レイリー散乱の向こう側
鑑みるに私は、親にとっては聞き分けの良い娘で、友達にとってみれば何でもお願いを受け入れてくれる優しい友達で、少し前まで付き合っていた彼にとってみれば極めつけに都合の良い彼女だったのだろう。
世間体だとか自身の保身だとか、所謂処世術的なものを意識しているわけではないけれど、私は波風を立てない生き方を選択することが多い。多いというか、百パーセントに近い割合で相手と自分が衝突するような場面があれば、私は自分を主張しない。自分の意見が他人の意に反するものであれば、相手のそれらしい気配を感じ次第すぐに収めてしまう。
だからといって私に自我がないわけでも、意見を持っていないということでもない。それらを持っていることと、周囲との衝突を避けることは成り立つはずだし、私の中では健やかに並立している。
ただ、私が持っている自我や意見、表現が色々あるので私自身という言葉でまとめてしまうならば私自身を、周囲に合わせて引っ込めたり曲げたりへこませたりした分だけの私自身はどこへ行ってしまうのだろう。引っ込めればその分、私自身の一部分で密度が濃くなってしまうだろうし、曲げたりへこませたりすれば歪な形になってしまう。衝突を恐れて逃げた私自身は行方を眩ませたわけではない、行き場を失ったのでもなく、単に行き詰まっているだけなのだ。
「君が感じているようなことは、誰かに相談したりしたのかな。僕からしてみれば、君の中には常に爆発寸前の爆弾を孕んでいるようにしかみえない。ストレス、とも違うのだろうけれど君自身が少しずつ解放されるような空気穴みたいなものが必要なのじゃないかな」
同級生、同じクラスの青木が大人びた口調で言葉にする。彼は他の同級生と比べ落ち着いて見えるし、実際のところ病気で一年間休学していたので、本来は既に大学生になっている年齢なのだ。
「空気穴ってどうやって開けるの。針で突っつくとか。痛いのは厭だなあ」
「内側から外へ向けて開く扉を作るんだよ。内側に開く扉だと逆に入ってきてしまう可能性がある。君自身の中で一番密度が濃い場所を見付けて慎重に扉を設置する。扉は使う前にしっかりと固定されていることを確認してから開けること。鍵はかけないほうが良いよ。間違って閉めてしまったときに大変だ」
「青木くんも自分の中に扉を作っているの? まるで経験者みたい」
「僕の場合は一つや二つじゃないよ」
「とても可笑しなお話をしているよね、私たち。まるで絵本に出てくる設定みたい」
私たちの高校には北と南に校舎が分かれている。校舎の間を繋いでいる縦長の建物は二階には廊下があって、一階が校舎の玄関で下駄箱が寂れた団地みたいにして連なってる。屋上には私たちの心が空へ逃げ出さないように仕切りをしているつもりの手摺がある。青木と私は放課後に手摺へ背を預けながら益体もない会話をしているのだ。尤も益体もないかどうかは私が感じているだけで、青木がどういうつもりで私が誘った暇つぶしに付き合っているかまでは判らなかった。
「扉の形はどんなの」
私は空中に人差し指で線を描きながら青木に尋ねる。
「僕の場合はいろんな形があるかな、普通に縦長の長方形だったり正方形だったり、丸かったり楕円だったり。自分の中から逃がしたいものが何かによって、通りやすい形に扉を作るのがコツ」
「例えば、そうだな、いまの私みたいにして私自身を抑え込んでしまってできた澱みたいなのを私から絞り出して放ってしまいたいときはどんな形が適切なのかな」
それまで手摺に触れていた両手を話して腕組みをした青木は、しばらく考えてから右手と両手で輪を作った。
「その場合、丸い形の扉が良いと思う。扉自体には装飾がなくて、少し燻ぶった黄色というか山吹色のような色をペンキではなくてクレヨンで塗りつくすのがベターで、取っ手は丸形ではない棒状のものが良い」
「具体的だね。でも作るのに時間がかかりそうだ、材料の調達や資材の準備も大変そうだ。私にできるかな」
「材料も資材も、既に君の中にあるものから持ってくればいい、というよりも君自身の中からしか用意できないものだから」
青木は腕組みを解いて、私と正面から向かい合う位置に立つ。彼の後ろに広がる空は、夕焼けに色づいた入道雲が半分を覆っていた。
「でも僕は、或いは僕だったらという仮定のもとでの話だけれど、君には横長で長方形の扉を作ってあげたいな。その扉には色もなければ取っ手ももないし、一見したところで扉とは気付かないかもしれない。だけど、確実に存在する扉で、その扉からは君が進みたい場所へ進めるし、飛び立ちたい所に行くことができる。進みたい場所、飛び立ちたい所があれば、の話だけれどね」
「あれね、猫型ロボットが取り出す扉みたいなものね」
「概念としては似ているけれど、君が作るべき扉の先にあるのは現実の場所ではないよね」
「なにそれ。解らない」
「多分、恐らく、それとも概ねといえば聞こえがいいけれど、君が自分を押さえ込んでしまうのは性分ではなく生まれつきの性格でもなければ周囲の影響で仕方なくしているわけでもないよ。きっと願望なのだと僕は思う」
訳の分からない言葉を残した青木は、じゃあ僕はこれでと言って歩き出した。私に背を向けたタイミングで「多少は暇つぶしのお役にたてかな」と嘯いて私から離れていった。彼が校舎へ入る手前で私は「役には立たなかったけど、少なくとも役に立とうとしてくれてありがとう」と呟いた。きっと青木の耳には届かなかっただろう。
願望、と青木は言った。私の願望なんだろうか。望んで、願って、自身を延べ棒で引き伸ばし社会に溶け込み逆らわず抗わず諍いを避けて、液体のようにして日々と日々の隙間を通り過ぎるようにして生きているのだろうか。そうではないと切り捨てるには、私は私自身を知らないのかもしれない。青木なら判る、それとも私以外の人であれば私のことが理解できていて、実のところ自身のことを最も知悉していないのは私自身なのかもしれない。
青木が私のために作ろうと示した扉には、色もなければ取っ手もないと言っていた。私側に取っ手がないだけで反対側にはあるのだろうか。もしそうだとしたら、その扉は私の中から出ていくものではなく、当初は青木が否定していた外側から私に入ってくる扉なのではないか。
左手と右手でちょうどローマ字のエルを形作った私は、夕焼けで色づいた空に向かって両手を重ね合わせる。横長の長方形で空が区切られた。こうして扉を作らないと私は私以外を受け入れない。作った扉から迎え入れた誰や何かと私自身は溶け合って、今まで私自身を押さえ込むことで防いでいた憧れや羨望と手を繋ぐことができるのだろうか。きっとそうすることで、私が行きたい所、生きたいと願う場所へ誘われるのだとしたら。
校門から青木が出ていく姿を見つけた。一度立ち止まって私を振り返ったようだった。空に立ち昇る入道雲が茜色に染まり切らないうちに、私は駆け足で校舎を飛び出して追いかけることにした。




