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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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雨の滴とエマと黒電話

 二時間前に突然降り出した強い雨は、わたしが雨宿り代わりに寄った駅の構内にある本屋でファッション雑誌を読んでいた間に、止んでいたらしい。先程まで横殴りだった雨模様が、わたしを騙していたかのように、頭上には黒みがかった群青の絵の具で均一に塗って、白い飛沫をデコレートしたと見紛う星空が広がっていた。別に珍しい事ではなく、そういったことも日常には多々ある。わたしだって、そんなことで一々、何かを感じるほど子供では無い。ただ、既に摩滅して使い道がなくなってしまった大人としてのわたしは、必死になって、それを感じたかったのかもしれないけれど。


 すこし、顔をあげて空を見上げる。電線から、滴がおちて、わたしの額に降った雨の落とし子は、眉間を通って、わたしの視界を遮る。その滴に混じって、涙を流していたのに、ふと気付いた。


 その日は、今まで勤めていた会社の退職日だった。数年に渡って朝の六時に起きて、都内有数のラッシュに揉まれ、高層ビル街の一角、ビルの中にある切り取られたような四角いフロアで、定時に仕事を始め、終わらない定時まで事務処理に追われる毎日。いっそう、前のまま歯車であった方が、楽ではなかったか。それは、歯車であるという悦楽、換えが利くという自堕落的な感情、そして何時でもそこから抜け出せるという安心。

 そんな、平々凡々たる日常が懐かしい、と早くも思うようになってしまったのだろうか。自分の肩にかかる重圧、逃れられない、逃げ場の無い、そんな日常だというのに。


 自意識の過剰、被害者の妄想。


 そう取られても構わない、感じているのはわたしなのだから。わたしが見て、感じて、触れることのできるものだけが、わたしの世界。それだから、世界はわたしを中心にして、それぞれの人々が中心になった世界が河原の大小様々な小石のようにぶつかり合って、そして皆の世界はそれぞれを削りあいながらも、交わって溶ける事は、決して無い。


 明日からは、何をしよう。そう考えながら、ここ数年でただの寝床と化した部屋のドアを開ける。東中野駅から程近いマンション、入居は大学を卒業して社会人の一年目。今ならば恥ずかしい、夢や希望といった形にならない、具象としての価値も無い、そんなものを抱えていたような気がする。そのような記憶もある。

 いつからだろう、それを無くす事が大人になること。違う、それを持たなければ、きっと楽だと気付いたのは。目の前の、仕事をこなして、そして家に帰れば掃除と洗濯をして、何も考えない。思考停止、何をしたいかなんて、どうでも良い事。


 誰が責められる。


 誰が、わたしを責める資格があるというのだろうか。


 両親が居たのならば、何か言ってくれただろうか。既に、二年前に、父親は癌で他界してしまった。母親は去年、横断歩道を通行中に赤信号を無視して突入してきた、若葉マークのついた営業車に轢き殺された。通夜を二度、葬式も二度、墓地への埋葬も二度、わたしは涙をだそう、流さなければと努力したものの、そのようなものは一滴も流れなかった。

 姉妹は居ない、恋人も居ない、社会というネットワークの中に、わたしを関係付けていたのは今まで勤めていた会社だったのであろうか。そこが、わたしの居場所。接続点を無くしたわたしは、枝葉の末節にもならず、枯れた巨木から、振り落ちる木の葉になるのだろうか。落ち葉になったとして、大地への還元を果たすまでも無く、恐らく風に流されて、嫌々ながら落ちるわたしという葉は、その中途で粉々になってしまうのだろうか。


 部屋に入ると、黒い毛並みの猫がわたしに向かって走ってくる。全身が黒い毛並みなのだが、額に一部分、白い毛の生えている部分がある。そこが蝶々の形をしている事に最近気がついた。蝶、いや蛾かもしれない。その白い部分に、毒々しい模様が浮かんでくる、何かの粉を撒き散らかして、動くはずのない翅を動かそうとしながら。

「ただいま、エマ」わたしは、呟く。そうすると、猫にしては人に懐きやすいエマは、わたしが玄関に腰を下ろして靴を脱いでいると、爪をあまり立てない具合で背中から肩に上がってくる。そして、リビングへ向かう廊下では、歩いているわたしの両足の間を器用にくぐってついてくる。


 邪魔だ、厭らしい、汚らわしい。


 エマは住んでいるマンションの前を通る道路、それほど広くは無いが車二台はすれ違える道の脇に、捨てられていた。電柱の影、塵捨て場からニ、三メートル離れた場所でダンボールの中に蹲っていた。タオルが引かれていた訳でもなく、食料があった形跡も無い。ただ、ダンボールの中でじっと死を待っているように、わたしには見えた。


 ああ、この猫はわたしと一緒だ。


 哀れみ、同情、憐憫、偽善。


 エマをわたしの部屋へ迎え入れてから、わたしは何か変わったのだろうか。何かと触れ合うという事、繋がっているという実感、意思を疎通できる、わたし意外の何か。

 それが必要だった時期なのだろう、或いはそれを欲していたのだろう。わたしは、自分が思っているよりも、弱い。弱いから、強くなろうとする。足掻いて、強くなりたいと願う。初めから強い人というのは、きっと結果としては弱くなる。

 でも、違う。弱いわたしは、やはり弱いのだ。取り繕っても、強さを纏っても、壁を作っても、弱いものは弱い。それを、誰かに、分かって、欲しかった。理解して、欲しかった。


 わたしはエマをリビングに残して寝室へ入り、クローゼットからスラックス用のベルトを持って再びリビングへ戻る。エマはきっと空腹なのだろう。ソファの上から、わたしに何かを期待した目線を向ける。


 やめろ、そんな視線を向けるな。


 キャットフードを片手に持ちつつ、エマを呼んで、ボールに入れられた食事を食べているエマの、わたしの両手でも掴めてしまうほど細い首へ、今日していた黒いベルトを絡めて、わたしは両端を、筋肉が痺れの悲鳴を上げるまで引っ張る。エマは前足を突っ張って、あ、額の白い模様は、紋白蝶だ、泥濘を流してある筒から、空気が漏れるような、泣き声、断末魔を数秒、厭よ、わたしへの哀願、命乞い、助けて、助けて、助けて、助けて、お願い、わたしを助けてよ。


 フローリングに座っているわたしの前には、冷たくなったエマという猫。

 わたしは、何にも、繋がらなくなって、しまった。でも、違うよね、きっと、わたしは、まだ繋がっているよね。誰かが、わたしを求めてくれる。エマはわたしを求めていた、求めていたじゃない。


 アンティークなところが良いね、褒めてくれたのは初めてこの部屋へ来た男性、会社の同僚。ベッドでの一幕、一晩だけで終わった関係。彼はいま、何をしているのだろう、そんな、黒電話。電話をかけることなんて殆ど無い、電話をかかってくるのを待っているだけの、電話。わたしは、その電話のコードを部屋の真ん中まで持ってきて、電話の前に座る、膝を抱えて。ふと、耳を澄ますと、外からはエマではない、猫の鳴き声が夜風に乗って響く。いつまでも鳴いていて、わたしの為に鳴いてよ。そして、きっと、この電話は鳴る、わたしはまだ繋がってる、きっと一人じゃない。いつまでも、いつまでも、わたしは、電話が鳴るのを待ち続ける。

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