ジャグラー
「急にお伺いして、お邪魔ではなかったでしょうか」
男は椅子に腰をかけると、まず始めにそう言った。夕暮れの淡い光がカーテン越しに室内に滲んでおり、それだけでも寒々しい病院の診察室が暖かな雰囲気なるものだ、と男を前にした医師である影山は思った。
室内には男と影山のほかに、看護士の水沼が女性らしい手つきで室内の片付けをしている。立て込んでいた外来患者の診察を全て終えた影山が、ちょうど一息ついたところであった。
「構いませんよ、それよりも急に訪ねてこられたのには理由があるのでしょう。それを聞かせてください」
影山の問いに対して、男は居住まいを正す。
「先生が担当されている解離性同一性障害の患者、畑田についてです」
「……なるほど」
「ここ数ヶ月の診断で、先生は彼が解離性同一性障害と断定されて、治療の次段階へ移られると聞いています」
確かに、影山は畑田昇という解離性同一障害の疑いで受診してきた患者を治療中である。数ヶ月前に初診をしてから、数ヶ月を経て畑田が解離性同一性障害、つまり多重人格であることを断定した。日本では珍しい臨床のケースであるいえるため、この断定までに影山は医師として最大限の慎重さで診断をした結果のことであった。
「はい、次段階、つまり複数人格の判別へ、治療を移行することになっております」
「先生は今のところ、彼の人格をいくつまで把握していますか?」
解離性同一性障害と断定するまでの間、既に影山には畑田の中にいくつかの人格があることを確認していた。
「三つの人格ですね、今のところですが」
「それは、どのような」
「もとの人格、つまり主人格をHとします。その他に、やや粗暴ともいえる性格のH1、そして極度に無口で臆病なH2、の三つ」
「それは間違いですね。彼の中には他に、現在現れている別の人格があります、つまり四つ目の人格です」
そう言った男は、影山の方へ身を乗り出すようにして、話を続ける。
「私としては、あくまで素人としての意見なのですが、この今現在現れている四つ目の人格へ、人格統合をする方向で治療を進めて頂きたいと考えています」
「そうですか……まあ、治療を進めながら検討させて下さい。いまのお話は、ご意見として頂戴しておきます」
影山の返答を聞いた男は、若干の不安と依願を含めた眼つきで影山を一瞥してから、
「四つ目の人格がある、その報告をしたかったものですから。では、今日はこれで失礼します」
と言い、落ち着いた素振りで椅子から立ち上がると、診察室を出て行った。
男が出て行って暫くして、影山は深い溜息をつきながら椅子の背凭れに体重を預けた。
「なあ、水沼さん。いまの話、聴いていただろう?」
「ええ……どうされましたか、先生」
片付ける手をいったん休めて振り返った水沼は、影山へ問い返した。影山は椅子に深く座ったまま、天井に顔を向けている。閉じている目蓋を通して、蛍光灯の光が男の表情を形作っているような気がしていた。
「君はこういったケースを知っているかい?」
「先生がお知りにならないことであれば、わたしは存じ上げません」
そうだろうね、と言いながら少し勢いをつけて椅子から立ち上がると、影山は窓際まで歩いていく。
「私は、はじめて聞いたよ。患者本人から自分の人格を報告してくるケース、というものをね」
影山はカーテンを少し開けて外を見た。そこには病院の玄関でタクシーに乗り込もうとしている、先ほどまで診察室にいた畑田の姿が見えた。




