第19話 廃屋での朝
焚き火の匂いがまだ残る廃屋の朝。
星の夜が終わり、静かな光が差し込む中で、
三人はそれぞれの“昨夜の言葉”を胸に抱えて目を覚ます。
レイが語った百年の退屈。
ノエルの声が「川が海へ向かう音」だという比喩。
そして、アルドの沈黙がノエルを育てたという事実。
朝の冷たい空気の中で、
アルドは初めてその言葉を自分の中でゆっくり噛みしめる。
今日の旅路は、昨日より少しだけ軽い。
それは、三人が同じ夜を越えたから。
目が覚めた時、焚き火はもう消えていた。
灰が白く残っていて、かすかに煙の匂いがした。崩れた壁の隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
ノエルはまだ眠っていた。毛布にくるまって、片手をノートの上に乗せたまま、静かな寝息を立てていた。
アルドは起き上がって、外に出た。
朝の街道は静かだった。昨夜の星空は消えて、薄い水色の空が広がっていた。遠くの山の稜線が、朝もやの中にぼんやりと見えた。
アルドは枷の感触を確かめた。
静かだった。精霊たちも、まだ眠っているようだった。
昨夜のレイの言葉が、まだ頭の中にあった。
お前の沈黙が、彼女の声を育てた。
意図していなかった。声を賭けたのは、ノエルの才能に賭けたからだ。彼女が神霊と向き合う瞬間の「特等席」にいたかったからだ。声を失うことで彼女の何かが育つとは、考えていなかった。
でも——そうなったのなら。
アルドはノートを取り出した。朝の光の中で、ゆっくりと書いた。
『結果として、正しかったのかもしれない。意図せずして』
それから少し考えて、その下に書いた。
『ただし——完済した後も、私はここにいる。声が戻っても、沈黙の癖はしばらく残るだろう。それもまた、悪くないかもしれない』
レイが屋根の上から降りてきた。
「早起きだな、若造」
『習慣です』
「昨夜の話、考えていたか」
アルドは少し間を置いてから頷いた。
「後悔しているか」
『いいえ』
「そうか」
レイが街道の方を見た。朝もやが、少しずつ晴れていくところだった。
「ボクが『川が海に注ぐ音』と言った時——お前は何を思った」
アルドはしばらく考えた。正直に書いた。
『......嬉しかったです。自分の判断が正しかったと、確かめられた気がして』
「嬉しい、か」レイが繰り返した。「珍しい言葉だな、お前にしては」
『そうですか』
「お前が感情を言葉にするのは、珍しい」
アルドはその言葉を受け取った。それから、また書いた。
『旅に出てから——言葉にした方がいいと思うことが、増えています。ノエルに、と思うことが多いですが』
「ボクにも、今言った」
『そうですね』
レイが首を傾けた。
「成長しているじゃないか、若造」
『......余計なお世話です』
レイが「ほう」と言って、小さく笑うような声を出した。
* * *
ノエルが起きてきたのは、それから少し後だった。
寝ぐせを直しきれていない頭で、目をこすりながら廃屋の外に出てきた。アルドとレイを見て、「おはようございます」と言った。
アルドがノートを開いた。
『おはようございます、ノエル』
ノエルが少し目を丸くした。
「師匠、今日も朝の挨拶してくれましたね」
『していますよ。毎朝』
「えへへ」
ノエルが伸びをした。それから空を見た。
「今日は晴れますね」
「晴れる」とレイが言った。「昼から風が出る。街道の西側を歩いた方がいい」
「なんでですか」
「東側に古い沼がある。風向きによって、水霊が機嫌を損ねることがある。今日はそういう日だ」
「へえ......レイさんって、そういうこともわかるんですね」
「全部わかる」
「全部、かあ」ノエルが少し考えた。「じゃあ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「今日、噛みますか」
レイが少し間を置いた。
「......わからない」
「え、全部わかるんじゃないんですか」
「詠唱に関しては——お前が決めることだから、ボクには見えない」
ノエルが「そっかあ」と言った。それから、なんだか嬉しそうな顔をした。
「私が決めること、なんですね」
「そうだ」
ノエルが革張りのノートを胸に抱えた。
「じゃあ、今日は噛まないことにします」
「決意で決まるものではない」
「でも、決意しないよりはいいじゃないですか」
レイが何も言わなかった。アルドが唇の端をわずかに動かした。
* * *
朝食は、昨日の残りのパンと、アルドが水筒のお茶を分けたものだった。
質素だったが、誰も文句を言わなかった。
ノエルがパンをかじりながら振り返りノートを開いた。歩きながらではなく、廃屋の壁にもたれて座って書いていた。アルドがそれを横目に見た。
「昨日の夜のこと、書いてます」ノエルが言った。「レイさんが百年待ってたって話」
『感想は?』
「なんか——すごく長い時間なのに、レイさんがそれを『長かった』って感じで言わないのが、なんかいいなと思って」
『長かった、とは言っていませんでしたね』
「ただ『退屈していた』って。でも淡々と言ってて」
レイが「長かったかどうかは、今となってはわからない」と言った。
「わからない、ですか?」
「待っている間は長く感じた。でも——声が聞こえてからは、それまでの時間がどのくらいだったか、あまり気にならなくなった」
ノエルがしばらくレイを見た。
「......それって、今が楽しいってことですか」
レイはすぐには答えなかった。
焚き火の灰が、朝風にかすかに動いた。
「......そうかもしれない」
ノエルが振り返りノートに何かを書いた。アルドには見えなかったが、ノエルが書いた後に少し微笑んでいたのは見えた。
アルドは自分のノートを開いた。誰にも見せないページに、一行書いた。
『今が楽しいと言った——レイが』
それから少し考えて、その下に書いた。
『私も、そうかもしれない』
三人は朝食を終えて、廃屋を出た。
街道の西側を歩き始めた。レイが言った通り、昼前から風が出てきた。西側は風を背に受けて、歩きやすかった。
ノエルが前を向いて歩きながら言った。
「今日は噛まないぞ!」
『頑張ってください』
「師匠も応援してくれてますよね」
『ええ。しています』
「私の詠唱……魔力で感じてますよね」
『感じています』
「じゃあ——第Ⅶ節の手前で、少し“支え”てもらえますか。
前のめりになってるところを、そっと整えてくれる感じ」
アルドは少しだけ足を止めた。
【......できるかわかりませんが、意識してやってみましょう』
「ありがとうございます」
レイが上空から「無茶を言うな」と言った。ノエルが「でもやってみてくれるって言ってくれました」と言った。
街道が、朝の光の中に続いていた。
* * *
「今日は噛まないと彼女は言った。
決意で決まるものではないと知っている。
でも——決意した顔で歩く彼女を見ていると、
今日は噛まないかもしれない、と思った」
―― アルド、筆談ノートより
第19話は、アルドの“変化”がはっきり言葉になった回だった。
レイの問いかけに、
「嬉しかった」と正直に書いたアルド。
旅に出てから、彼は少しずつ“言葉にする”ことを覚えている。
そして、ノエルの
「今日は噛まないぞ」
という決意に対して、
アルドが「意識してみます」と返したのも大きな一歩だった。
レイが「今が楽しいかもしれない」と言い、
アルドもまた「私も、そうかもしれない」と書いた朝。
三人の旅は、ただ依頼をこなすだけのものではなく、
互いの変化を見つけ合う時間になっている。
今日の街道がどこへ続いていても、
この朝の光はきっと忘れられない。




