火を移して
何もかもが色褪せて見えた。
コンビニの明かりに照らされながら、片隅に設けてある喫煙スペースで煙草を口で噛んでいる男が一人いた。
男の名前は宮里貴志、平凡で普通な大学生である。
宮里の煙草に火はついていない。しかしそれを吸っては吐き、吸っては吐きとまるで本当に吸っているかのように繰り返していた。
視線はぼんやりと前。大きな通りに面しているが、見えるのは道路だけで時折数台の車が彼の視線を遮った。多くの車が行き交い交通事故も絶えない道路も夜は静かなものだった。
と、そんな宮里のところに一人の女性が近づいてきた。
彼女は煙草を捨てるために設けられている灰入れを挟んで反対側に陣取り、煙草を口で噛んだ。
しかし、火はなかなかつかない。鞄を持っていない彼女はズボンのポケットを探っているが、どうやら火をつけるものを忘れてしまったようだ。
あの、火を持ってませんか?
彼女は頭に直接話しかけているような声で反対側にいる宮里に話しかけた。火を持たない煙草を噛んでいる男にだ。
宮里はそのとき初めて彼女に気付き、自分のポケットに手を伸ばした。そしてごそごそと探った後、ライターを彼女に渡した。
彼女はお礼を言ってからそのライターを受け取り、火をつける。そして少し吸った後、煙をゆっくりと吐き出す。
ありがとうございます。
返されたライターを受け取り、宮里はまた前を向く。
あの、火は付けないんですか?
彼女は宮里の方に向きながら尋ねた。
「いや、煙草、吸わないんだ」
相手の方を向かずに応えた。隣から煙が流れてくるのを鬱陶しいと思うこともなく、ぼんやりと前だけ見つめる。
彼女も宮里と同じように前を見つめた。ただ彼女の煙草だけが短くなっていく。
車が通る。大きなトラックだ。それは赤信号を無視して交差点を突っ切っていった。この辺の夜の道路ではよくあることだが、宮里は僅かに眉をひそめた。
あの車、信号が見えていないのかな?
隣の彼女も同じ気持ちだったようだ。
灰皿に灰を落とすとき、彼女は宮里の隣に移動した。
それに対して何も反応することもなく、宮里はさっきまでのように前だけ見ている。
何か、あったんですか?
同じように前だけを見ながら、喋りかける。
「俺の彼女はここで死んだ。さっきみたいに信号無視したトラックに轢かれて。ちょうど俺に手を振ってるところだった」
淡々と事実だけを言った。そんな感じの返しだった。
彼女はまた吸い吐き出された煙がゆらゆらと空を彷徨う。煙草は半分もなくなっていた。
今日は命日か何かですか?
「一周忌。ちょうど今くらいの時間に轢かれてたよ」
そうなんですか。
何かを考えているのか、時間だけが過ぎていく。
そしてちょうど彼女の煙草が半分をきったところで、宮里はライターを手に取った。
が、それを使うことはなかった。手に持ったライターを眺める。コンビニの明かりではっきりと見えるソレにはところどころ血が付着していた。
一本くらいいいんじゃないですか?
彼女はそう言って、自分の口に噛んでいる火のついた煙草を彼に近づけた。当然近寄ることになり、彼女の手は宮里の腕さえ掴んでいた。
不思議と悪い気は感じはしない。
彼女もきっと許してくれますよ。
宮里は一瞬逡巡してから、手に持ったライターで自分の煙草に火を付けた。そしてむせる。
彼女はちぇっと言って宮里から離れる。そしてたまっていた煙を吐き出した。
そんなことを気にも止めず、ポケットに入った煙草の箱を確認する。残り一本、彼にとっては唯一の大好きな女の形見。
ちょうどそのとき彼女は煙草を吸い終えた。
好きだったんですか?
「彼女だったからな。こいつしかいないと思った初めての相手だった。それに今も好きだ」
愛してたんですね、彼女のこと。
宮里は初めて彼女を見た。
長い黒髪のストレート、穏やかな顔つきで、ちょっと外に行くというようなラフな格好。どこかで見たことがある姿だった。
だが、それがいつでどこだったのかはわからない。
きっと彼女、困ってるんだろうなー。
彼女は少しだけ怒ったように言った。
その姿に心を打たれそうになった宮里は目を背けて前を見る。
気になることを言われた。それが引っかかったのは確かだ。
「死んでるから困ることもないだろ」
そんなことないと思いますよ。
間髪入れずに返ってきた応えに、再び引っかかる。この感じ、どこかで覚えがあると思えたのだ。
「どうしてそう思うんだ?」
教えてもいいですけど、条件があります。
条件、という言葉に再び既視感。その後にどんな条件を出されるのかと体をこわばらせる。
その最後の煙草、私にくれませんか?
その条件に奇妙な感覚があった。この人にならあげてもいい、そんな感覚だ。
「ちゃんと教えろよ」
約束は守りますよ。
最後の煙草を宮里から受け取った彼女は、それを口にくわえる。そして火のついていない煙草を思いっきり吸い込んでから、吸った空気を吐き出す。
そういえばライター持ってなかったな、と宮里が思いつく頃合いに彼女は口を開いた。
私が、そう思うからです。
私だったら、死んだ後彼氏がそんなこと思ってたら困ります。
私だったら、すぐには忘れて欲しくないけど幸せになって欲しいです。
私だったら、その人が幸せになってくれたほうが安心して成仏できます。
だから、失礼しますね。
彼女は抱きつくように宮里に近付き、もう燃え尽きる寸前の彼の煙草に自分の煙草を押し当てた。
火が燃え移る。彼女は火をもらった後、そっと離れた。同時に宮里の煙草が燃え尽きる。
私だったら、幽霊になってもそれを伝えます。
霧がかかったような記憶がどんどん晴れていく。
いつものような深夜のコンビニで彼女と待ち合わせ。一足早く来て煙草を噛む自分。見える彼女の姿。
長い黒髪を揺らしながら、青になった信号を渡ってくる彼女。火を付ける前に手をあげる自分。猛烈な勢いで走る大型のトラック。
声をあげる。彼女の叫声。それらはすぐにトラックの急停止音に消える。
動かなくなったラフな格好の死体。しかし驚いても穏やかな顔つきは彼女。即死していた。
お互いの煙草の火で煙草を火を移す約束。薄れていく彼女の記憶。添えた花びらの揺れ。
私だったら、愛してるって。
隣を見ても誰もいなかった。ただ、自分の足下に火がついたばかりの煙草がぽつんと落ちていた。
宮里は煙草を吸いきり、煙を吐き出す。空へと昇る煙は線香の煙のようにゆらゆらとして、消えた。
「愛してたよ、美緒」
落ちている煙草をもみけし、灰皿に自分のものと一緒に落とす。
それからライターを灰皿の上におき、空になった煙草の箱をゴミ箱に捨てた。
「俺も頑張って幸せになるから」
だから少しだけ、前に進む力をくれ。その言葉は飲み込む。
と、背中を誰かに押されたような気がして、一歩前に進んだ。後ろを振り向いても誰もいない。
宮里はしばらく考えた後、穏やかな顔になって、夜の綺麗な黒を見上げた。
愛してるよ、貴志。
そんな声が最後に聞こえた気がした。