3話 病院脱出(3)
「……なんぞ、これ?」
メールの本文を上から下へ、下から上へと三度読み、結局出てきたのはそんな言葉だった。
その事を不審に思ったのか、二人も俺の両脇に近づき携帯を覗き込んでくる。
彩花が「これ縦読みは出来ませんね」などと呟いているが、誰もそんな事は気にしてない。
「返信は出来るんですか?」
「いや、無理っぽい。電波が死んでるのは変わってない」
「なのに、届いた……か。彩花さんの方の携帯には何も届いていないのか?」
「届いていませんね。なぜ兄さんのところだけに来たんでしょうか……」
彩花が小首を傾げる。そんな仕草は動物か人形っぽい。
「どうせ送ってくるなら、もっと有用な情報を送ってきて欲しいもんだな。脱出のためのチートコードとか」
「それよりもこんな事態に陥る一時間前くらいにメールが欲しかったです。そうすれば兄さん連れてとっとと逃げ出して、家でお茶でも飲みながらテレビの実況眺めていたのに」
「……その場合、私が一人この事態に取り残されるんだが」
「仕方ありませんね。お仕事頑張って下さい」
「仕方ないな。労災がおりる事を祈ってるよ」
「君ら、結構酷いなっ!?」
「現代っ子ですから」
「ヴァーチャル世代だから」
だがそんな風に望ましい過去に思いをはせても、覆水盆に返らず、現実が変わる訳もない。
「あー、取り敢えず武器でも探してサバイバルするしかないのかね」
「助けを待たないんですか?」
「来ると思うか?」
「…………」
俺の言葉に彩花は黙り込む。
「来ないと断言できる訳ではない。だが、来ることを当てにするのも危険だろう。嘘か本当か知らないが、あのメールの通りならボスガエル等という存在を戦って倒す必要があるんだ。だが当然、時間が経てば俺たちの疲労もたまるし、食糧や睡眠など別の問題も出てくる。それを考えれば、出来るだけ急いだ方がいい筈だ」
「……流石にあのデスゲームのサヴァイヴァーだな」
感心したように上戸先生が呟く。
俺はその言葉に思わず眉を顰めた。
「いや、すまん……少し無神経だったな」
「いえ、気にしないで下さい」
オラルド社が起こしたデスゲーム事件
当初巻き込まれた人間は五十万近くだったが、その全ての人間がずっとゲーム内に閉じ込められていた訳ではない。
死んだ人間も無論いる。だが生きてゲーム途中でログアウトした者もそれなりに存在していた。
これはゲーム内においてのレアアイテムの効果によるものだ。このアイテムは高額だがNPCから買う事も可能だった。これは当然ながら非常に大きな問題を生み出した。
一言で云ってしまえば、『不和』だろう。そもそもデスゲームの舞台となったドラゴンランドオンラインというゲームはPKを許容していた。
そしてPKをした人間はされた人間の現在持っている現金とアイテム、そして相応の経験値を取得する事が出来た。
結果、『ギルド』というプレイヤーの相互協力組織の運営は非常に難易度の高いものとなり、ゲーム自体を攻略する人間たちも次々と消えていった。
サヴァイヴァーとは、そんなデスゲーム内に最後まで残っていた人間の通称だ。
「しかし、どうしましょうか? RPGのように近くに武器屋がある訳でもありませんし……」
「まあ使えそうなの集めてやっていくしか無いだろうな。――そう言えば、上戸先生、その事に関して何か心当たりはありますか?」
「いや、そうは云っても此処は病院だ。薬物程度なら何とかなるかも知れんが、そもそもそんな物が効くのかも判らん」
まあ、そりゃそうか。
俺自身もそんな中途半端な絡め手よりも、もっと単純明快で即物的な手を選ぶべきだと思う。
シンプルイズベスト。
パワーイズジャスティス。
「そういや、二人にはこれ渡しておく。危なくなったら使ってくれ」
「いいんですか?」
「ああ。あんまり趣味じゃないしな」
二人に警備室で手に入れたスタンバトンを手渡す。
これで生存能力的には平均化された筈だ。
「後は……」
何か武器になるものでも探さなくては。
そんな風に思考を巡らせようとした時――。
「――っ!?」
頑丈な筈の扉が凄まじい勢いで振動した。
何度も、何度も、外から非常に巨大な物を叩き付けているような、そんな音が響く。
部屋の出入り口は一つ。窓は無い。天上にも通り抜けられるようなダクトは存在しない。
「…………」
三人で視線を交わす。
言葉はなかった。
二人とも顔色は悪い。特に上戸先生は表情が硬い。
恐らくだが、この場所を選択した事に対して責任を感じているのだろう。
……どうする?
取り敢えず扉の直線上からは離れて、打開策を探る。
その間も音は断続的に続いている。
相手はあのメールにあったボスガエルとかいう奴か?
ならば、これは体当たり?
いや、それにしては勢いがつきすぎている。
だがどちらにしろ……。
「おい、彩花」
「何です?」
「済まんがさっきのスタンバトン、返してくれるか?」
「……はい」
返答まで僅かな間があった。
それはきっと俺が何をするつもりか判ったが故の逡巡だろう。思わず苦笑する。
「私のはいいのか?」
「それは先生が持っていて下さい。後、念のために集合場所を決めておきましょう。この規模の病院なら消毒用エタノールとかが置いてある保管場所があるでしょう? いざとなれば其処へ」
上戸先生は俺の言葉に頷いた。そして口を開こうしたが、それは弾け飛んできた扉の衝突音で遮られた。凄まじい勢いで弾け飛んできた扉は壁にぶつかり、跳ね返ってディスプレイへと叩き付けられた。
あっさりとディスプレイは割れ、辺りに破片が散らばる。
「俺が先に出て、敵を此処から引き離す! 二人はその後に逃げろっ!」
先程の衝撃のインターバルは大体四秒から五秒。
連射は出来ない筈。
もしそうなら、今がチャンスだ。
「地下一階の端! 東階段の側に保管所はある! そこで落ち合おう!」
部屋から飛び出た俺の背中から、上戸先生の声がする。
声を出して、返事をする事は出来なかった。
だから振り向きもせず、一つ頷くことで返答とした。
「……っ」
視線の先にはやたらにでかい蛙の姿が映っている。
常軌を逸した巨大さだ。
高さは大の大人以上はある。横幅は少なく見積もっても高さと同程度。
口の大きさは、つまみ感覚で人を丸呑みできそうだ。
今、そのバケモノ蛙は、大きく口を開けて舌を伸ばしていた。
真っ赤な、ぬめぬめとした舌の先端が扉を出た俺の横でゆらめいている。これが扉を押し破った武器なのだろう。
蛙との距離は大体五メートル程度。サイズが巨大すぎる所為か、蛙は身体を此方へ入らせる事が出来ないようだ。だが逆に言ってしまえば廊下への出口は完全に塞がれている。
「……ちっ」
胸の中に湧き上がった怯懦を押し殺し、床を蹴る。
恐怖が無い訳ではない。自分の判断に迷いがない訳ではない。困惑を感じてない訳ではない。
だが、どれだけ命の危険があったとしても、あの偽りの空間より――ずっとましだ!
スタンバトンを握りなおす。
意識を集中させる。
蛙は大きく口を開いている。
このまま突っ込んでも、そのまま喰われるだけだ。
横をすり抜けられるようなスペースはない。
――だからこそ、タイミングが大事になる。
小走りに駆ける。赤い舌が戻っていく。
――ここだっ!
舌を戻す一瞬は口を閉じる。その一瞬はきっと無防備になる。ならばそこを狙ってスタンバトンを叩き込めばいい。
そんな無謀とも云える賭け。
だが、どうやらそれには勝ったようだ。
不気味な悲鳴を上げて、蛙がのたうつ。
その脇を潜り抜けるように、強引に押し通る。押し退けた蛙の腹の感触が生温かく気持ち悪い。
デスゲームに閉じ込められていた時は、五感がかなり制限されていた。
だからようやく戻ってこれた時は、触ると得られる感覚がやたらに素晴らしく思えた。
それは今でも大して変わらない。
……だけど、どんな感覚でも素晴らしく思えるって訳じゃないんだな。
そんな当たり前の事が少しおかしかった。