第19話 星菜蛍
「――はぁっ……はぁっ……! ま、撒いたか……?」
「ここまで来れば……っ、大丈夫そうね……!」
肩で息をしながら後ろを振り返る。戒田の姿どころか、周りには誰一人としていない。それもそのはずで、俺たちはPLOWの外まで逃げてきていたからだ。
呼吸を落ち着かせながら、近くにあった木造りのベンチに腰掛けて休憩する。
「大丈夫だったか? 何かされたりは」
「ええ、大丈夫。あなたが助けてくれたから」
……どちらかというと助けられたのは俺だったような気もするが……。あえて訂正することでもないか。
「良かった。それで、君はどうして――」
「――星菜」
「え?」
「私の名前。星菜蛍」
――星菜蛍。その名前を聞いた瞬間、胸に痛みが走る。ミキの時もそうだったが、どうしてこんな気持ちになるのか。単純に調子が悪い……とはまた違った、心の芯からくるチクリとする痛み。
「あなたは?」
「あ、ああ。俺は柊志樹だ」
よろしくとは互いに言わず、自己紹介と呼ぶのも烏滸がましいほどぶっきらぼうな挨拶は終わった。
人付き合いが苦手なのか、それとも単に警戒されているのか。蛍はそれ以上何も言おうとしない。それならと、先ほどの続きを口にする。
「それで、蛍はどうしてあいつに付き纏われてたんだ?」
「いきなり呼び捨てだなんて、随分馴れ馴れしいのね」
「あ、すまない。そっちの方がしっくりきたから、つい」
春佳は名前しか分からなかったから別として、初対面の人間を下の名前で呼ぶことなんてこれまで無かったのだが、つい自然と口をついて出ていた。
「別にいいわ、しっくりきたっていう点では私も同じだから」
「同じ?」
「私も、あなたのことは名前で呼ばせてもらうわ」
「ああ、それは構わないけど」
「……それと、どうしてかは私にも分からない。急に声を掛けてきたから」
「そうか」
じゃあ本当にただのナンパだったのか。確かに蛍は綺麗だ。声を掛けられたとしても何ら不思議なことではない。
「つっ……!」
一息ついた瞬間、殴られた頬に痛みが走り思わず顔を歪める。
「ちょっと、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「っ、唇に血が……!」
「唇? さっき殴られたときに切ったのかな」
あの時はアドレナリンが出ていたのか、指摘されると痛みがじわじわと追いかけてきていた。
「ちょっと待って」
言って、蛍はバックから白いハンカチを取り出す。
「これ使って」
「……それ、ハンカチだけど」
「いいから」
「いや、血が――」
「……もういいから動かないで」
さすがにハンカチを血で汚すのは気が引けたため断るも、痺れを切らした蛍はハンカチをペットボトルの水で濡らして、俺の唇を丁寧に拭ってくる。
「いてっ!」
「ほら、動かないで」
整った顔が目の前で止まり、その綺麗な瞳に気恥ずかしくなって視線を逸らす。
「――はい、終わり」
「……ありがとう」
そうして、慣れた手際で処置はすぐに終わりを告げた。
「……どうして私を助けようとしたの?」
先ほどまで真っ白だった、今は僅かに赤く血の滲んだハンカチをしまいながら、蛍はそんなことを尋ねてくる。
「え? どうしてって――」
どうして助けようと思ったのか。理屈じゃない。気が付いたら身体が勝手に動いていたのだ。そこに理由らしい理由は見当たらない。
「あの状況で無視するわけにはいかないだろ」
「……そう」
蛍はじっと俺の顔を見る。ひょっとしてまだどこかに血が付いているのだろうか?
聞いてみようと口を開こうとした瞬間、俺を見る蛍の瞳から一筋の雫が頬を伝った。
「蛍……?」
「えっ? な、なんで……⁉」
慌てて涙を拭う蛍に俺は何も言えないでいた。楽しみにしていたであろうはずのPLOWでの日々を訳の分からない奴に台無しにされたのだ。表面上では気にしていない素振りを見せていても、やはり内心では傷ついていたのだろう。気が緩んで涙が出たとしてもおかしくない。
「……大丈夫か?」
「これはちがっ! な、なんで……?」
「仕方ないさ、別に気にすることじゃない」
「私は本当に気にしてなんかっ……!」
ここでハンカチを差し出せれば良かったが、生憎と何も持っていない。出来る事といえば、精々が泣き顔を見ないようにして、涙が止まるのを待つことだけだった。




