プロローグ:深夜の告白と一枚の未来図
柳瀬真司、30歳。東京の喧騒を背景に、大手広告代理店のディレクターとして、常に時間とプレッシャーに追われる日々を送っていた。
彼の人生は、効率と実績で彩られていたが、愛と情熱という名の色彩は、久しく欠けていた。
独身。特に恋愛に興味を持つこともなく、週末はジムか、決まった友人と飲むのがルーティンだった。
彼の心は、穏やかな停滞の中にあった。
その夜、真司は得意先の接待を終え、終電間際の山手線に乗っていた。
金曜日の夜の重い空気、わずかに残る酒の余韻。
真司は空いていた優先席の端に座り、目を閉じる。疲れ切った彼の意識は、すぐに浅い眠りへと落ちかけていた。
「あの…柳瀬真司さん、ですよね?」
突然、頭上から降ってきたのは、透き通るような、それでいて確固たる意志を感じさせる声だった。
真司は反射的に目を開けた。
そこに立っていたのは、一糸乱れぬセーラー服に身を包んだ女子高生だった。
小島奈々。
艶のある黒髪を低い位置で一つに結び、真っ白な肌。
少しつり上がった目元は、彼女の意志の強さと並外れた自信を物語っていた。
真司の目線から見上げても、その存在感は圧倒的だった。
真司は、一瞬で酔いが醒めるのを感じた。
なぜ、見ず知らずの女子高生が自分の名前を知っている?
「え…君は…どちらの…」
真司が戸惑いながら答えると、彼女は少しの躊躇もなく、真司の瞳をまっすぐに見つめ、爆弾を投下した。
「私、未来の妻です!」
車両全体の時間が一瞬にして凍りついたような錯覚。
周囲の乗客の何人かが、好奇の視線を向けてくる。
真司は、すぐに状況を分析した。
(イタズラだ。新手のナンパか、SNSの罰ゲームか。だが、なぜ名前を知っている?)
「はは…君、面白いこと言うね。僕は君より一回りくらい上の年齢だよ。人違いじゃないか?」
真司は、あくまで大人として、丁寧に、冗談として処理しようとした。
女子高生、奈々は真司の態度に動じることなく、首を横に振った。
その冷静さが、真司の恐怖を煽った。
「いいえ。あなたは、間違いなく私の愛する夫、柳瀬真司さんです。30歳。広告代理店のディレクター。好きな食べ物はハンバーグと日本酒。恋愛には極端に不器用で、仕事のストレスを溜めやすい。
高校時代の友人に本田悟さんと西村美咲さんがいて、特に本田さんとは毎週金曜の夜に連絡を取り合っている…全部知っています」
真司の顔から、一切の笑みが消え去った。
本田と西村は、ごく内輪の友人。
特に、本田との毎週の連絡は、誰も知らない真司自身のささやかな習慣だった。
「君、ちょっと待って。どこで僕の個人情報を…」
奈々は真司の深刻な顔を見て、ようやく事態の重さを理解したかのように、神秘的な微笑みを浮かべた。
「驚かせてごめんなさい。でも、信じてもらうには、証拠が必要でしょう?」
彼女は、真新しい制服のスカートのポケットから、二つ折りの古い携帯電話を取り出した。未来の技術で作られたのか、その古めかしい筐体は異様な光沢を放っていた。
「これを見てください」
奈々が真司に差し出した画面には、ぼやけてはいたが、紛れもない真司と奈々のツーショットが映し出されていた。
写真は、結婚披露宴らしき場所で撮られたものだった。
真司は、今より少し皺が増え、穏やかな笑顔を浮かべている。
隣の奈々は、セーラー服ではなく、純白のウェディングドレスを着ていた。
そして、奈々の薬指には、きらめく指輪がはめられている。
真司の顔は、未来の幸福に満ちていた。
「これは…」
真司の喉から、掠れた声が漏れた。
「私たちが結婚した時の写真です。20年後の未来から、私が持ってきた愛の証拠です」
電車が「池袋」の駅に滑り込む。
奈々は真司の瞳をまっすぐに見つめ、再度宣言した。
「信じなくても構いません。でも、私たちが結ばれるのは運命です。そして、その運命を少しでも早く、より良いものにするために、私は書き換えに来たんです」
真司の理性は、奈々の確信と未来の自分という証拠によって、完全に麻痺させられていた。
彼は、非現実的な現実に、抗う術を失っていた。




