月夜の述懐
洋ちゃんのお腕には瘤があるのねえと、お母さまがおっしゃったお言葉が自分にとってのお母さまの記憶です。
お母さまは自分が、まだ小学校にあがる前の幼年の時にお亡くなりになられたので、寂しい哉、自分が覚えているお母さまというのは、そのお言葉たった一つだけなのです。
洋三さんはお母さまのお美しい手に引かれて、川沿いの桜並木で楽しそうに散歩をしておられましたよ、はたまたお母さまは赤ん坊であった洋三さんに大層手を焼かれていらっしゃいましたよ、などと親類縁者の皆様方に云われたとしても、記憶の無い、とんと思い出す事も出来ないそのような出来事は、朝に起きてから夢を思い出すようなものなのです。
そのお母さまがお気付きになった瘤というのは、自分の右手にあります。ちょうど手首と肘を五つに区切ると、その五分の三あたりの腕の外側にあります。お母さまがお亡くなりになる前は、まだそれほど大きなものではありませんでした。しかし、お母さまがお亡くなりになって一年もしないうちに日に日に膨れ上がり、小学校にあがる時分になると、削れる前の軽石の如き大きさになってしまったのです。
自分にはそれが、如何にも己の心が現れたような、醜い己を見ているような気がしたのです。瘤がいつしか自分の右手から、全身に至るまで大きくなり、そしてきっと、其処から己の中にある薄汚い感情や醜さが暗色の液体となって流れ出るに違いない。そのような自分自身の奥底から沸きあがる感覚を抑える事が出来ませんでした。ですので、春が過ぎて梅雨になっても、汗が止まらない真夏の日中でも、只ひたすらに瘤を隠す為だけに、常に袖の長いお洋服を着ました。
そうしますと、小学校のまだ幼い子供というものは純粋と云いますか、非常に残酷なまでに動物的と云いますか。その自分がいつも長袖を着ていることを面白がって、からかうのですね。
「やい、ナガソデやい。ナガソデやい」
などと云い、囃し立てる分には我慢ができます。自分が心底嫌でしたのは、自分の長袖を捲りあげられそうになったことです。嫌がる自分を一人は後ろで羽交い絞めの要領で押さえ、他の子供達が袖を捲ろうとするのです。あの時、先生がいらっしゃってその子供達を叱って頂けなければ、自分はどうなっていたか判りません。恐らく瘤を見られてしまったら、気が触れてしまったのではないかと思います。
そのような調子でありましたから、当然のことながら小学生の頃は学友も出来ず、鬱々とした毎日を過ごしていました。嗚呼、この瘤さえなければ、醜い忌々しい瘤さえなければ。そうすれば他の皆と一緒になれるのではないかしら、いっそうの事お医者様にお願いして、切り取ってしまいたいと考えもしたのです。しかし、たった一つのお母さまのお言葉の記憶が其の瘤にはある様な気がしまして、或いはおぼろげなお母さまとの繋がりを感じて、思い切る事ができなかったのです。
然しながら、自分も中学、高等学校とあがるにつれて、瘤のことは隠しつつ普通の人間として振舞うことが出来るようにはなりました。そうしなければ、あまりにも自分が辛いからです。ですが、瘤のことを人に隠して、真人間を演じているのですから、心暗く、浅ましく、おお、厭だ、自分は世間様を欺いているという思いは常にありました。
ですから、普通の方々とお話をさせて頂く際にも、決して目を合わそうとはしませんでした。いえ、人様の目を見て話すと自分の瘤の事を見透かされるような、その様な気がしていましたので、目を合わせる事など自分にとってはとんでもない事だったのです。自分はとても、他の方々と一緒に生活をさせて頂ける資格のある人間ではございません。
その様にして、二十数年間生きてきたのです。瘤さえなければ、外見には自分も真人間のふりをできるわけですが、実際はそれどころではないわけです。己の羞恥から隠す事のできる瘤ではなく、手足が無い、逃げようの無い、その様な不具であれば世間様の同情も頂戴できるのですが、自分はそうはいきません。
大きな瘤を右手に生やした、忌まわしい人間なのです。この様な自分であるならばいっそう、不具にでもなってしまいたい、その方が幾分か救われるのではないかしら、そう考えることも多いのです。
そうしますと、或る日の夢の中でのことでした。顔はうっすらと靄がかかっていましたからよく判らなかったのですが、きっとお母さまに違いない女性が夢に出てきました。自分はお母さまのお顔は覚えてはいないのですが、夢の中のお母さまは、この様なお母さまに違いないと自分が以前より思い描いていた、正に其の通りの美しく、儚げな、それでいて慈悲深い笑みを自分に与えてくれる女性、お母さまでした。但し驚くことに、お母さまには、両手と両足が根元から無いのです。不具、まさに自分がいっそう、そのようにありたいと思っていた姿のお母さまであったのです。
「洋ちゃん、洋ちゃんや、そんなに、お辛いなら、お手と、お足を、お母さまのように、切っておしまいなさい」
夢の中のお母さまはふわり、ゆらりと、たゆたいながら優しくおっしゃいました。夢のなかでしたが、自分はいつの間にか手に出刃包丁をもっていました、それをそおっと、右手に当てようと思ったのですが、その、痛さ、辛さ、想像しただけで、恐ろしく、怖くなった自分は、お母さま、ごめんなさい、出来ません、ごめんなさい、ごめんなさい、洋三にはそのような事は出来ません、申し訳ございません、とひたすらお母さまにお詫びを申しあげていたところで、夢から覚めました。
嗚呼、自分は夢の中で己の望んだ不具になることも出来ず、死してこの世の中から消える勇気も在らず、ただ、ただ、真人間の振りをして、これからも未来永劫にわたって世間様を騙し、唯々諾々と生きていくしかないのでしょうか。畢竟、とても暗澹たる気持ちになります。




