は苦手らしい。飛び跳ねる事も無く、のたのたと登ってくる。その様子は蛙というより何処か巨大な蛇を思わせる。
余り距離をとってしまえば、向こうが追い掛けてこなくなってしまうかも知れない。適当にペースを加減しつつ進む。
「……はっ、はっ……はっ」
そろそろ辛くなってきた。
だが休んでいる暇はない。
二階の廊下を走り、今の内に距離を広げていく。人の気配はまるでない。
これまで観察した限り、あいつの頭はそれほど上等じゃない。一旦階段を上れば、途中で降りるような事はしないだろう。第一そんな事があの巨体で出来るとは思えない。
ならば、廊下を真っ直ぐ今の内に距離を広げておくべきだ。
案の定、あいつは階段を上り終えるときょろきょろと辺りを見回し、通路の真ん中あたりにいる俺を見付けると勢いよく追い掛け始めた。
それを見て、俺も再び駆け出す。
出来れば罠を作る時間程度は、マージンを含めて稼いでおきたかったが、どうやらそれも厳しそうだ。
部屋に籠もれば良いのかも知れないが、そもそも扉を破壊される事を考えれば、どこが安全なのか判断が難しい。先程のような綱渡りは出来れば二度としたくないし、あれの攻撃に耐えられる扉がある場所などすぐには思いつかない。
「……はぁっ、はぁっ」
ようやく西側の階段へと着いた。
荒れた呼吸を整える。
そして視線を、下へと続く階段へ向けた。
あの蛙をこの階段を降りるように誘導しなくてはならない。だがそれは言うほど簡単ではなさそうだ。
余りに距離を取ってしまえば、蛙の誘導は出来ない。だが接近しすぎてしまえば階段を下りている時点で追いつかれる。なにせ向こうは軽くジャンプするだけで、踊り場まで一気に辿り着く跳躍力を持っている。
だがそれほど小回りが利く訳ではない。踊り場での転換には時間が掛かる筈だ。ならば最大の難関は、最初の踊り場まで。
……いっその事、完全に振り切ってしまった方が良かったか?
そんな迷いが心の内に浮かぶ。
だがそれを押し殺す。一度決めた作戦なのだ。変更する事は出来ない。そんな余裕はない。
意識を蛙へと集中させ、タイミングを計る。そしてイメージを固めていく。
自らの動きと敵の動き。関わりうる不確定要素。
――多分いまっ!
だが、どの時点が最適かなんていうのは、詳しくデータを取った訳でもないのに判る筈もない。だから適当に思えるタイミングで飛び出した。
二段飛ばしで階段を降りていく。だが――。
「ちぃっ」
しくじった!
最初の踊り場まで着いても、蛙はまだ階段の場所に辿り着いただけだった。案の定、俺を見失っている。
……どうする?
再び迷いが生まれる。
このまま俺だけ地下へと行って、体勢を立て直した方が得策なのではないか?
そんな迷いだ。
残り少なくなった体力も、そんな考えを後押ししていた。
「――っ!」
だが悠長に迷っている暇は与えられなかった。
下の階、つまりは一階の方から小さな蛙がぞろぞろとやって来ているのが視界に映る。
――逆にそれで踏ん切りがついた。
唯一持っていた武器であるスタンバトンの握りを調節する。
「はっ!」
そして投げナイフの要領で投げ付ける。
デスゲーム時代に取った杵柄だ。デスゲームから解放されても役に立つなど思いもしなかった。
だが兎も角、狙いは過たず目標の眼球に命中し、大蛙の方の意識は此方へと向けられた。
後は――逃げるだけだ。
一階から向かってくる小型の蛙。高低差もある。大型のやつのように舌先で此方を狙う事は出来ないようだ。
その代わり、身体丸ごとぶつけてくる体当たりを行ってくる。
当たり所が悪ければ息が止まり、倒れ込むかも知れない。
威力はその程度のものだ。
だが今はタイミングがまずい。動きが止まれば、上からやってくるバケモノに押し潰される。
「くっ」
後ろから振動音。大型の方の蛙が踊り場まで跳んできたのだろう。
猶予はそうない。
焦りながら、突撃してくる蛙たちを何とか腕で弾き返す。だが、こんな事をしていたら間に合わない。
仕方ないので、一か八かで階段の手摺りに飛び乗る。向かってくる方向を限定し、移動も素速くなる。ネックはバランスが難しくなる事だが……。
思ったよりも、デスゲームでの経験は現実でも応用がきくらしい。何とか滑り落ちたりせずに済んだ。
ならば、後は難しくない。
手摺りを利用し、地下一階へと大蛙を誘導する。
――よしっ。
途中、少し危ない所もあったが何とか地下一階へと辿り着く。
視界の奥に人影が見える。
彩花だ。傍には誰もいない。
代わりにポリタンクが幾つも置いてある。恐らく可燃性の液体であるエタノールか何かだろう。その他にも火種になりそうな物が色々と台車に乗っている。
「……はぁ」
息を大きく吐いて吸う。きっと後もう少しだ。
疲れ切った身体を無視して、再び駆け出した。
少し遅れて背後から振動音。
もう慣れたものだ。視線を後ろにやれば予想通りの姿が映る。
……後はコイツを誘導するだけの筈。
「兄さんっ! 火種と可燃性の液体は用意できました! シャッターの制御装置は東と西に一つずつ! 上戸先生が上から回っていますので、兄さんはそいつをこっちにこのまま誘導して下さい!」
おっけー、上出来だ、妹よ。
問題はこいつをそのシャッターの中に閉じ込められるかってところだが……。
シャッターの間隔はそれほど狭くはない。逃げないようには出来るかも知れないが、ある程度の後押しは必要だろう。
「火種とポリタンクを幾つか台車に乗せてこっちへ!」
彩花へ向かって叫ぶ。幸いな事に彩花はすぐに反応してくれた。
台車の一つの荷物を手早く整理するとそのまま台車を押して此方へ駆け寄り、ある程度助走を付けたところで此方へ台車を押し出す。
後はそれを俺が中央辺りでキャッチすればよい。幸い勢いがついていたのか、台車は此方まで何の問題もなく到着した。
早速ポリタンクの一つを手に取ると、適当に辺りにぶちまける。
エタノールの特徴的な匂いが辺りを包んだ。
次に、ぶちまけた部分から途切れないように、別のポリタンクからエタノールを落としていく。
後は大蛙がぶちまけた部分を超えたのを見計らって――火をつける。
「うおっ!?」
即席のトラップは、思ったよりも凄まじい勢いで燃え上がった。
大蛙も突然の激しい熱気に混乱し、動きが止まる。
その隙を突いて残ったポリタンクの中身を再びぶちまけ、俺と大蛙の間を塞ぐように火をつける。
……後は逃げればいいが、駄目押しもしておくか。
台車に残っていたポリタンクにエタノールを適当にまぶして蓋を開け、勢いを付けて向こうに押し出す。
俺と大蛙の間の火の壁も、思ったよりも強い。
今の策の効果は判らないが、ポリタンクの強度なんてそこまでない筈だ。上手くいけば火の塊を向こうに押し付ける事が出来ただろう。
「兄さんっ、早く!」
催促の声に一つ頷き、俺は彩花の方へと駆けていった。