放射性物質の壊変定数
咳き込んだ僕の顔を、彼女は隣の席から覗いたようだった。カウンタの席には僕ら以外に誰も座っていなかったけど、僕と彼女は照明が諦めかけているカウンタの端に座っていた。
「どうしたの。風邪なの」
「或いはね」
「厭だわ。気をつけて」
彼女はグラスを傾けた。
「それで話の続きは、どうなったの」
「どこまで話たっけ」
「夕焼け」
僕も彼女の真似をしてグラスを傾けた。思いのほか少なくなっていた。
「ビルの屋上から、夕焼けが見えたんだ。それほど高いビルじゃないけどね。それでも、町並みの向こうに沈んでいく夕日が見えた。はじめのうちは眩しいくらいだったのに、僕がうっかりしていると、雲の合間に隠れてしまって、それからはもう、いままで僕に向けていた灯りを、手を伸ばしたみたいに地平線に広げ始めて」
僕はひと息ついた。
遠くの景色を眺めているみたいに、彼女は僕を見ていた。
「そうしたら橙なんだ、空の下の色が。そのときの僕は、きっと、夕日に置き去りにされてしまったって、哀しんだのだと、思う」
「哀しんだの、本当に」
「うん、哀しかった。だから僕はビルから飛び降りようとした。この屋上から夕日を追いかけようとしたら、それしか考え付かなかったんだ、僕には」
僕はグラスをカウンタのテーブルに置いた。音がしないように置いたけれど、それでも彼女の耳には入ってしまったらしい。彼女は一瞬だけ僕からグラスに視線を移して、そしてまた僕へ戻した。
「でも、貴方はここに居るわ」
「そうだね」
「飛び降りたりしなかったのだわ」
「だろうね」
「それは、何故」
「何故、っていう、その理由を知りたいから。きっと、その為だけに僕らは生きているのだとしか、僕にはそれ以上、判らない」
彼女はつまらなそうに微笑った。
それからは会話も無く、バーを出て、わざと陳腐なホテルへ行き、そして翌朝になって別れた。それから二週間後、噂で彼女が自殺をしたと聞いた。彼女は僕が未だ知らない「何故」の答えを、知っていた、それとも、知ったのだろうか。もしそうだとしたら、と憶測をして僕は彼女を羨んだ。




