第25話 偶像か人間か
とりあえず今日明日で一話ずつアップします。
遅筆でご迷惑おかけします。
それを見た瞬間、不意に胸が詰まった。
私が川に流してしまった茶色のローブ。
案内してくれた部屋の奥からワーグが持ってきてくれたローブは、確かにあのときのローブだった。
「これ……!これ、です。わたしが、ながしたのは」
僅かに震える手で、そっと布地を撫でる。
あの時は獣の手と口で触った。だから感触が重なることはないけれど、それでもこうして触っているとあの頃の事をまざまざと思い出されて、私は懐かしさに目を眇めた。
いや、正確には懐かしさだけではないのかもしれない。きっと、この世に生まれ落ちた私を、私自身を初めて見てくれた人との大切な想い出の品物だから。だから……、このローブを見ただけで、こんなにも胸が締め付けられる。
そっと目を閉じると、あの時の光景が目の裏に簡単に浮かんできた。
丸く蓑虫みたいになっていた王子。
もしもあの時私が見つけなければ、きっと骸となって獣にでも食われていただろう。そう想像するだけでゾッとする。
私は閉じていた目をゆっくりと開くと、私の邪魔をしない為にか黙っているワーグに話しかけた。
「ごめん、なさい。黙っちゃって」
「いいえ、良いのですよ。何かを思い出しておられたのでしょう?」
どうぞ私のことはお気になさらず、とあくまで優しく気遣うワーグに私は小さく首を振る。
妙にしんみりしてしまった。
心もち重くなった空気を吹き飛ばすように、私はあえて「そーいえば」と明るい声を出した。
「わたしが、これをながしちゃった、から、王子は、着替えがなくて、大変だったんです、よ!」
声は明るいが、発音に気を付けながら話しているのであまり暗い空気が吹っ飛んでいかないのが切ない。
しかし私の意図が分かったのか、ワーグは合わせるように「へぇ」と楽しそうに目を輝かせてくれた。
彼は本当に良い人だ。
「殿下の御着替えですか?」
「はい。水浴び、したとき、に」
話しながらも、水浴びした時のことを思い出して私は乾いた笑いを浮かべた。
あの時のことは、忘れようとしても忘れられそうにない思い出だ。いや、むしろトラウマだ。
これがあったなら、わざわざ葉っぱパンツなんか作らなくても済んだのに。それを思うとうっかりこのローブを川に流してしまったことが非常に悔やまれた。
まぁ、今こうやって衣食住に事欠かない生活が送れることになったのはわけなんだから、流したことは結果的に正解だったわけなんだけれども。
「水浴び…あぁ、山に居られたのですものね」
なるほど、というようにワーグが頷く。
この神殿にはきちんと風呂というものが設置されているが、山では水浴びくらいしか体を清潔に保つ手段はない。あの山は比較的温暖な山で良かった。もし寒かったら、とても水浴びなんてできなかっただろう。
「そういえば、御遣い様は山ではどのようにお暮らしだったのですか?」
「山で?」
ふと思い付いたように聞かれて、私はウーンと唸った。
どのようにと改めて言われると少し困る。
「ふつーです、よ。かじちゅ…果実、取って食べて。たまに水浴び、をして」
「ほぉ、果実ですか。やはり聖地ともなればいろいろな実が生っているのでしょうねぇ…」
なるほどなるほど、とワーグが頷く。
聖地に人間が足を踏み入れることは滅多にないということだから、果樹の話一つでも珍しく感じるのだろう。
「私の顎、大きいから…。大好きな実も、あまりよく味わえなかったのが、残念でした」
「大好きな実?」
「赤くて、小さくて、丸いもの、です。名前は…分かりません」
頭に思い浮かべていたのは苺。この世界での名前は知らないが、前世の苺に味も形も酷似していた、あの苺…!
しかしあれはあの山でしか取れないのかもしれない。
そういえば神殿に滞在してから食事のたびにフルーツが出されていたのにあの苺だけは出ていなかったな、と私はぼんやりと思い返した。
「赤くて丸い……というと、リラの実でしょうか」
「リラは…違い、ます。リラより、もっと小さいです」
リラはリンゴもどきだった。
あれはあれで悪い味ではなかったが、一番よく食べていた食材だけに食傷気味だ。食べるものがあんまり無かったから、しっかりと美味しくいただいたけれども。
「ふむ…ではナーシュの実は?」
「ナーシュも、食べました。でもあれは、あんなに酸っぱくない、です」
ナーシュの実、と言われて思わず顔を顰める。
ナーシュの実はサクランボに似た形をしていながら、とても酸っぱい食べ物だった。如何にも甘そうな匂いと見た目に騙されて思いっきり口に放り込んだ想い出は、あぁ思い出すだけで酸っぱさが口に広がる!
「あぁ…自然のままのナーシュは酸っぱいかもしれませんね」
一瞬目に懐かしそうな色を浮かべて、しかしすぐにワーグは「でも」と続けた。
「町で出回っているナーシュは、品種改良されていますので甘くて美味しいのですよ」
へぇ、と私は意外に思って小さく目を見開いた。
まるで魔法のような「神気」なんてモノがある世界と言えども、文明レベルはどうも低そうな世界だぞ、と私はとても失礼なことを考えていたので、まさか作物の品種改良などしているとは思いも寄らなかった。
実際ナーシュの実は香りが良かったからジャムにでもすれば美味しくなるかもしれないとは思っていたので、品種改良されて甘くて美味しい実になっているのならば是非食べてみたいところだ。
「でも御遣い様のおっしゃる実は、ナーシュでも無いのですね」
「はい。違い、ます」
だから、一言で言うならばそれは苺なのだ。
私が好きなのは苺なんだ!と言いたいが、しかしこの世界の果物の名前は前世の世界とは違うので多分通じないだろう。
苺らしきあの実は果たしてなんという名なのだろうか。あれを食べてる時に王子に聞いとけばよかったかとも思うが、あの時はまだ獣姿だったので結局どちらにせよ無理なわけで。
「ふーむ。何でしょうねぇ」
「何でしょー」
ワーグと一緒になって首を捻って考えながら、私は隣に立つ神官をこっそりと横目で眺めた。
ワーグは本当に不思議な神官だ。
確かに穏やかな気性のワーグは神官にピッタリだとは思うが、神官だったら「御遣い様」をもっと崇め奉るものではないだろうか。少なくとも、今まで見てきた神殿の神官たちは皆恐縮しきりに話しかけてきたものだ。
そんなことを考えていると、気がつけば私の口は勝手に開いてワーグに話しかけていた。
「ワーグは、しろきみつかい…白き御遣いのこと、どう、思っていますか」
「え?」
唐突な質問だったか、と思いながらもやはり気になったのでそのまま聞いてみる。
他の神官たちとワーグは何が違うのか、実際知りたくなったのだ。
しかし私の質問は余程予想外だったのか、ワーグの表情からはいつもの笑みがすっぽ抜け、目を丸くして完全に驚いていた。
笑みを湛えた優しげな顔ではなく、驚いてポカンとしているその顔を見て、私は直感的に思った。きっとこちらがワーグの本当の顔なのではないかと。
「……なぜ、そのような質問を?」
窺うように問われ、私は少し考えてから答える。
「私は、けものです。人間、の姿になっても、腕の力も、前と同じで、強いし……なにより、本当の人間、じゃない」
そこまで言って、私は一旦言葉を区切る。
私の一言一言を聞き逃すまいというように、ワーグがじっと見ている。その視線から目を逸らさずに、私は話を続けた。
「でも、ワーグは…わたしを人間、として見ている気が、するのです」
話しながら、私はワーグに感じていた小さな違和感の正体に気付いた。
そう。御遣い様と崇める神殿の神官たちは、私を即身仏のように考えている。だからあんなにも伏し拝むし、私にも人格があるのだということを考えもしないのだ。
しかしワーグは違う。私の目を見て話し、言葉を返す。きちんと私という存在を認識している。
白き御遣いの事をどう思っているのか。
何となく投げかけただけの質問だったが、ワーグに説明しているうちに私はその違いがとても知りたくなった。
ワーグはしばらくの間、無言で私を見つめていた。
答えあぐねているのだろう。戸惑った気配が伝わってくる。
それでも何か言葉を返さねばと思ったのか、しばしの逡巡の後、ワーグはようやく口を開いた。
「御遣い様は――――」
しかし、ワーグの言葉の続きを聞くことはできなかった。
遠くから幾つもの足音がけたたましく鳴り響いてきたのを感じたのだ。
私とワーグは顔を見合わせた後、同時に入口のほうを振り返る。
ワーグの連れてきてくれたこの部屋は神殿の中でも奥地にあるほうだ。下級の神官は足を踏み入れることは許されないし一般の参拝者が入り込むような場所でもない、と事前にワーグに説明されていたので尚の事、この喧騒に違和感を覚える。
そのまま黙って事態の行方を見守っていると突然、バタバタと部屋に何人もの人間が掛け込んできた。そのうちの一人と目が合うと、相手は口を「あ」の形にしたまま固まった。
(……もしもーし、大丈夫ですかー。というか、アレ?この人どっかで見覚えが…)
首を傾げながらも周囲を見回すと、その場にいるほとんどの人間が兵装をしていることに気がついた。この神殿にいる兵士といえば、王子の部下たちばかりのはずだ。ということは、彼らは王子の部下…ということだろうか。
「あ、あ、あ」
周りの人間たちも、口を揃って「あ」の形にして声を漏らしている。一体、何だ。何なのだ。
最初に部屋に飛び込んできた青年をもう一度見ると、私と目が合った途端に青年はハッとする。その顔に見覚えのあるものを感じ、私は懸命に頭を捻って記憶を探る。
そして、思いだした。
「あ。ニコルだ」
「み…み、御遣い様発見しましたぁーーー!」
私の声に触発されたのか、ニコルが突然大声を上げた。
ニコルの周りにいた人間たちもニコルに合わせるように慌てて大声を出す。
ワァワァと声が煩すぎてよく聞こえないが、兵士たちはなんだかワーグを警戒しているようだ……というか槍の照準がワーグをガッチリとロックオンしている。おまけに兵士たちはそのままの体勢でジリジリと距離を縮めてきているので、危険極まりない。まったく、槍がワーグにささったらどうするのだ。
しかしワーグと顔を見合わせて困惑していたのはそこまでで、入口の兵士が何だか物騒なことを叫んでいるのに気付いた瞬間、私はようやく事態を把握した。
「伝令ぃ!伝令ーーーぃ!!御遣い様と犯人を発見!」
「は、はんにん…?」
「……おやおや。これはちょっと困ったことになっているようですねぇ…」
本当に困っているんだか良く分からない笑顔でワーグが呟くのを聞きながら、私はその後に「殿下に報告されたし!」と言葉が続いたのを耳にして、身を凍らせた。
(か、確実に怒られる……!)
脳裏に、王子の顔がよぎる。
今朝もあれだけ駄々をこねた私に、きっと呆れていたはずだ。
それなのに部屋を抜け出した挙句、兵士まで動員しての大騒ぎ。これはちょっとやそっとのお説教では済まない気がする……。
しかもワーグまで巻き込んでしまった。
よく事情が呑み込めないが、彼らの言葉を聞いた感じではたぶんワーグが私を誘拐したということになっているのだろう。こうして槍をつきつけられて犯人呼ばわりされているのだから。
(あぁぁ…もう泣きたい……)
いい歳してみっともないとも思ったが、少しばかり涙が浮かんでも仕方ない……よね?もう私の許容量はいっぱいいっぱいなんです!
べそをかく私に気付いたのだろう、ワーグが頭をヨシヨシと撫でてくれる。そしてその様子を見て、さらに色めき立って槍を付き付ける兵士の皆さん。
今の私に出来る事といったら、せいぜい嗚咽を漏らさないように努力することと、ワーグのローブの裾をギュッと強く握りしめることくらいなのだった。