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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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丁々発止溌二乗

 ある朝、私が外出をしようと玄関の框に立ったときのことです。玄関の土間には私の革靴と運動靴と、そして見知らぬ靴が置かれていました。仕事へ出向く際に履いている革靴は黒い皮にうっすらと埃を被っていました。そろそろ磨いてやらねばなるまい、と決意にも満たないことを考えたまま、延々と一週間は経っていたのではないでしょうか。ことほど左様に、いつまでたっても布団の中で温もりと戯れている子供が母から布団を上げよとせっつかれて、いまやろうとしていたところなのだから、などと思想も何も見受けられようもない言い訳をしてしまうのに酷似しているのかもしれません。運動靴は私が私服で外出をする場合に履いているものです。かれこれ四、五年は履き続けています。底は磨り減ってしまって、白かった紐も汚れで茶色の出来損ないのような色合いに変っています。然しながら人の目を気にするような甲斐性もない私にとってみれば、地面へ素足をつけないことだけに足りておればよくて、そいうった意味ではこの運動靴もあと数年は履き続けられるのではないかと思っています。

 さて問題は、もう一足、土間に置かれている見知らぬ靴なのです。形状は、どちらかと言えば変哲もない、私が仕事へ履いていく革靴に似た形をしています。しかし変っているのが、その靴の色なのです。革靴などであれば黒や茶といったいたって地味な色合いが求められると思います。ところがこの、私の部屋の土間にぽつねんと置かれている靴は、表も中も、全てが黄色いのです。まるで南国に群生している発色も鮮やかな植物をなめして作ったような革、いえ革を染めたものとすら呼べないないものなのかもしれません。そのような靴が、土間の中央に行儀良く並んで、左右も上下も寸分も狂いがないようにして置かれているのであります。逆に私の靴などは土間の隅のほうへ追いやられており、これではどちらがこの部屋の主の靴であるか、知らぬ人がこの状況に立ち会ったのならば、間違いなく黄色い革靴がこの部屋の主、つまり私の所有物であると断じてしまうのは想像に難くないのではなかったかと思います。

 このような靴を買ったことがあるかしら、それとも友人の誰かから貰ってきていたかしらと記憶を弄ってみても、何ら思い当たる節がありません。それに、私が少しばかり勉学に疎いからと言って、そのような事を忘れるなどということは無いはずなのです。然るに、これは誰か私以外の靴だとしか思えませんでした。私がこのような靴を買ったことも貰ったことも、そして土間へ置いた記憶がないというならば、私が記憶喪失にでもなっていないかぎり、これは私以外の靴なのです。これは間違いのないことだと私は確信しました。そうして、私は框にどれくらいの時間立ち尽くしていたことなのでしょうか。私の部屋は、市電が目の前を走る木造二階建ての貧相な貸家です。私の部屋は貸家の一階にあります。玄関と六畳間だけの小ぢんまりとした間取りで、もし六畳間で何か物音がすれば自ずと玄関で立ち尽くしている私の耳に入らないはずがないのです。そしてこのとき、私の耳に、何か、板が外されるような、木材と木材が擦れあって、板の上に大きくて重い何かが圧し掛かるような耳障りな音が聞こえてきました。玄関に居ながらにして恐ろしくなった私は、すわ泥棒か、それとも猫か犬が部屋の中に紛れ込んだのかと身を竦めてしまいました。玄関で怖気づいている私を尻目に、板が擦れる音と、私の部屋の天井が軋む音は絶えることなく、それよりもはじめて聴こえてきたときよりも明瞭な感じで音が鳴り響いているのでした。事ここに及び、私はこのまま玄関から出て誰かに助けを求めるか、それとも部屋の中へ戻り音の正体を見極めるのかに二択を迫られることになりました。但し、よし外に出て誰か道行く人に助けを求めようとも、何から助けて貰いたいのかすら伝えられないようであれば、人々の失笑を買ってしまうことは必然なのですから、ここはひとつ、意を決して部屋の中を覗いてみることにしました。

 私が恐る恐るといった呈で、六畳間と玄関の間にある敷居に足の先をかけて、頭を斬首される前の咎人のような恰好で部屋の中を覗き込んでみると、部屋の中には何ら変わったところがありませんでした。しかし、ひとたび視線を宙に漂わせ、天井の辺りを見てみて私は腰を抜かしてしまいました。文字通り、玄関の床にへたり込むようにして座ってしまったのです。天井に貼られている板、その一枚、部屋の左隅にあるその一枚が無くなっていて、代わりに出来た四角い空間は埃を帯びた薄暗いものでした。その薄暗い空間から得体の知れない二本の棒が私の部屋へ向かって揺れているのです。その棒が徐々に長さを増していっているようでした。やがて私は、その二本の棒が人の足だということに気がつきました。二本の棒は脛にまばらな毛を生やしていて、靴下もなにも履いていない裸足の人間の足でした。そして脛から腿、腰、腹、胸と人間のかたちが薄暗闇の天井裏から露になってくるにつれて、これは泥棒に違いないぞ、お二階が不在なうちに忍び込んで、それから私の部屋の金目のものを盗みにきた不逞の輩に違いないぞ、という想いが強くなってきました。それでは、と私は泥棒が部屋へ降りてくるまえに外へ出て人に、それとも駅前まで走っていって警官に助けを求めようとして腰を浮かしかけたときのことです。

「ああ、もし、そのまま動かないで。怖いことはありませんから」

 と泥棒が言ったのです。私はまた怯えて腰を落としてしまいました。しかし、本当に怯えるのには早すぎたようです。なぜならば天井裏から全身をさらけ出して、音を立てて私の部屋へ降り立ち、全身も露になった泥棒の姿を見て、私は悲鳴をあげてしまったのですから。否、私は悲鳴をあげたつもりですが、ただ空気の塊を吐き出しただけかもしれません。証拠に、私の悲鳴は自身の耳にすら届いていなかったようなのですから。そのような私を余所に、泥棒は部屋へ降りると少し屈伸の真似事をして、それから身体を伸ばしたりするような体操をしていました。足は裸足でしたが、下着だけは着けていて、そして上半身も裸なのでした。痩せぎすでもなく肥っているわけでもなく、うっすらと筋肉が付いているような身体つきの男でした。しかし驚くべきは泥棒の顔、頭です。泥棒の頭は動物の、犬というかそれに類する動物に非常に酷似していました。いや、これは曖昧すぎるのでしょう。泥棒の頭は犬そのものなのでした。はじめはお面やら被り物でもしているのかしらん、と目を凝らしてみたものですが、一向目を凝らしても本物にしか見て取れず、毛並みといい色艶といい、私が知っている犬そのものなのです。その突き出したように尖って牙が生え揃っている口で、私に向けて言葉を投げかけたのです。私がどれほど恐ろしい感情に囚われていたか。日常から非日常などという生易しいものではありません。寝ているうちに見る夢、悪夢というのともまた違うように思えます。一種の名状し難い、感情の波のようなものに攫われてしまって、違う異国に来たしまった漂流者とでも形容すればよいのかもしれません。そして泥棒は、犬は、男は、私に言葉を継いだのでした。

「申し訳ない、ああ、これはとても申し訳ないことをしました。いえね、決して驚かせるつもりなどは微塵もなかったのですよ。決してね、決してですよ。私にしてみればやむを得ない事情がありまして、それでこのようなかたちで参上してしまったわけですが、そうですねえ、あなたからしてみれば些か腰を抜かしてしまう、おお、そういえば先ほどから本当に腰を抜かしてしまっているようですね、や、申し訳ない、申し訳ない。いやね、私、あなたの部屋の上の階に住んでいまして、山野と申します。山野誠一郎と申します。どこかでお聞きになられた名前ではございませんか、ない、ああ、そうですか、それは私の力不足というものであって、あなたには責任がありませんがね、多少は落胆してしまってもよろしいでしょうか。些か、些かですよ。そう、まあ、お座りになってください、あなたの部屋なのですから、座るといってもほら、ここに座布団があるじゃありませんか、そうですそうです、なにも怖がることなどないのでありましてねえ、私も一枚座布団を頂戴したいものですが、そうですか、一枚しかありませんか、残念ですね。なに、このようなことをしたのには事情がありまして、そう、ここの二階に住んでいると言ったでしょう、先ほどですね。それがなのですが、昨日ですね、昨日ですよ。私が部屋から出ようとしたところ、部屋の扉も窓も全てが全て開かなくなってしまったのですよ。これには困りましてね、私にも心当たりがないことはないのですが、そうなんです、奴等の仕業に違いないのですよ、私を部屋の中に閉じこめてのうのうと社会で悪事を働こうなどと画策していたわけなのです。私がそのような陳腐な手段に負けるはずがないことは日本中の皆様がご存知のことと、そういえばあなたは私のことをご存知ではなかった! なかったのだ! 失礼、心から失礼をしました、お詫びしたい。そう、私は部屋から出なければならなかった、そうすると、都合の良いことに、私の部屋の畳を一枚捲ってみると、その下から、つまりあなたの部屋ですが、そこからかすかに明かりが洩れてくるではありませんか。これ幸いと、私が板を捲ってみたところ、そこはいまこうしているようにあなたの部屋で、そうしてあなたは部屋の電気を点けたまま眠っておられたわけです。そこで音を立てないようにゆっくりと、ゆうっくりと降りましてね、降りたのですよ。そのまま、あなたの部屋の玄関から外へ出ることが出来たというわけです。当然、戻ってくるときも私の部屋は閉ざされてしまっていたので、あなたの部屋の玄関から上がったわけですが、あなたは相も変わらず眠り呆けておられて、これは起こすのも悪いかと、そのまま自分の二階の部屋へ戻ってしまったわけです。そのとき、自分の部屋へ戻ってから気がついたことなのですが、おお、あったありました、実は私の靴をあなたの部屋の土間に忘れてしまって、大変失礼をしました。いえね、この靴は非常に大事な靴でして、これがないと私はおもうように動けないのですよ、不便でしょう、不便ですねえ、ですからこれを取りに戻ろうとしたときには昨晩、あなたが目を覚まされていて、それでは下に降りることは出来まいなとして、今日、改めてここへ、あなたが出かけた頃合を見計らって降りてきたわけですが、まさかあなたがそんなところに居たなんてねえ、想像もしませんでしたよ、さ、それでは、私はこの辺で失礼をさせて頂いてよろしいかと思うのですが、よろしいですか」

 と、泥棒で犬で男で山野誠一郎は私に背を向けると土間にあった黄色い革靴を履いてさっさと外へ出て行ってしまいした。二階の部屋が閉ざされたままなら、帰りにはまた私の部屋を通るのではないか、そのときには文句のひとつでも言ってやろうではないかと心していたのですが、結局それきり泥棒で犬で男で山野誠一郎は私の前に姿を見せることはありませんでした。ただ、いまでも時折、黄色い革靴が私の部屋の土間へ置かれていることがあるので、私が部屋に居ないときや眠っているときにこっそりと二階から降りてきては外出して、私が感知しえないところで戻ってきているようなのです。黄色い革靴はいつも土間の真ん中に、きちんと並べられて置かれています。私も慣れたもので、最近では泥棒で犬で男で山野誠一郎の黄色い革靴の場所には自分の靴を置かないようになりました。

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